第六話
達也は常人を逸する己の能力や、幻視がこの数日間で著しく鮮明度が増したこと。
また現世界と異世界の視覚チェンジの様子や父も自分と同じ能力を持っていた可能性を父の失踪前後の奇妙な行動から説明していった。
1時間にもわたる達也の吐き出す様な語りは常人が聞いたなら奇人の戯言と映ったであろう、しかし早坂教授はそれに細かく頷き また驚きに満ちた表情で聞いてくれた。
達也の叫びにも似た吐露は終わった。
沈黙が続いた 教授は息を整えるが如く瞑目していたが暫くして顔を上げ達也を見据えた。
「達也君、よく話してくれた さぞこれまで思い悩んだことだろう、しかし君の今の語りで糸口めいたものを掴んだ様な気がする、しかし正直言って真理の入口辺りにようやく立てた、そんな程度なのじゃが…。
発端はどこにも例の無い君の脳構造に興味を持ち、それが突然変異なのか遺伝なのかを探るためまずは遺伝子調査より始めていったのだが。
この数週間君の血液をもとにいろいろな角度からゲノム分析を行ってきた。
ゲノムの全塩基配列を解読することを目標としたゲノムプロジェクトのことは君も知っておろう、しかし現在完了しているのはゲノム配列決定であり内容の解読は未だ完了してはいない…。
全ゲノム情報の解明は網羅的解析による生命現象の理解の基盤となるものであろう、しかし塩基配列を読み取っただけでは生命現象の理解には不十分で、個々の塩基配列の機能や役割、発現したRNAやタンパク質の挙動などを幅広く検討していかなければならない。
ゲノム解読以降の研究を総称してポストゲノムと呼んでいるが、これに対応するバイオインフォマティックスという分野の研究も現在各国の研究機関で盛に行われ儂の研究所でも進めておる、現状の進み具合からそれほど遠からず合成生命の誕生に行き着くことも出来ようか。
さすればそれら総合技術を以てすれば君の特殊な脳も次第に解き明かすことができよう、しかしそれまで待ってはいられぬ差し迫った状況を君の今の語りで理解した。
さて どうしたものか…。
研究は未だ不完全ではあるが現状解っていることだけでも聞くいていくか」
「はい!、ぜひ教えて下さい」
教授は達也の懇願する真剣な眼差しに気圧されたのか戸惑いの眼差しで口を開いた。
「先日採取した君の血液を最先端のゲノム分析にかけた結果 雑種第二代の減数分裂での染色体対合を観察し、ゲノム相同の程度を計算すると驚くべき事に1/4比率で君は現生人類と完全なる別系統人類の混血種であるということが解った…。
つまり現生人類の遺伝子75%と完全なる別系統人類遺伝子25%の混血種と言うことよ。
この遺伝子の受け継ぎは、先の話から鑑みれば君の祖父は別系統人類であったということは紛れもないこと…」
(別系統人類…)達也の目が大きく見開かれた
「教授、別系統人類って それは人間ではないということですか!」
「いや、そうではない…人間の定義以前の問題よ、君の遺伝子の25%はホモ・サピエンス・サピエンスではないということ、またジャワ原人・北京原人・ネアンデルタール人などの系統遺伝子でもない、言うなれば未知の遺伝子と言った方がよいのか…。
この未知遺伝子の基礎部分は人類共通のホモ・サピエンス・イダルトゥであることから人類には間違いはない、言えることは遺伝子情報より太古の昔アフリカの地より出でて、面々とその血を受け継ぎながら地球上に拡散していった我々現生人類ではないことだけは確かなのだ…。
君の祖父の先祖は今から16万年以降にアフリカの地を出てこの地上に拡散せず何処かに消えた人類と言えよう、また君の脳構造から考察すればその純粋種は君を遥かに凌駕する脳構造を有し天才という概念では論じられぬ超人類であろう。
以前君に言ったと思うが…。
この十数万年の間に現生人類ホモ・サピエンス・サピエンスが偶然に誕生したならばさらにそれを遥かに超えた高等人類が出現する偶然を否定出来ようかと、もしそのような高等人類が誕生し今も存在するとしたならば我等現生人類はアリと同様に知覚することさえ叶わぬとな。
君の祖父の先祖はアフリカの地を出でてのち 消えたのではなく我等下等現生人類には知覚することさえ叶わぬ超高等人類として現在もこの地球上に存在すると考えるべきでは…。
君の遺伝子にはその超高等人類の遺伝子が1/4含まれている、その証拠が君の脳構造でありまたその天才性に見られる。
我々には見られぬ不可解な幻視 その幻視を君だけが垣間見ることが出来る、それは君の脳が超高等人類に近いからと考えれば疑問は消えようか。
君にだけ知覚できる幻視空間 それこそが超高等人類の住処!。
この地球上に我々が想像もつかない異世界空間が存在する、これは先程の君の吐露から得た儂の感想じゃがな…」
(異世界空間…)教授の言葉を聞き達也の動悸は激しくなっていった。
「では私が見た幻視の正体とは…祖父ら超高等人類が暮らす世界…」
達也は絶句し天井を見上げた。
そんな馬鹿なと思うも達也が朧に感じていたことを教授は代弁したのに過ぎない。
達也は数日前より何故かこの回答は解っていた…そんな想いが教授の言葉で惹起されたと瞬時に感じたのだった。
「まっ、調べてみたまえ君の家の家系は祖父以前の代は無いはず そうでなければ遺伝子比率1/4は有り得ない。
そうなると別系統人類である君の祖父はどこからやってきたのか…それは君の言う幻視の世界から何らかの理由で落ちてきたと考えるべきか…。
今となっては本人が他界し火葬に付されているのであればその遺伝子を探ることは困難であろう。
これを確固とするには祖父の生体試料有れば申し分がないが遺品…例えば毛髪か爪、或いは皮膚の一部でも存在すれば解析には困難を極めようが不可能ではない、達也君 無駄かもしれぬが一度祖父が残したものを調べてみてくれないか」
達也はいくぶん動悸が落ち着いてきた。
「分かりました一度実家で探してみます、それと私の兄ですが…兄の遺伝子を調べる必要はないのでしょうか」
「たしか先程の君の話しでは兄さんは一般人の様な気がすると言ってたね、それは遺伝子法則から考えれば別系統人類の祖父AAと現生人類の祖母aaから雑種形成父Aa種が誕生し、父Aa母aaからもし君が言ったとおり兄さんが一般人であれば君はAaであり兄さんはAaもしくはaaということになるであろうか。
遺伝比率から見て祖母と母はAAでは有り得ず現生人類と断言できる、よって君の兄さんはAaでありながら君と同様に一般人を装っているか或いは単なる一般人aaなのか…遺伝子情報を解析すればすぐに分かる事。
しかし今の君の悩みからしたらそんなことは取るに足らぬ事、今君の最大関心事は祖父は一体何者でどこからやってきたのか、また父はどこに消えたかであろう、
まずは祖父の遺品よりゲノム分析を行い祖父が現生人類でなく別系統人類の純粋種であることを確認せねばなるまい、異世界の話しはそれから考察していっても遅くはないのでは」
「わかりました、至急祖父の遺品を調べてみます」
それから3時間後に達也は病院を後にした。
MRI検査・脳波検査に時間を費やし、また予期しなかった脳血管障害診断までさせられ辟易したが、これも己を知るためと達也は耐えた。
そして検査が終了したとき再度部屋に呼ばれ「視覚チェンジはよいが、くれぐれも異世界に行こうなんてことは絶対するな」と早坂教授に釘を刺された。
達也は首都高を両国JCTに向かって走っていた。
(さて、これから実家に向かおうか…)時計は7時35分をさしていた。
(実家に着くのは8時を回り遅い時間と言えようか、昨日に続き今夜も遅くに訪れたなら母や兄は何事かと訝るだろう)
達也は今自分の身に起きている問題を母や兄に話す気はなかった、それを話さずして祖父の遺品…特に血液付着品とか毛髪や爪など残ってないだろうかなどと問いかけるはいかにも怪しい。
(教授に遺品収集を快諾したが容易いことじゃないな)と考える内に両国JCTが目の前に迫ってきた。
(方法を考えねば、実家に行くのは日を改めるか)ハンドルを切り自宅のある向島方面へと車線を変えていった。
早坂教授を訪れた日から一週間が経とうとする日曜日、教授からまたもや催促の電話が入った。
「実家に祖父殿の遺品で遺伝子検査が可能なものは見つかりましたか」である。
正直あれから実家には訪れてはいない、母にどう切り出してよいやら その躊躇が実家への道のりを遠いものにしていた。
「まだ見つかりません、今日にでももう一度探してみます」と応え電話を切った。
(まいったなぁ、ええいこうなったらあたって砕けろか)
「志津江、ちょっと兄さんに会ってくる」そう言って達也は服を着替えだした。
「義兄さんに会うって 何か急用でも有るの」
「いやなに、兄さんの病院で新規にMRIを導入する計画があるとかで…出来れば我が社も参入できないものかと思ってね」
「義兄さんそんな話に乗ってくれるかしら」
達也と兄が不仲なことを知っている志津江は訝しい顔つきで靴下を持ってきた。
「あたって砕けろさ」そう言いながら差し出された靴下を履いた。
自宅の南千住から中野の実家までは20kmほど、下道で行って45分ほどだが今日は日曜日、1時間以上は係ろうか、そんなことを考えながら車に乗り込んだ。
昭和通りに出て上野方向へ向かう、やはり道路は混んでいた。
信号のタイミングが悪く信号が有る度に停車を余儀なくされた、達也は携帯を取り出し実家に電話を入れた。
「あっ、お母さん 新宿近くに用事があって出てきたから40分後にちょっとそちらに寄るよ」
「これからかい、でも兄さん夫婦は今日は朝から出かけていて家には私一人だけど…」
「いいんだ、ちょっと寄るだけだから」そう言って電話を切った。
達也はしめたと思った、兄夫婦がいたらどう切り出そうかと想い悩んでいたからである、母一人ならそれとなく切り出せるであろう。
クラクションの音で達也は我に返った、前を見ると信号が青に変わっていた。
玄関の引き戸が厭な音を立て重かった、実家は築60年の古屋であちらこちらにガタが来ていた、また玄関までの竹垣も達也が子供の頃のままで方々が朽ちていた。
玄関を開けると母が出迎えていた。
達也の開口一番は「お母さん、玄関の引き戸はなおさないといけないね」である。
「そうね、あちこち傷んで最近は雨漏りも酷くて…」
「兄さん稼いでいるのに何してるんだろう」
言いながら玄関を上がる、居間に続く廊下も歩く度に軋み音が洩れた。
「孝夫は病院建設で今は頭が一杯なのよ、リホームなんか考えるゆとりなんかないわよ」
「ふーんやっぱり独立するんだ、姉さん大変だろうな」
「先日も資金は銀行が貸してくれるって喜んでいたけど どうなることやら、この土地を担保にしても幾らにもならないのに、今日は夫婦して和子さんの実家のお父さんに保証人のお願いに行っているみたい、恥ずかしいわよね あの子は分相応に生きるって事分かってないんだから」
居間の応接椅子に座った母は憤慨顔で達也を見詰めた。
「達也、最近ちょくちょく来るけど まさかお前には問題は無いわよね」と探る様にみつめた。
「いやだなぁ、俺は母さんに無心することなんかないよ、おかげさまで会社も何とかうまくいってるしさ」
「だったら兄弟なんだから孝夫に資金の一部でも貸してあげればいいじゃない」
「お母さん冗談言わないでよ病院建設に幾らかかると思うの、億だよ…そんな余裕有るわけ無いじゃない」
「それもそうね、でもそんな大金借りるなんて…もし失敗したらどうするのかしら、この歳して夜逃げするなんて私まっぴらだからね」
「母さん、案ずるより産むが易しって言うじゃない、気の小さい兄さんが勝算のないことなんてするわけないんだから」
「そうかしらねぇ ところで達也、今日は何しに来たの」
「いやだなぁ、用がなければ来ちゃいけないの」
「そんなことはないけど、お前この間来たばかりだから」
「うん、今日は爺ちゃんの遺品がどこかに残ってないかなって思ってさ」
「遺品…あなたお爺さんが亡くなって何年たつと思ってるの、もう30年近くもたつのよ」
「いや物じゃなくて、例えば毛髪とか爪とか…」
「いやだ、そんなもの何に使うの」母は訝しげに達也を見詰めた。
「うん、今度遺伝子検査の機器取扱いを始めようと計画しているんだけど…機器に慣れるため試しに我が家の遺伝状況を見ようと思ってね」達也は咄嗟に思いついた出任せが口をついて出た。
「変なの、達也や孝夫は私とお父さんの子だからね、ひょっとして…おまえ疑ってるの」
「何言ってるの母さんは、俺も兄さんも顔体つきは父さんそっくりじゃない、これをどう疑うの」
「そっか、そうだよね そう言えば仏壇の奥に確かお爺さんの遺髪が仕舞ってあったと思うけど」
言いながら母は仏間に向かった。
遺髪とは…達也はものは言ってみるものと予期せぬ成り行きに顔がほころんだ。
すぐに母は白い和紙にくるまれた包みを持って居間に戻ってきた。
「これだけど ほんの少ししかないよ」言いながら包みを達也に差し出す。
手渡された包みを達也は丁寧に広げていく、そこには長さ10cm程の毛髪が束にしたら5mm程の量がくるまれていた。
「これだけあれば充分だよ母さん、それとね我家の家系図ってあるのかなぁ」
「家系図…さて そんなもの見たことも無いけど」
「そうだよね、俺も子供の頃からそんなの見たことが無いから それから仏壇の位牌も爺さん以前のものは無かったよね、となるとうちの家系は爺さん以前は空白ってことになるけど…」
「空白って、まさか地から涌いたわけはないでしょ…。
昔お婆さんから一度だけ聞いた話だけど、お爺さんは昭和19年に満州から引き上げてきて戦後すぐにお婆さんと知り合って結婚したらしいの、でも結婚式は戦後の物のない時代だから出来なくてね、あっそうだ!お爺さんの親兄弟や親戚縁者は全員満州で亡くなったって話だったのよ」
「ふーん、満州からねぇ じゃぁ天涯孤独の身で日本にやって来たんだ、でも位牌くらいは持ってても不思議はないんだけどな まっいいや、母さんこの遺髪少しの間借りますね」
そう言うと達也は椅子から立ち上がった。
「おや、もう帰るのかい せっかく来たんだからもう少しいなさいよ、志津江さんや一翔ちゃんの近況も聞きたいのに」
「ごめん母さん、今から会社に行かなくちゃならないんだ、今度また兄さんや姉さんが居るときに来るよ」このとき達也は思わず手に入った毛髪のことしか頭にはなかった。
いつもの様に母は角を曲がり消えるまで車の後ろを見詰めていた。