第二章 ③是の男性漫画家・オサム
赤羽駅前・居酒屋。
男の名はオサム。
どでかいジョッキを握りしめる。
つまみは串焼きともつ煮込み。
レモンサワーを一気に喉へと流し込む。
もうすでに三杯目。
目が据わっている。
独男のやけ酒だ。
数年前。
大手出版社の漫画コンテストに応募した。
いきなり入賞して念願のデビューを果たした。
あれから数年。
漫画家・オサムとして描き続けてきた。
作画の技術は一流だと自負している。
しかし残念なことに。
ストーリー創作の才能は皆無だった。
陳腐な発想展開はすぐに飽きられる。
開始して間もない連載。
またもや打ち切りになってしまった。
肝心のストーリーは凡庸のまま停滞する。
頭はこんがらかって散らかる。
小さな閃きすら起こらない。
心に隙間風が吹いている。
ありきたりな男が。
ありきたりな生活をして。
天才的独創性が芽生えるはずもない。
悲しいかな。
才能がないことへの解決策などない。
想像力が著しく乏しい。
その実相を認めざるを得ない。
卑屈になる。
すでに人生ピークは過ぎたのかもしれない。
日々、足掻いてはいる。
しかし一向に前に進めていない。
進路は常に茨に阻まれている。
読者を惹きつける作品を描きたい、だとか。
後世に遺る名作を書きたい、だとか。
こんな自分が。
大それた願望を抱くことすらおこがましい。
担当編集者の助言にも惑わされるばかりだ。
オサムは諦めの境地に到達しつつあった。
赤羽・自宅アパート。
目が覚めるとすでに昼過ぎだった。
ズズズン、
頭が痛い。
完全なる二日酔いだ。
酔い覚ましに外出する。
唯一の趣味。
独り散歩に出かける。
気の赴くまま人波に流されて歩く。
答えのない答えを探し求めて歩く。
ただひたすらに盲目的に歩く。
それは気休めと気晴らしの『無の時間』。
不意に思いついて電車に乗る。
今日は新宿御苑に行ってみようか……。
新宿に着いた。
都内の大通りは電線類地中化によって電柱が消えた。
広くて真っ直ぐな歩道を歩くのは気分がいい。
鬱々した気分が軽減されるように感じる。
ぼんやりと信号待ちをする。
ふと目の端に。
不思議な光をとらえた。
……錯覚か？
横断歩道の向こう側に何やら光る物体が見える。
昨晩の酒がまだ抜けていないのか？
目を凝らす。
眩い光を放つ若い女性が立っている。
彼女はもしや『幸運の女神』か？
歩行者信号が青に変わった。
なぜか足が竦んで動くことができない。
視線は可愛らしい彼女に釘付けだ。
横断歩道を渡って近づいてくる。
ピタリ、
目の前で立ち止まった。
五色のオーラを纏った女神が微笑む。
「こんにちは。私は凛花といいます。
また後でお会いしましょう」
そう告げて。
風のように立ち去ってしまった。
オサムは呆然として立ち尽くす。
……んん？
また後でお会いしましょう？
それって、どういうことだ？
ハッ、我に返る。
固まっていた思考と身体が鈍く動き出す。
言葉の真意を確かめたい！
さっきの女性を追いかける。
すでに残光は消え去っている。
闇雲に探しまわる。
結局『凛花さん』を見つけることはできなかった。
赤羽の自宅アパート。
帰宅したのは深夜だった。
疲れた。足がパンパンだ。
どさり、
ベッドに倒れ込んだ。
グニャリ……、
部屋の空気が不自然に揺れた。
スルリ……、
固い壁をすり抜けて。
何やら光る物体が侵入してきた。
オサムは凝視する。
落ち着いた心境で動向を窺う。
不可思議な心霊現象が目の前で起こっている。
しかしなぜだか恐怖心は無い。
壁際に。
スラリとした色白女性が佇んでいた。
美女が告げる。
「私は真珠色龍神ノア。
あなたは龍使いの瑞光オーラが見えたのね？」
オサムは問う。
「龍使いって……？
あの？ 凛花さん？」
「そう！ 凛花は龍使いなの。
そしてあなたは龍神と契約を交わす権利を得た。
全てに同意できれば……。
後世に残る名作が書けるわよ？」
目の前に。
『是契約書』が差し出された。
受け取って熟読する。
脳内は驚くほどクリアに冴えている。
……これは夢？ 現？
それとも幻か？
そもそも『龍神』は架空の霊獣ではないのか……？
自分は猜疑的性質だ。
胡散くさい。
怪しい。
ひとまず疑ってかかる。
常識的に判断する。
得体のしれぬ龍神と契約締結など有り得ない。
……だけど。
なぜだろうか。
信じてみたいと思った。
この千載一遇のチャンス。
逃してはならない！ そう思えた。
それは『凛花さん』のお陰だった。
彼女の邪気のない笑顔を見た瞬間。
ビリリ、
衝撃が走った。
幸運の女神が微笑んでいる！
そう感じたのだ。
オサムは深く頭を下げる。
「すべての項目に同意いたします。
契約をお願いします！」
ノアは頷く。
「あなたは『グラビリズム』よ。
このオーロラペンを掴んでサインして」
渡されたのは。
オーロラの曲線が象られた無色透明のペンだった。
天の岩戸の名水から創られたと云うオーロラペン。
水のペンを酷使している右手に掴む。
途端に掌中から五色の光が発せられた。
不思議なペンを掴んだ感触。
サインを記した感激。
生涯忘れまいと心に誓う。
それなのに。
オーロラペンはただの水になって指の隙間からすり抜けた。
それはまるで淡く儚い幻のように。
掌から零れて消えた。
熊野市・鬼ヶ城。
真珠色龍神ノアの背に乗せられてワープした。
宵闇の鬼ヶ城の浜辺には『凛花さん』が立っていた。
にっこり、
微笑みかけられて嬉しくなる。
思わず駆け寄って握手をしたかった。
けれど『是契約書第六条・不接触』を肝に銘じていた。
だから距離を保ってお辞儀に留めた。
ノアが日の出の刻を告げた。
水平線が赤々と照らされ太陽が昇る。
オサムは目撃した。
天高く真っ直ぐに飛翔する『至極色龍神』の姿を……。
その瞬間。
造形無き『誉』を手中にした。
龍使い・凛花が告げる。
「あなたの作画は多くの人に認められていきます。
苦手を人並みにと取り繕う努力はもうお終いです。
天より与えられた才能を究極まで磨き上げてください。
卑屈な心を捨ててください。
自らの才能と真摯に向き合ってください。
それほど遠くない未來に大きなチャンスが到来します。
そのチャンスを躊躇うことなく掴んでください。
この先は無垢なる心の声に従ってください。
私たちはもう二度と会うことはできません。
けれど。
オサムさんの作品は必ず拝見します。
楽しみにしています……」
瞬きをして目を開ける。
なぜか自宅アパートに戻ってきていた。
オサムは声をあげて号泣した。
鬼ヶ城で洗われた心は『無垢』だった。
……追想する。
凛花さんの透き通る声。
励ましの言葉。
リピートして心に刻む。
幸運の女神に力を貰う。
作画技術にさらなる磨きをかける。
程なくして。
出版社から仕事が舞い込んだ。
それはノベル小説のコミック化の案件だった。
その原作小説は『新人作家・レイヤ』の作品だった。
まずは取り敢えず、小説を読んでみる。
…………！
久々に胸が躍った。
ページをめくるのにワクワクしたのはいつぶりだろうか。
繰り返して読む。
終わったらまた読み返す。
ラストが近づくと名残惜しくて焦燥が押し寄せた。
それは偏屈男が変革を起こす痛快サクセスストーリー。
主人公の葛藤と克服。
幸運の女神との出会いと別離。
テンポよく描かれていた。
あの日。
心に差し込んだ希望の光を増幅させる傑作だった。
オサムは没頭する。
原作に添って忠実に描く。
繊細に構成する。
丁寧に描き込む。
登場人物に魂を注入する。
自らが体験した不可思議な奇跡に感謝を込めた。
小説家・レイヤは感激する。
オサムの作画は見事な出来栄えだった。
まさに意中のものだった。
レイヤは『モアレリズム』の是契約者だった。
作品は爆発的に売れた。
翻訳されて世界中に読者が生まれた。
アニメ放映されたのちに映画化された。
歴代最高の興行収入を記録した。
オサムとレイヤの合作は世界人から愛された。
モアレリズムとグラビリズム。
ふたつのリズムが『共感・共鳴』する。
世代を超えて。
時代を超えて。
後世に残る名作となるだろう……。
