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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第二十四話 御楯となりて

 六日目――安政五年三月十九日・京


 夜が、明けきらぬまま朝へ滲んでいた。


 水戸藩京屋敷の一室には、灯の匂いと、昨夜から絶えず焚かれている香の気だけが淡く残っている。雨は降っていない。けれど、夜の湿りが畳の目にまで沈み込み、人の息遣いさえ吸い取るような静けさがあった。


 鵜飼吉左衛門は、その静けさのただ中に横たわっていた。


 脇腹へ入った刃は深かった。即死ではない。だが、命を持ち直すには、あまりに悪い入り方であった。止めたはずの血は夜半を過ぎてまた滲み、熱は引かず、胸の上下だけが少しずつ浅くなっていく。老いた身に残されていた力は、あの六角通で若い者を引き戻そうと踏み出した、その一歩にほとんど使い果たされていたのだと、誰の目にも分かった。


 藤兵衛は、枕元に膝を折ったまま動けずにいた。


 三岡八郎は少し離れて座し、膝の上へ手を置いている。その指先にだけ、押し殺したような力が籠もっていた。

 西郷吉之助は壁際に黙して立ち、目を伏せていた。巨きな身体が、今はかえって部屋の狭さを目立たせる。

 橋本左内は合掌したまま、長く顔を上げなかった。言葉を持つ男であるのに、いまはその言葉のひとつも差し挟まぬ。


 誰も、吉左衛門へ「助かる」とは言わなかった。

 武士の嘘は、ときに人を励ます。だが今ここで、その嘘はかえってこの老人を軽くする。皆、それだけは避けたかった。


 吉左衛門の顔は穏やかだった。怒りも、恨みも、悔いさえも残してはいない。最後まで、誰ひとり責めぬ顔である。

 その穏やかさが、藤兵衛の胸をかえって締めつけた。


(……なぜだ)


 心の奥底で、掠れた声が問う。


 異界オラゾで、滅びゆくものをいくつも見てきた。

 世界が壊れる音も、人の命が尽きる瞬間も、もう二度と見たくないと思うほど見てきた。だからこそ帰ってきてからは、この国で血を流させぬこと、それが自分に課された意味だと信じてきた。


 それでも、目の前にはひとつの死がある。


 言葉を選び、理を尽くし、刃に代えて説得を選んだ男が、結局は刃の余波で命を落とそうとしている。

 自分は、間に合わなかったのか。

 あの場で若い刺客を斬り伏せていれば、あるいはこの人は今なお息をしていたのではないか。


 その思いがよぎる。


 だが、よぎった瞬間、藤兵衛はそれを自ら押し退けた。


 ――それでは、同じだ。


 血で血を止めることは、血を肯定することになる。

 吉左衛門は、その道を選ばなかった。若者の胸に残る最後の誠へ賭けて、一歩出た。あの人は、刀の前に言葉を置いたのだ。ならば、その言葉を生き残った者が裏切ってはならぬ。


 寝具の上で、吉左衛門の瞼がわずかに動いた。


「……鵜飼殿」


 八郎が身を乗り出しかける。

 藤兵衛も、思わず顔を上げた。


 吉左衛門はすぐには目を開かなかった。唇だけが、ごくかすかに動く。吉之助が低く言った。


「まだ聞こえ申す。朝倉殿、近う」


 藤兵衛は膝で一歩にじり寄った。

 吉左衛門の瞼が、ようやく薄く開く。視線は定まらぬ。だが、誰を探しているかは分かった。藤兵衛の顔を見、ついで八郎、左内、西郷へとゆっくり移る。


「……皆……おるか」


 声は、ほとんど息であった。


「ここに」


 八郎が応じる。

 左内も深く頭を垂れ、西郷は壁際から一歩前へ出た。


 吉左衛門は、もう一度浅く息を吸った。その胸の動きだけで、残された時間の短さが知れた。


「……昨夜の若きは……」


 言いかけて、喉がつかえる。藤兵衛が支えようとすると、吉左衛門はかすかに首を振った。


「……責むるな」


 その一語に、四人の心が同時に揺れた。

 責むるな。

 ただ若者一人を指しているのではない。水戸も、列参も、志そのものも、ここでただ責めの言葉へ落とすなということだと、誰にも分かった。


「殿の御志……」


 そこまで言って、また息が途切れる。

 吉之助が顔をしかめ、八郎が思わず口を開きかけたが、吉左衛門はなお続けた。


「……この老骨……影の楯にて……」


 言葉は短く、切れ切れだった。だが、その芯だけは折れていない。


「……国の御楯みたてを……形に……」


 藤兵衛は、そこでようやく息が詰まった。


 御楯。

 名を残すためでなく、表へ立つためでもなく、ただ何か大きなものが形を取るまでのあいだ、影で受け止める楯。

 あの人は、自分の死を悼ませようとしているのではない。自分の死を通してなお、何を残すべきかだけを言おうとしている。


 吉左衛門の目が、藤兵衛へ向いた。


「……朝倉殿」


「は」


 かすかな返事しか出なかった。

 吉左衛門はそのまま、藤兵衛の顔を見ていた。そこに、昨夜と同じ穏やかさがあった。


「……見て……きたのであろう」


 何を、とは問わぬ。

 それでも藤兵衛には、その一語で十分であった。異界のことも、裂け目のことも、この老人は知らぬ。だが、自分が何か“人の世が壊れる型”を見てきた者であることだけは、もう分かっていたのだ。


「……理を……残せ」


 それが最後だった。


 いや、実際にはその後にも、息は二つ三つ続いたのかもしれぬ。だが四人の胸には、その一語で、もう十分だった。


 理を残せ。

 斬るな。

 流すな。

 人ではなく、道を守れ。


 言葉はそこまで明瞭ではなかった。けれど、残された者の胸には、たしかにそう聞こえた。


 やがて、吉左衛門の胸はもう上がらなくなった。


 部屋のどこかで灯芯が小さく爆ぜ、香の煙がひと筋だけ揺れた。

 それきりだった。


 吉之助が、低く息を吐いた。


「……逝きもしたか」


 嘆く声ではなかった。

 悔恨と、そして、なお先へ進まねばならぬ者だけが持つ重さのある声だった。


 八郎は目を伏せたまま、唇を結んだ。

 左内は合掌を解かず、ただ深く頭を下げる。

 藤兵衛だけが、しばらくうつむけずにいた。


 死は知っている。

 失うことも知っている。

 けれど、この死は、ただひとつの命が尽きたというだけではなかった。理を選んだ者が、理のまま倒れた死である。その死を見届けた以上、自分はもう「分からぬ」とは言えない。


 藤兵衛は両拳を膝の上で強く握った。


(……分かっておりまする)


 あなたが守ろうとしたものも。

 あなたが最後まで誰も責めなかった理由も。

 血を流さずに国を動かす道が、どれほど脆く、危うく、それでもなお他の道よりましであることも。


 ならば、この死を無駄にしてはならぬ。


 藤兵衛は、深く頭を垂れた。




 同じ朝、京の町では、別のものが傷つきかけていた。

 理である。


 六角通の一件は、夜のうちにすでに形を変え始めていた。


 老中堀田、暴徒に襲わる。

 水戸の藩士が斬られたそうな。

 八十八卿が尊攘の過激派を煽ったらしい。

 一橋派も裏では浪士を使うのだとか。


 噂は、妙に整っていた。

 本来なら町を渡るうち角が増え、尾が伸び、誰の口かも分からぬまま歪むはずのものが、今朝ばかりは最初から“そう聞こえるべき形”で流れている。


 摂家の屋敷では家司が顔を見合わせ、清華家の門前では取次の声がいつもより低い。


 ――今は時が悪い。

 ――朝議は荒れる。

 ――勅許どころではあるまい。


 非暴力を貫いた八十八卿の本意は、まだ消えてはいない。だが、消えてはいないというだけでは足りぬ。人の口から口へ渡るうち、本意よりも先に空気が勝つことがある。いま京で起きているのは、まさにそれであった。


 その空気の硬さを肌で感じながら、御所裏の細道に立って空を見上げている一人の公家がいた。


 岩倉いわくら 具視ともみ


 八十八卿列参の中心であり、急く若手と慎重な年長者とのあいだに立って、その意をひとつの形へ束ねてきた男である。家格の後ろ盾は薄い。だが、風を測り、いま何を言うべきで何を言うべきでないかを知るという一点で、京の誰より鋭い。


 春の空である。だが、その青は硬く、どこか冷えて見えた。


(……及ばなんだか)


 脳裏に浮かぶのは、数度言葉を交わしただけの老武士の顔である。多くを語らず、それでも「暴を止めねばならぬ」と、言葉の端々に明確に示していた男。


 鵜飼吉左衛門。


 二日前、西郷吉之助へ託した一葉。


 ――攘夷の志、暴に移るを深く慎まれたし

 ――朝議前後、ことさらに人心を騒がす風あり

 ――火の立つところ、必ずしもその本意にあらず


 書いた文は最小限に削った。

 それ以上を書けば、その警告がどこから出たかを探る手が、ただちに宮中の内へ差し向けられる。宮中とは、そういう場所だ。とりわけ今は、八十八卿の名の下で動く者が多すぎる。


 それでも、騒乱は防げなかった。


 具視は歯を食いしばらぬ。唇を噛みもしない。

 感情を露わにすれば、それは即座に“煽動”の証にされる。八十八卿全体が、暴の名でひとくくりにされる。彼が最も恐れているのは、それであった。


 ただひとつだけ、はっきり悟っている。


 これは、自然に燃え上がった火ではない。

 誰かが、意図して風を送っている。


 噂の速さ。向きの揃い方。出来すぎている。

 だが今は、その“誰か”の名を口にしない。名を出せば火はさらに高くなり、燃える先には理を信じただけの者たちが真っ先に呑まれていく。


 岩倉具視は、耐える道を選んだ。


 八十八卿の先頭に立つ者として、ここで感情を示すことは刀を抜くのと同じだと知っている。理が刃に勝つ瞬間は、まだ、かろうじて残されている。それを失わせぬためなら、自らが疑われることも、煮え切らぬ男と呼ばれることも厭わぬ。


 具視は、ゆっくりと視線を落とし、再び歩き出した。


 春の空は、なお硬かった。

 だがそれは、割れぬ硬さではない。

 いまはまだ、その裂け目へ指を差し入れる刻ではないだけだと、彼は知っていた。




 本能寺へ戻るまでの道中、藤兵衛は、ほとんど口を利かなかった。


 日はまだ高い。白壁の照り返しは明るいのに、本堂の前へ立つと、外の音だけが急に遠のく。藤兵衛は足を止め、八郎もまた隣で立ち止まった。


 吉左衛門の死は、まだ胸の内で形を結びきっていなかった。悼むだけでは足りぬ。だが、すぐに言葉にすれば、その言葉まで軽くなる。そんな気がして、藤兵衛はしばらく黙っていた。


 本堂の奥には、阿弥陀如来があった。


 昼の光は堂内の深みまで届かず、阿弥陀は薄い闇の中に静かに浮いている。金に輝くというより、長い歳月、人の手で磨かれ続けたその重みそのものが、かすかな光を宿していた。慈悲の御姿と人は言う。だが今の藤兵衛には、あれは赦しよりも先に、乱れたものをあるべきところへ戻そうとする“順”の像に見えた。


 昨夜の六角通が胸によみがえる。


 言葉で置いた義。

 言葉で曲げられた義。

 そのあわいで、人は斬り、また斬られた。


 鵜飼吉左衛門は、そのあわいに自ら立った。若い誠を、最後まで若い誠として呼び返そうとした。その人が、もういない。


 八郎が静かに言った。


「朝倉殿。次は、理の勝負ですな」


 藤兵衛は阿弥陀から目を離さぬまま答えた。


「左様。ここで刃へ戻れば、鵜飼殿の死まで刃の側へ落ちましょう」


 八郎は短くうなずいた。それで十分であった。


 藤兵衛は、胸の奥であの最後の声を聞いていた。


 ――理を残せ。


 たしかにそう言ったかどうか、もう分からぬ。だが、あの人の死に顔も、若い刺客へ向けた最後の祈りも、すべてがその一語へ帰っていくように思われた。


 阿弥陀如来の面は、微笑んでいるようにも、厳しく見下ろしているようにも見えた。形が先にある。乱れたものを、そこへ戻してゆくしかない。


 藤兵衛は、ゆっくりと頭を下げた。祈りというより、誓いに近かった。


 顔を上げると、本堂の外にはなお昼の光が残っている。京の町では、いまも理より噂の方が速く走っているだろう。だが、速いものが最後に勝つとは限らぬ。重いものが、遅れて場を変えることもある。


 ならば、自分はその遅いものの側に立つ。


 そう胸の内で言い定めて、藤兵衛は静かに踵を返した。

【史実解説】鵜飼吉左衛門という“御楯”

鵜飼吉左衛門(1798–1859)は、幕末の水戸藩に仕えた武士であり、尊王攘夷運動の中心人物の一人として名を残しています。

彼の生涯は、まさに「御楯」という言葉がふさわしいものでした。


吉左衛門は尾張国に生まれ、のちに水戸藩士である叔父の養子となりました。

幼名は菊三郎、名は知信。弓術・槍術に秀で、藩主・徳川斉昭に仕えます。

彼は『大日本史』編纂にも関わりつつ、京都留守居役として朝廷と藩の橋渡しを担い、尊王攘夷を掲げる公卿たちと交流しながら政治工作に奔走しました。


幕末の政局が揺れる中、吉左衛門は将軍継嗣問題で一橋慶喜を推し、さらに日米修好通商条約の勅許に反対する立場から、水戸藩の京都工作の中心人物として活動します。

その働きは、藩主のため、国家のために身を挺する“盾”そのものでした。


しかし、孝明天皇から水戸藩へ下された「戊午の密勅」をめぐり、吉左衛門は子の幸吉とともに安政の大獄に連座。厳しい拷問を受けたのち、1859年、伝馬町で処刑されます。


享年62。

死に際して彼は、

「心に掛かるは主君(徳川斉昭)の安危なり」

と語り、静かに最期を迎えたと伝えられています。


その後、明治になって名誉は回復され、正四位が追贈されました。

京都・長楽寺には、吉左衛門と一族の墓碑が今も残り、幕末の激動に殉じた“御楯”として静かに語り続けています。

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