終話 after that
僕は街の中央広場にある時計台の前で、一条さんと待ち合わせをしていた。
その古めかしい時計台は、日々時を刻み、広場の中央に建っている。程よい高さと周囲に遮蔽物がないことから、待ち合わせの場所として重宝されていた。
僕はその脇に設置されている木製のベンチに腰掛け、まだ姿が見えぬ待ち人を案じていた。
「大丈夫かなぁ」
彼女には『きちんと』方角を示し、地図を渡した。何度も何度も『時計台』の写真を見せた。
脳内地図は完璧なはずだ。
でも。
どうしても不安がぬぐえない。
「後三〇分くらいしても来なかったら、『迷子』扱いで探さないとなぁ」
僕はその覚悟もひっくるめて、彼女の提案に乗った。
「いい加減、行動範囲を広げたい」
それを言い出したのは誰あろう、一条さん本人だ。
彼女のその一言は、僕の全身全霊を尽くした説得でもひっくり返せなかった。
そんな一条さんの方向音痴は筋金入りだ。
いや。
筋金なんてもんじゃない。きっとダイヤモンドかそれ以上だ。
「何も急に直そうなんて思わなくてもいいのに」
僕は独り言ちた。
一条さんが道を迷う様を見るのは楽しい。
一緒に歩いていて、道が分岐する度、どっち? と迷子のような顔をする。
──まぁ、一条さんは嫌なんだろうけどね。
逆の立場なら確かにそうだろう。
いちいち誰かに方角を聞かないとどこにも行けない。一条さんはそれを隠そうとする。
たとえその相手が僕であってもだ。
──一人くらい、弱みを見せてもいいと思うんだけどなぁ。
一条さんは、方向音痴以外は完璧だ。学業然り、運動然り。
容姿端麗、頭脳明晰。
僕なんかと比べものにならないモノを、彼女は既に持っている。
そんな一条さんの唯一と言っていい弱点が極度の方向音痴だ。
僕の立場で言うなら、それは『一条さんの魅力』の一つだと思う。
それくらい一条さん=方向音痴という図式は、僕の中では一致している。
──さて。
僕は時計台が示す時刻を見た。
──三〇分経ったな。
僕はベンチから重い腰を上げた。
付き合いだして丸三年。
一条さんの方向音痴の傾向も大体読めてきた。
──今頃はどこにいるかな。
僕は、北を向いた。
一条さんの自宅はそこから東に一〇度。
僕は目だけでその方角を見た。
そして口元を上げ、肩を竦めた。
軽くため息。
──迷子にはならずに済んだな。
「て、徹也ぁー……」
疲労困憊。そんな形容がぴったりな様相だった。
「どうよ、ちゃんと着いたわよ……」
苦節三年。
一条さんは、見事自宅から三キロ離れた街の中心部に、自力で辿り着いた。
快挙と言ってもいいだろう。
「千寿、頑張ったね」
「う……ふんっ!」
一条さんは顔を赤くして明後日を向いた。
照れているらしい。
「三年前、下の名前で呼べって言ったのは千寿だよ?」
「うう……」
方向音痴を克服しつつある一条さんの次の課題が決まったようだ。
「まだ慣れない?」
「ふん、だ!」
一条さんは更に明後日を向いた。首がねじ切れそうだった。
──やれやれ。
僕は肩を竦め、一条さんの手を取った。
一条さんの体がびくっと震える。
「な、何よ」
「いえいえ、姫様がお疲れのご様子なので、エスコートをと思いまして」
「え、いやその」
一条さんは再び顔を朱に染め、今度は下を向いた。
色々忙しいなぁ。
「とりあえず、一休みかな? あそこのアイスコーヒー、僕がおごるよ」
「と、当然でしょう? 私は大変だったんだからね!」
「はいはい」
「はい、は一回!」
「はい、はい」
「もう……」
僕たちは手を繋ぎ、全国チェーンのコーヒーショップに向けて歩き出した。
ふと、一条さんを見る。
「な、何よ?」
上目遣いに睨まれた。
──顔真っ赤にして睨まれてもなぁ。
苦笑する。
「あんた、今私をバカにしたでしょ!」
──いいや。
僕は真っ正面から一条さんを見据えた。
「そんなことはないよ」
「いいえ! 絶対バカにしてた」
「してないって」
そんなやりとりをしつつ、僕たちは歩を進める。
その歩みには、もう、迷いはなかった。
了