↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/25

第七話

 祖父(そふ)の毛髪(もうはつ)を早坂教授に託してから3週間が過ぎようとしていた。

夏の盛りも過ぎ九月に入ったある日 達也は早坂教授に呼ばれ東都大学病院の門をくぐった、時間は午前11時半 もうすぐ昼休みに入るこんな時間を指定するとは、達也は首を傾(かし)げながら受付に再来を告げた。



「達也君、預(あず)かった毛髪から遺伝子抽出(ちゅうしゅつ)を行い現在ドラフト配列の解読(かいどく)に取りかかってはいるが これにはそうとう時間がかかりそうだ、ただこれまでに分かったことはゲノム解析や塩基配列(えんきはいれつ)の特異性(とくいせい)から君の祖父はやはり現生人類(げんせいじんるい)でなく別系統人類(べつけいとうじんるい)と言うことが判明した。


じゃが不可解(ふかかい)なこともあってな…遺伝子数が現生人類より数がきわめて少ないのよ。

現生人類の遺伝子数は2万1787個とされ個人差などで多少の変動は見込まれるが…君の祖父の遺伝子数は2万にも満たないと推測(すいそく)されるんだ。


この遺伝子数が少ないという判定は まだ遺伝子解読(いでんしかいどく)が進んでいなかった15年前であれば現生人類より下等な生物と判定されたやもしれぬ。


しかしゲノム研究が進みイネ科植物の遺伝子がヒトよりも多いことや、下等生物と考えられていたウニの遺伝子数がヒトとほぼ同じで しかも70%がヒトと共通していることなどが判明した今日では遺伝子の数で進化の優位性(ゆういせい)をうんぬんする説は崩れてしまったがな。


君の祖父の遺伝子全貌(ぜんぼう)を見極(みきわ)めるにあと数年はかかろうか…海外のもっと大きな研究機関に持ち込めば期間はある程度短縮出来ようが…そうなれば人類学における世界的センセーショナルは免(まぬが)れまい、そうなれば君は研究対象として格好な餌食(えじき)となろう…儂はこれだけは避(さ)けたいのよ。


達也君、出来れば儂の研究所で密かに研究を進めたいと思っておるのだが…どうだろう同意(どうい)してもらえるだろうか…」


達也は急遽(きゅうきょ)呼ばれた要件(ようけん)はこの同意にあったのかとようやく理解した、人類学研究に於いて祖父の遺伝子試料は研究に携(たずさ)わる者にとっては垂涎(すいぜん)に試料であり、また画期的(かっきてき)な研究成果をもたらすものと瞬時に理解したのだ。


この秘密裏(ひみつり)の同意要件は老獪(ろうかい)な教授の独占欲から出たものか…それとも教授の言葉通り達也のプライバシーを慮(おもんぱか)ってのことか、こればかりは解(わか)らぬが達也は教授の濡れた瞳からなぜか前者であろうと感じてしまった。


「分かりました、全て教授にお任せ致します」


「そうか そうしてくれるか、ではこの件は儂に任せてくれ、誠意短期解読に努力してみよう、それとこのことは誰にも言わんでほしい どこから洩れるかわからんからのぅ 儂も研究員には抽出した試料はヒトとはまだ言っておらんのよ」


教授の憂(うれ)い顔に対比する老獪に濡れた瞳…。

人の心に奇妙な拒否反応を起こさせる教授の雰囲気は、言い換えれば嘘くささを紛々にまき散らしている表象(ひょうしょう)ともとれる、しかし達也は逆説的にそれを“信用に足(た)る”と置き換えてみた、それは学者にありがちな表現の稚拙(ちせつ)さゆえの表象であろうと感じたから…。


「教授、今日の御用件はそれだけでしょうか…」


「うん 儂だけに任(まか)せてくれる、そんな言質(げんち)を取りたかったから呼んだのじゃが…」

この己の思惑(おもわく)を簡単に洩らす教授に達也は苦笑を禁じ得なかった。


「しかしせっかく来たのだからもう少しいてもいいだろう、昼飯も用意したよってのぅ」

教授は嬉しそうに机の引き出しから弁当箱を二つ取り出した、それを持って応接机に達也を案内した。


「今朝妻に頼んで弁当を二つ作ってもらったのよ」そう言うとその一つを達也の前に差し出した。


「奥様が作った弁当を私なんかが戴いてよろしいのですか」


「昨夜妻に五十嵐の息子が今日来るって言ったらえらく喜んでのぅ、朝早くから弁当を作ってくれたのよ、儂一人じゃったら在り合わせを詰めるだけなのにのぅ」

弁当の蓋を開けその豪華さに教授は目を細めた。


「失礼ですが奥様は私のことを知っているのですか…」


「何言ってるの、君の家族とはむかし家族付き合いしとったのを覚えていないのかね」


「えっ、家族付き合い…」

達也は言われても全く覚えはなかった。


「それもそうか、君はまだ幼稚園にも上がってなかったからのぅ、兄さんなら覚えておるやもしれんな。


あれから40年近くにもなろうか…儂が東大から東都大に移籍(いせき)してからは家族付き合いも疎遠(そえん)になり君の親父さんとの二人だけの親交(しんこう)になっていったからなぁ。


君の親父と儂とは昔同じ高校での、クラスは違ったのじゃがラグビー部に入部して知り合ったのよ、当時五十嵐は学業もスポーツも優れておって…今思えば高校時代はそんな五十嵐に憧(あこが)れついて行くのに必死じゃったような気がする。


それ以降、五十嵐が東大の医学部に行くと聞いて儂は必死に勉強したものよ…そうそう大学院当時に春日通りに安い居酒屋が有っての、そこにお茶の水女子大の美女がよく来ると聞いて五十嵐を誘(さそ)いしょっちゅう入り浸(びた)ったものよ、君のお母さんと儂の妻はそこで射止(いと)めたんだがな・・フフフッ」


初めて聞く話に達也は戸惑(とまど)った、母や父からはそんな話など聞いた事も無かった。


「後から妻に聞いた話じゃがな、君の母さんや儂の妻は五十嵐が目当てでどうやらその居酒屋に通っていたらしいのよ、五十嵐は見ての通り日本人離れした端整(たんせい)な顔立ちで高校時代からもててのぅ、結局君のお母さんが五十嵐を射止めたのよ、そんでもって儂は一方のカスの方を貰ったということなんじゃがなハハハッ」


今日の教授は人が変わったかの様に楽しげに喋っている、試料の独占がそれほど嬉しかったのだろうかと達也は首を傾げた。



 昼食が済みコーヒーを飲み終えたあと脳波の再検査ということになった。

先日採取した21個の電極を国際10-20法に従って配置し採取解析(かいせき)した達也の脳波コヒーレンスが常人と若干挙動(じゃっかんきょどう)が異なっていたことから 再度電極数を3倍に増やし精密に検査をしたいというのが再検査の理由らしい。


一通りの脳波記録を終えたとき達也は時計を見た、針は2時半をさしていた。

今日は4時から年央マネジメントレビューの準備会議を予定していた、あと1時間半…充分に間に合うな、そんなことを考えながら電極を頭皮から外すのを待っていた。


その時 20代と思われる白衣を着た美しい女性が隣室から現れた、綺麗(きれい)な助手がいるもんだと達也はつい見とれてしまう。

その女性は達也の正面に回ると「お疲れ様、終わりましたから外しますね」と微笑(ほほえ)みながら電極に手を伸ばした。


「久我君、後は儂がやるから君は研究室の応援に回って下さい」

教授は少し冷淡(れいたん)な口調(くちょう)で女性の挙動(きょどう)を制(せい)した、女性は分かりましたと言いながら怪訝(けげん)な顔つきで部屋から出て行った。


女性が部屋から出て行き足音が遠ざかったのを確認すると教授は達也の正面に回った。

「達也君、どうだろうこのまま視覚チェンジをやってみないか、折角だからチェンジの際の脳波状況を観察しておきたいのだが…」


「視覚チェンジですか…」達也は再度時計を見ながら「どれほど時間が係ります」と聞いた。

教授の瞳が一瞬揺れる「なに20分も有れば充分だよ」


「分かりました、その程度の時間でしたら」


「いいんだな…では用意するからちょっと待ってくれるか、達也君くれぐれもチェンジだけだからね」と教授は念を押しながら脳波計を操作し 顔の挙動も記録するのかカメラを調整し始めた。


用意が整い教授は両手で顔を乱暴に擦ったのち緊張顔で「よし、始めようか」そう言うと脳波計を起動させた。


達也はゆっくりと目を瞑り意識を研(と)ぎ澄(す)ませた、そして目に力を込め瞼(まぶた)を開きながら視覚チェンジを行っていく。


視界全体が一瞬暗褐色(あんかっしょく)に染まり全身の毛が逆立(さかだ)った、顔に風が当たっている感覚に視神経(ししんけい)がピリピリと震(ふる)え始める。


教授は脳波モニターを見詰(みつ)めていた、合図(あいず)を送って6秒後突如(とつじょ)脳波が大きく振れた、教授はカメラモニターを横目で見る 達也の瞳孔(どうこう)が細かく伸縮(しんしゅく)を開始したのが分かった。


(始まったか…)教授の目は脳波モニターに釘付けになった、これから恐ろしい事が始まる そんな予感に指先が震えた。


突如(とつじょ)達也は椅子の肘掛(ひじか)けを掴(つか)むと顔を大きくのけぞらせると脳波の乱れはピークに振れた…これほどの乱れはかつて教授には経験が無かった、検査を中止しようかとスイッチに指をかけ戸惑(とまど)う。


数秒後乱れは何事もなかった様に静まった、教授は肩の力を抜き大きく安堵(あんど)の息を吐いた。


その頃達也はラピュタ地表十数メートル上に位置していた、あの天幕状(てんまくじょう)の建屋(たてや)すれすれの高さである、道路や広場が目の前にはっきりと見え そして通行人さえも…。


通行人…達也は目を凝(こ)らした、歩く人々は思い思いの方向に歩いている、それは日曜の渋谷の雑踏(ざっとう)に近い状況であろうか、達也は通行人の表情や衣装(いしょう)を見ようと目を細める。


その時ホイッスルの甲高(かんだか)い音が鳴り響いた、達也はその音につられる様に音源へと視線を向けた。


(…………あれは!)

視線の先に周囲の通行人とは明らかに異なる褐色(かっしょく)の一団が現れたのだ。

達也は目を凝(こ)らした、数秒後その一団が鮮明化したときまたもや体が恐怖でのけぞった。


その一団は全員茶褐色のボロ切れをまとい首枷(くびかせ)を嵌(は)められ数珠状(じゅずじょう)に繋(つな)がれた一団だった。

その数50人ほど…次第に達也が隠れている建屋付近へと近づいてくる、一団の表情は一様に暗く襤褸(ぼろ)切れの各所は赤黒く濡れ血液らしきものが滴(したた)っていた。


数珠繋(じゅずつな)ぎの中には疲れ果(は)てたのか病人なのか…歩くことさえ叶(かな)わず首枷(くびかせ)によって無慈悲(むじひ)に引きずられている者も数人見えた、それらは既(すで)に死んでいるのだろうか暗褐色(あんかっしょく)に黒ずんだ顔に口からは長い舌をはみ出させ引かれていた。


この目を覆(おお)いたくなる惨状(さんじょう)行列に周囲の人々は全く無関心といった体で思い思いの方向に歩いている。

(彼らにはあの行列は見えていないのか…)

行き交う人々の表情から達也にはそんなふうに思えたのだ。


数珠繋(じゅずつな)ぎの先頭がようやく達也の真下付近にまで近づいた、達也はその表情を見ようと目を凝(こ)らす、その時である 先頭の一人が達也の方向を仰ぎ見た、その瞬間 相手は驚いた様に目を見張った。


驚いたのは達也もだ、その者と目が合い一瞬で体が硬直(こうちょく)した それは見覚(みおぼ)えある瞳(ひとみ)と感じたからだ…しかしよく見るとその顔は全く知らぬ顔だった。


「逃げろ!」その時耳の際奥に微(かす)かな唸(うな)り音が聞こえた、(えっ何!)その声に体が震えた。

再びホイッスルが鳴った、先頭近くを歩く武器らしき物を持った一人が 数珠繋(じゅずつな)ぎの先頭を激しく打擲(ちょうちゃく)すると振り返りざまに達也の方を凄まじい視線で仰(あお)ぎ見た。


目が合った、その怒りを含んだ氷の様な冷ややかな瞳は一瞬で達也を凍らせる。

その時肩を激しく揺さぶる感覚に我に返った、達也はその場から逃避(とうひ)するが如く喘(あえ)ぐ様に視覚を戻していった。


激(はげ)しい目眩(めまい)と共に視野が暗褐色から明るい色に変化していく。

現世に戻った…途端に呼吸が苦しくなった、幻視界の恐怖は息することも忘れるほどの興奮の極にあったのか、まるで水底(みずぞこ)から浮かび上がった海女(あま)が空気を貪(むさぼ)る様に息を吸い込んだ。


「達也君大丈夫か!」教授はオロオロしながら達也の肩を揺すっていた。

「は、はい…もう大丈夫です、返ってきました」今の想いがそのまま口をついて吐き出された。


「君は何を見たのだ!脳波の乱れから危険を感じ慌てて揺さぶったのだが」


「はい…恐ろしい光景を見ました」達也は今見た ありのままの光景を教授に伝えた。


「奇(き)っ怪(かい)よのぅ…それは夢か現実なのか、脳波の乱れは確かに夢見中の脳波域を遥(はる)かに超(こ)えとる、これは一体…」教授は絶句(ぜっく)したまま硬直(こうちょく)しその場に佇(たたず)んだ。



しばらくして教授はぼそっと呟(つぶや)いた。

「こんな脳波など幾ら採取しても何の役にもたたん」吐き捨てる様に呟くと苛立(いらだ)ち顔で脳波計のスイッチを切った。


「達也君、せっかく時間を割(さ)いて脳波をとらせてもらったが…悪い、君の脳波は役にはたたん 解析しようにも前例無き脳波なんぞ幾らとっても答えなど見いだせんのよ、それほど君の脳波は変わっておる…」

そう言うと教授は肩を落とした。


「儂の能力ではやはり手に負えぬのか、君の親父さんの時と何も変わりゃせん、あれから15年も経(た)とうというのに儂は何をやってきたのか…」またもや独(ひと)り言の様に呟(つぶや)き達也を見詰めた。


「教授!、いま父の脳波を…」


「……そうじゃ、15年前失踪(しっそう)の二日前だったか 急に親父さんがこの病院に訪れ脳波検査をしてくれと言ってな…」


「そんなことが有ったなら何故今まで黙(だま)っていたのですか」


「いや、これは親父さんのプライバシーに関わる問題じゃから…。

それと当時 使ってた脳波計は今ここに有る脳波計に比べれば玩具の様なもの、記録した親父さんの脳波は検査不良と判断され再診するため後日親父さんに連絡したのだが…もう失踪(しっそう)した後だったんだ」


「その記録は今でも残っているのですか」


「すまん、余りにもパターンが出鱈目(でたらめ)なため機器故障と思い再診準備する際 廃棄(はいき)してしまったのよ、しかし今思えば君の脳波と同じパターンだったような気もする、はぁぁなぜ捨てたのか…今になって悔(く)やまれる」


その後、すっかり意気消沈(いきしょうちん)した教授には取り付く島もなく、達也は又来ますと言い残し東都大学病院を後にした。



 会社に向かうタクシーの中で達也は物思いに沈んだ。

分かったことは 早坂教授はもうあてにならないということ、遺伝子を調べようが脳断面を調べようが、はたまた脳波を調べようが前例がないことは分からぬ…そんな低レベルな捨て台詞(せりふ)を吐く様では。


先の教授の雰囲気から、際立った洞察力(どうさつりょく)や果敢(かかん)に未知の疑問を探求する慧眼(けいがん)の欠片(かけら)さえ見いだせなかったのだ。


確かに遺伝子から祖父が現生人類ではなく、また達也がその遺伝子を1/4受け継いでいることを突き止めた成果(せいか)には感心した…しかしそこまでである。


そこから先はいぜん闇(やみ)の中、あの悲観(ひかん)に暮(く)れる教授の姿から新たに解決の糸口が見つけられようとは達也には到底(とうてい)思えなかった。


天才でもない教授に幻視の悩みを話そうが、またいくらラピュタの実像を話そうが何の解決にもならないことは達也には以前より分かっていたはずなのに…何かに縋(すが)りたい、そんな心の弱さが教授を受け入れたのだろう。


もし早坂教授が真(しん)に頼(たよ)れる存在であったなら…父は孤独(こどく)の内に失踪(しっそう)はしなかったはず…。

もう教授を頼(たよ)るのは止(や)めよう そう思いながら達也は夕暮れ迫(せま)る街並みを見詰めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。