表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/13

第1話 骨董市の原器

「――如月くん、また試験に落ちたそうだね」


廊下の窓から差し込む秋の光の中で、教授の声はやけによく響いた。周りを歩いていた学生たちが、ちらりとこちらを見て、それから何事もなかったように視線を逸らしていく。如月蓮は、そのたびに慣れた様子で頭を下げた。


「はい……すみません。次こそは」


「体力測定も、射撃訓練も、剣術も。せめて一つくらい、平均に届くものがあってもいいと思うがね」


教授は呆れ半分、心配半分といった顔でそう言うと、軽く肩を叩いて去っていった。悪気はないのだろう。だが、蓮の胸の奥には、小さな石を飲み込んだような重さが残った。


東亜同文書院――日本人子弟が中国語や中国事情を学ぶために設けられたこの学校で、蓮はいわゆる「出来の悪い生徒」だった。体力測定では常に最下位。射撃訓練では的にすら当たらず、剣術の授業では木刀を構えただけで手が震える。柔道の組手では一投で背中から畳に叩きつけられる。何をやらせても人並み以下、というのが、この一年半、蓮に貼りつけられた評価だった。


けれど、蓮自身は、それをそれほど深刻に受け止めてはいなかった。少なくとも表面上は。


「まあ、いいさ。俺には俺の好きなことがある」


誰に言うでもなく呟いて、蓮は教室を出た。放課後の上海の空気は、埃っぽくて、油っぽくて、それでいてどこか甘い匂いがする。人力車の車輪の音、屋台の呼び込み、租界警察のホイッスル、遠くから聞こえる汽笛――上海という街は、いつだって雑多な音で満ちていた。


蓮の「好きなこと」というのは、この街の裏路地に広がる骨董市を歩くことだった。


***


租界の裏手、フランス租界と中国人居住区の境目あたりに、その骨董市は毎日のように立っていた。清朝の役人が使っていたという印章、古びた磁器の欠片、真偽の怪しい書画、錆びついた刀剣。並べられている品の九割方はガラクタで、残りの一割にすら偽物が混じっているというのが、蓮のここ一年半の経験則だった。


それでも蓮は、この場所に来るのをやめられなかった。理由は単純だ。分解して、仕組みを調べて、理解することが、蓮にとって何よりも面白かったからだ。


体を鍛えるのは苦手だ。剣を振るうのも、拳を握るのも向いていない。だが、目の前にある道具がどういう理屈で動いているのか、どういう構造でその強度や機能を発揮しているのかを考えることに関しては、蓮は誰にも負けないという妙な自負があった。


その日、蓮の目に留まったのは、露店の隅に無造作に積まれた、金属の塊の山だった。古い秤の分銅、度量衡の基準器と呼ばれるたぐいのものだ。清朝以前――あるいはもっと古い時代のものかもしれない。埃をかぶり、緑青を吹いたそれらの中に、一つだけ、妙に目を引く分銅があった。


拳二つ分ほどの大きさの、青銅製の分銅。表面には、蓮がこれまで見たことのない幾何学模様が、びっしりと刻み込まれている。円と直線が複雑に組み合わさり、まるで何かの図面か、あるいは文字のようにも見える。


「親父さん、これは?」


蓮が尋ねると、露店の主人は面倒くさそうに手を振った。


「さあな。祖父さんの代からある物だよ。どこから来たのかも分からん。度量衡の道具だと思うが、この模様は見たことがない。要らないなら他をあたってくれ」


「……いくらですか」


値段を聞くと、思いのほか安い。蓮は財布の中身を確かめてから、その分銅を手に取った。


指先が、ひやりとした金属の感触に触れる。


その瞬間だった。


蓮の頭の中で、何かがかちりと噛み合うような感覚があった。まるで、長年解けなかった数式の最後の一行が、突然理解できたときのような――そんな不思議な感覚。同時に、指先からじわりとした熱が伝わってくる。


「え……?」


驚いて手を離そうとした。だが、指がまるで分銅に張り付いたように動かない。青銅の表面に刻まれた幾何学模様が、淡く、青白く発光し始める。


「な、なんだこれ――」


視界が白く染まっていく。骨董市のざわめきが、まるで水の中で聞くように遠くなっていった。人力車の車輪の音も、屋台の呼び込みも、租界警察のホイッスルも、すべてが薄れ、消えていく。


(これは、夢か……?)


そう思う間もなく、蓮の意識は暗転した。


***


目を覚ましたとき、最初に感じたのは、頬に当たる乾いた土の感触だった。


「……いた……」


体を起こそうとして、蓮は違和感に気づく。骨董市の石畳ではない。周りにあるのは、租界の建物でも、上海の雑踏でもない。見渡す限り広がっているのは、乾いた黄土色の荒野だった。地平線の向こうまで、遮るもののない大地が続いている。遠くに、崩れかけた土塀のようなものが小さく見えるだけだ。


空気の匂いも違った。上海の湿った、油っぽい匂いではなく、乾いた土と、かすかな硝煙の匂いが混じっている。


「ここ、は……」


呆然と立ち尽くす蓮の手の中には、まだあの青銅の分銅が握られていた。だが、表面の幾何学模様の輝きは消え、ただの古びた金属の塊に戻っている。


蓮は混乱しながらも、周囲を観察しようとした。理解できないことがあっても、まずは情報を集める――それが蓮のやり方だった。だが、その思考は長くは続かなかった。


「――おい、そこの奴」


背後から、低くしゃがれた声がかかった。


振り返ると、そこには数人の男たちが立っていた。粗末な木綿の服に、腰には旧式の拳銃――蓮の目には、それがドイツ製のモーゼル拳銃を模した、いわゆる「駁殻槍バクコーチャン」と呼ばれる代物に見えた。錆の浮いた大刀を背負っている者もいる。目つきは鋭く、明らかに友好的な雰囲気ではない。


「見ない顔だな。この辺りの者じゃないな?」


男の一人が、値踏みするような目で蓮を見た。


「あの……すみません、俺は――」


言葉は、通じているようだった。中国語だ。東亜同文書院で叩き込まれた官話が、耳に馴染む発音で返ってくる。それがかえって、蓮の混乱を深めた。


(言葉は通じる。でも、この光景は、俺の知ってる上海の近くとは、全然違う……)


「金目のものを出せ。抵抗しなければ、命だけは助けてやる」


男たちがじりじりと距離を詰めてくる。蓮は反射的に後ずさったが、すぐに背中が土塀にぶつかった。逃げ場はない。


(体を鍛えてこなかったこと、こんな形で後悔するとはな……)


剣術も、拳法も、蓮には何一つ使えるものがない。せめて走って逃げられればよかったが、囲まれてしまってはそれもできない。


握りしめた青銅の分銅の重みだけが、やけに手のひらに残っていた。


「――大人しくしてろよ、坊ちゃん」


男の一人が笑いながら距離を詰めてくる。蓮は目を閉じることしかできなかった。


***


気づいたときには、蓮は縄で両手両足を縛られ、粗末な荷馬車の荷台に転がされていた。


がたごとと揺れる荷台の上で、蓮は状況を整理しようと努めた。あの分銅に触れた瞬間、意識が飛んだこと。目が覚めたら、見知らぬ荒野にいたこと。言葉は通じるのに、この辺りの地理も、この男たちの言い分も、蓮が知っている中華民国の歴史や地図とはどこか噛み合わない気がすること。


(郷勇、って言ってたな……本来は、村を自衛するための組織のはずだ。それが、こんな匪賊まがいのことをしているなんて……)


東亜同文書院で学んだ中国事情の知識が、頭の中で警鐘を鳴らしていた。ここは、蓮の知る一九一七年の中華民国と、似ているようでいて、何かが違う。まるで、よく似た地図の上に、少しだけ違う歴史を重ね書きしたような、そんな奇妙な感覚だった。


だが、今はそんなことを考えている場合ではない。荷馬車はどこかへ向かって進んでいる。おそらくは、この男たちの根城へ。そこで自分を待っているのが、決して穏やかな未来ではないことくらいは、蓮にも分かった。


(どうする……剣も使えない、拳も使えない、走って逃げることもできない。俺にできることなんて――)


そこまで考えて、蓮はふと、自分の手の中の感覚を思い出した。荒野で意識を失う直前まで、確かに握りしめていたはずの、あの青銅の分銅。


視線を落とすと、縛られた手の隙間に、それはまだあった。男たちは、蓮が武器を持っているとは思わなかったのか、ただの金属の塊として取り上げもせず、放置していたらしい。


(この分銅に触れたときだけ、確かに何かが起きた。この感覚は――)


蓮は、指先にわずかに残る、あの噛み合うような感覚を思い出そうとした。何かを「理解した」瞬間の、あの感覚。


もしそれが、偶然ではないのだとしたら。


もしこの世界で、自分にできることが、本当に何か一つでもあるのだとしたら――。


荷馬車の車輪が、大きな石を踏んで跳ねた。体が浮き、縛られた手首に鈍い痛みが走る。夜の帳が降り始めた荒野を、荷馬車は変わらず進んでいく。


蓮は歯を食いしばりながら、ただじっと、自分の手の中の分銅を見つめ続けていた。


---


(第2話「荒野の郷勇くずれ」へ続く)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ