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婚約者に捨てられた私のカフェに「片方だけのマグカップを譲ってください」と変な男が通い詰めてくるので過去を語っていたら、いつの間にか新しいペアのマグカップを買う約束をしていた件

作者: uta
掲載日:2026/05/20

「あなたの分のマグカップ、もう捨てたの」


 嘘だ。

 三年間、私はずっと嘘をついてきた。


 カフェ『Loss』——喪失。我ながら皮肉な店名をつけたものだと思う。元婚約者が出て行った夜、やけくそで決めた名前。朝になって正気に戻った時にはもう看板が届いていて、キャンセル料を払うのも馬鹿らしくてそのまま使った。

 結果的に、意外と客受けは良かった。「エモい」とか言われて若い子がSNSに上げてくれる。

 笑えない。


 閉店後の店内で、私は棚の奥にしまい込んだマグカップを取り出した。

 白地に青い鳥が描かれたペアマグカップ——の、片方だけ。取っ手のない方。悠真は取っ手のある方を持っていった。自分が使いやすい方だけ、ちゃっかり選んで。


「……バカみたい」


 三年だ。三年も経って、まだこんなものを後生大事に抱えている自分が、どうしようもなく惨めだった。

 捨てればいい。捨てれば楽になる。分かってる。分かってるのに——


 このマグカップを見るたびに思ってしまうのだ。

 私も、こんな風に不完全なまま捨てられたのだと。


「店長、また閉店後に残るんですか? 体壊しますよ」


 厨房から顔を出したのは、唯一のアルバイト店員・神楽坂遥だった。ショートカットにピアス、ボーイッシュな見た目だけど、恋愛話になると目をキラキラさせるタイプの子。


「いいから、遥は先に上がって」

「……また、あのマグカップ見てたでしょ」

「見てない」

「嘘つき。目、赤いですよ」


 図星を突かれて、私は顔を背けた。この子は妙に鋭い。


「……うるさいな。早く帰りなさい」

「はいはい。でも店長、いい加減あのマグカップ捨てた方がいいですよ。元カレの呪いみたいで怖いです」

「呪いって……」

「だって三年ですよ? 三年間ずっと棚の奥に隠してるの、私知ってますからね」


 遥はそう言い残して、エプロンを外しながら裏口へ消えていった。


 一人になった店内で、私は再びマグカップを見つめる。

 取っ手のない、不完全な片割れ。


 ——捨てられないのは、認めたくないからだ。

 これを捨てたら、本当に終わってしまう。私と悠真の五年間が、なかったことになってしまう。


 馬鹿げてる。とっくに終わってるのに。


 カランコロン。


 閉店後の扉を開ける音に、私は慌ててマグカップを棚に戻した。鍵、閉め忘れてた。


「すみません、もう閉店で——」


 振り返った先に立っていたのは、見知らぬ男だった。


 黒縁眼鏡、猫背、前髪が目にかかった暗い印象の男。雨に濡れたカーディガンから雫が落ちている。傘も持たずに来たのか、この土砂降りの中を。


「……あの」

「それ」


 男が指を差した。

 私が今しまったばかりの、棚の奥。


「それ、俺が探してたやつです」


 ——は?


「取っ手のない青い鳥のマグカップ。1987年製、廃盤品。ペアの片方だけが残ってる」


 男の目が、眼鏡の奥で静かに光った。

 傷ついた獣のような、妙に真剣な目だった。


「譲ってもらえませんか」

「……意味が分からないんですけど」

「俺、こういうのを集めてるんです」


 男——真壁蒼一と名乗った——は、びしょ濡れのまま説明を始めた。


 全国の喫茶店を巡って『対になるものを失った食器』を蒐集している。片方だけのティーカップ、欠けた取っ手のポット、ヒビの入った砂糖壺。そういうものばかりを。


「……なんで、そんなもの」

「片方だけになったものには、物語がある」


 蒼一は静かに言った。


「だから価値があるんです」


 その言葉が、欠けた私の心に妙に刺さった。


「……変わってますね」

「よく言われます」

「褒めてないです」

「知ってます」


 淡々とした返しに、少しだけ笑いそうになる。危ない危ない。三年ぶりに他人に笑わされるところだった。


「売り物じゃないんで」

「じゃあ、物語を聞かせてください」

「……は?」

「そのマグカップがなぜ片方だけになったのか。その物語を教えてもらえたら、諦めます」


 蒼一の目は、冗談を言っているようには見えなかった。


「……帰ってください」

「来週また来ます」

「来ないでください」

「閉店後に」

「話聞いてます?」

「コーヒーは一杯だけ頼みます。邪魔はしません」


 男は一方的にそう言い残して、雨の中へ消えていった。

 傘も持たずに。馬鹿なのだろうか。


「……なにあれ」


 取り残された私は、棚の奥のマグカップを見つめた。


 ——片方だけになったものには、物語がある。


 私の物語なんて、聞いてどうするというのだろう。

 捨てられて、傷ついて、三年間立ち直れなかっただけの、惨めな話なのに。


 でも。

 なぜか、少しだけ——本当に少しだけ——次の週が気になっている自分がいた。



 ◇ ◇ ◇



 一週間後、本当に来た。


「……本当に来たんですね」

「来ると言いました」

「普通、社交辞令だと思いません?」

「思いません」


 真壁蒼一は先週と同じ席——カウンターの端——に座り、同じように黒縁眼鏡の奥から私を見ていた。今日は傘を持っていた。少しは学習したらしい。


「ブレンドを」

「……はいはい」


 閉店後のカフェに客は彼一人。厨房の奥で遥が「店長、あの人また来ましたよ! めっちゃ店長のこと見てますよ!」と囁いてくるのを、私は無視した。


「で、何の用ですか」

「物語を聞きに来ました」

「だから、売り物じゃないって——」

「売ってくれとは言ってません。聞かせてほしいだけです」


 蒼一はコーヒーを一口飲んで、静かに続けた。


「俺は、あのマグカップがなぜ片方だけになったのか知りたい。あなたが話したくないなら、それでいい。でも、話したくなったら聞きます」


 ……なんだ、この男。

 押しが強いのか弱いのか分からない。


「話したくなるわけないでしょ」

「そうですか」

「だいたい、なんで私がわざわざ——」


 ——なんで私が、赤の他人に過去の傷を晒さなきゃいけないの。


 そう言おうとして、言葉が詰まった。

 蒼一の目が、妙に静かだったから。責めるでもなく、哀れむでもなく、ただ「聞く準備がある」とでも言うように。


「……あなた、なんでそんなもの集めてるんですか」


 気づけば、私は逆に質問していた。


「片方だけの食器なんて、普通の人はゴミだと思うでしょ。なんでわざわざ」

「俺も捨てられた側だからです」


 あまりにもあっさりと、蒼一は言った。


「五年前、婚約者を親友に奪われました」


 ——は。


「だから、片方だけになったものを見ると、他人事と思えない。捨てられた側の気持ちが分かるから」


 眼鏡の奥の目が、一瞬だけ揺れた。傷ついた獣の目。

 ああ、この人も——


「……同じ、なんですね」

「何がですか」

「私も、婚約者に逃げられたんです。三年前」


 なぜ言ったのか、自分でも分からない。

 ただ、この人になら言える気がした。同じ傷を持っている人になら。


「あのマグカップ、婚約記念に買ったんです。ペアで。彼は取っ手のある方を持っていった。自分が使いやすい方だけ」


 蒼一は何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。


「女がいたんです。私の知らないところで。彼女に『好きだ』って言われて、その場の感情で逃げた。私への説明は——『ごめん』の一言だけ」


 三年間、誰にも言えなかった話だった。

 母にも、遥にも、友人にも。「大丈夫」「もう立ち直った」と嘘をつき続けてきた。

 なのに——


「惨めな話でしょ」

「いいえ」


 蒼一は首を振った。


「俺も同じです」


 たった一言。でも、その一言が妙に重かった。


「……来週も来ていいですか」

「……好きにしてください」


 ぶっきらぼうに答えながら、私は気づいていた。

 この男の前でなら——少しだけ、本当のことを話せるかもしれない、と。



 ◇ ◇ ◇



 それから、蒼一は毎週来た。


 閉店後のカフェで、私は少しずつ過去を語った。悠真との出会い、婚約、そして裏切り。蒼一は余計なことを言わず、ただ静かに聞いていた。


 三回目の夜。

 私は初めて、誰にも言えなかった本音を口にした。


「私、ずっと分からなかったんです」


 マグカップの取っ手を——あ、取っ手ないんだった——縁を無意識になぞりながら、私は言った。


「なんで私だったのかって。なんで私だけが捨てられて、あの女は選ばれたのかって」


 藤堂彩音。ふわふわした茶髪、大きな瞳、甘えた声。『守ってあげたくなる』タイプの女。

 私とは正反対だ。


「私、たぶん——」


 言葉が詰まる。言いたくない。でも、もう止まらなかった。


「——あの女のこと、憎みながら羨ましかったんです」


 蒼一が、静かにこちらを見た。


「彼女は、悠真に『好きだ』って執着された。追いかけられて、選ばれた。私は——私は一度も、誰にもそんな風に執着されたことがない」


 声が震えた。


「醜いでしょ。捨てられた被害者のくせに、奪った側を羨ましいと思うなんて。でも本当なんです。私は——誰かに『君じゃなきゃダメだ』って言われたかった。そのためなら、誰かを傷つける側になってもよかったのかもしれない」


 最低だ。こんなこと、誰にも言えなかった。言ったら軽蔑される。当然だ。


 でも——


「俺も同じです」


 蒼一が、静かに言った。


「俺も、親友を憎みながら羨ましかった。あいつは俺の婚約者に『選ばれた』。俺は——選ばれなかった」


 眼鏡を外して、目元を押さえる。


「だから俺は、捨てられた食器を集めてるんです。片方だけになっても、価値があると思いたかった。——自分自身に、そう言い聞かせたかった」


 ああ。

 この人も、同じだ。同じ傷を抱えて、同じように藻掻いている。


「……私たち、似てますね」

「そうですね」

「お互い、醜いですね」

「そうですね」


 目が合って——なぜか、笑ってしまった。

 三年ぶりに、心から。


「店長、なんか楽しそうですね」


 翌日、遥にそう言われた時、私は否定できなかった。


「店長、あの人といる時だけ、ちょっと笑ってますよ」

「……そう?」

「そうですよ。三年間働いてて、初めて見ました。店長の本当の笑顔」


 本当の笑顔。

 そんなもの、自分では分からない。でも——


 確かに、蒼一といる時間だけは、息がしやすい気がしていた。



 ◇ ◇ ◇



 六回目の夜。

 蒼一が、不意に言った。


「対のマグカップは、元に戻せなくても意味がある」


 いつものように閉店後のカウンター。私は彼の向かいに座り、例のマグカップ——取っ手のない方——を眺めていた。


「たとえ片方だけでも、かつて『対』だった記憶がある。その記憶自体に価値があると、俺は思います」


 蒼一の言葉は、いつも静かで、どこか祈りのようだった。


「……でも人間は違う」

「え?」

「対のマグカップは、割れても文句を言わない。でも人間は——捨てられたら傷つくし、怒るし、憎む。元に戻せないって分かってても、どこかで期待してしまう」


 蒼一は、珍しく感情を込めた声で言った。


「俺は、元婚約者に未練がないと言ったら嘘になる。でも——」


 彼の手が、テーブルの上を滑って、私の手に触れた。


 ——え。


「——今は、別のことを考えてます」


 心臓が跳ねた。

 大きくて、繊細な指先。古い食器を扱い慣れた、優しい手。


「あ、あの——」

「すみません、忘れてください」


 蒼一は慌てて手を引っ込め、眼鏡を直した。耳が赤い。

 ……可愛いな、と思ってしまった自分に驚く。


「蒼一さん」

「……はい」

「今度、コーヒーじゃなくて、ご飯でも——」


 ブブブブブ。


 私のスマホが鳴った。

 画面に表示された名前を見て、血の気が引いた。


『氷室悠真』


 三年間、一度も来なかった名前。

 震える指でメッセージを開く。


『戻りたい』


 たった四文字。


 三年間、欲しかった言葉。夜中に何度も妄想した言葉。『やっぱり澪がいい』『俺が間違ってた』『戻ってきてくれ』——そう言われる日を、どれだけ待ち望んだか。


 なのに。


「……澪さん?」


 蒼一の声で我に返る。

 彼が心配そうに私を見ていた。傷ついた獣のような目で、でも今は——私を守ろうとするような目で。


 ああ、そうか。


 私の心は、もう動かない。


 三年前の私なら、泣いて喜んだだろう。許してしまっただろう。でも今は——


 今は、隣にいるこの人の、耳が赤くなる瞬間を見たい。

 それだけだ。


「……なんでもないです」


 私はスマホを裏返して置いた。


「それより、さっきの続き。ご飯、行きませんか」

「……いいんですか」

「私が誘ってるんですけど」

「いや、その……」


 蒼一の耳がまた赤くなる。

 ——ああ、もう駄目だ。この人のこと、好きになってる。



 ◇ ◇ ◇



 一週間後、悠真が店に来た。


「澪、久しぶり」


 相変わらず整った顔、相変わらず爽やかな笑顔。三年前と何も変わっていない——いや、少しだけ疲れが見える。彩音との関係がうまくいかなかったのだろう。


 予想通りだ。


「……営業中なんだけど」

「少しだけ話せないかな。大事な話があるんだ」


 厨房の奥で、遥が露骨に嫌な顔をしているのが見えた。「店長、追い出しましょうか」と目で訴えている。ありがたいけど、これは自分でケリをつけなきゃいけない。


「……閉店後なら」

「ありがとう。待ってる」


 悠真は嬉しそうに笑った。その笑顔が、昔はあんなに好きだったのに——今は何も感じない。


 閉店後。

 私は悠真と向かい合って座った。カウンターの端、蒼一がいつも座る席に——悠真が座っているのが、妙に腹立たしかった。


「彩音とは終わったんだ」

「知ってる」

「……え?」

「SNSで見た。派手に別れたんでしょ」


 悠真は気まずそうに目を逸らした。


「俺、間違ってたと思う。澪を傷つけた。本当に申し訳なかった」

「……うん」

「だから、もう一度やり直せないかな。俺、やっぱり澪じゃなきゃ駄目なんだ」


 ——『君じゃなきゃ駄目だ』。


 三年間、欲しかった言葉。


 なのに、今聞くと笑ってしまいそうになる。

 だって、この人は分かっていない。

 私が欲しかったのは、こんな言葉じゃない。


「悠真」

「うん」

「あなた、私のこと好きだった?」

「もちろん——」

「じゃあなんで、あの時『ごめん』の一言で済ませたの」


 悠真の顔が強張った。


「なんで、説明もなく消えたの。なんで、三年間一度も連絡してこなかったの。——なんで今になって、彩音と別れたから戻りたいなんて言えるの」


 声は震えなかった。不思議なくらい、冷静だった。


「私は三年間、ずっとあなたの言葉を待ってた。謝ってほしかった。説明してほしかった。でも——もういい」

「澪——」

「私、もうあなたのことどうでもいいの」


 言った瞬間、胸がすっと軽くなった。


「他に好きな人ができた。だから、もう戻らない」


 悠真の顔が歪んだ。傷ついたような、信じられないような顔。

 ——ああ、この人はずっとこうだったんだ。自分が傷つけた相手が、自分を待ち続けてくれると思い込んでいた。


「……誰」

「言う必要ある?」

「俺には知る権利が——」

「ないよ」


 私は立ち上がった。


「帰って。もう来ないで」


 悠真は何か言いたそうにしていたけれど、私はもう見ていなかった。

 厨房の方から、遥が小さくガッツポーズしているのが見えた。


 ——終わった。

 三年間引きずった過去が、やっと終わった。



 ◇ ◇ ◇



 その夜、蒼一が来た。


「今日は何かあったんですか」

「……なんで分かるの」

「顔が、いつもと違う」


 いつもの席に座った蒼一は、私をじっと見ていた。心配そうな目。でも、同時に——期待しているような目。


「元婚約者が来た」

「……そうですか」

「断った」


 蒼一の目が、一瞬大きくなった。


「戻りたいって言われたけど、もういいって言った。好きな人がいるからって」

「……そう、ですか」

「嘘じゃないよ」


 私は棚から、あの取っ手のないマグカップを取り出した。


「これ、あげる」

「え」

「もう要らないから。——新しいペアを買うから」


 蒼一が、マグカップを受け取った。大きな手で、繊細に。


「……物語は」

「全部話したでしょ。聞いてたじゃん」

「そうじゃなくて——」


 蒼一が、珍しく言い淀んだ。耳が赤い。


「俺も、新しいペアを買いたいんですけど」


 心臓が跳ねた。


「俺と——揃いのマグカップ、買いませんか」


 ……不器用か。


「それ、告白?」

「……たぶん」

「たぶんって何」

「俺、こういうの慣れてなくて——」


 もう我慢できなくて、私は笑った。三年ぶりに——いや、蒼一と出会ってから何度目だろう。心の底から。


「蒼一、右利き? 左利き?」

「……右利きですけど。なんで?」

「取っ手の向き、揃えたいから」


 蒼一の耳が、真っ赤になった。


「……それ、OKってことですか」

「さあ、どうでしょう」

「澪さん……」

「冗談。——うん、買おう。揃いのやつ」


 蒼一が、ふっと笑った。初めて見る、柔らかい笑顔だった。


「ありがとうございます」

「こちらこそ」


 片方だけのマグカップを、私はもう捨てられる。

 だって今は、新しいペアを買う理由ができたから。


 ——ああ、そうだ。


「店の名前、変えようかな」

「え?」

「『Loss』じゃなくて」

「……何にするんですか」

「まだ決めてない。でも——」


 蒼一の手が、今度はためらいなく私の手を握った。大きくて、温かい手。


「——『喪失』はもう終わりだから」


 窓の外で、雨が上がり始めていた。


 三年前、悠真が出て行った夜も雨だった。あの時は、雨音が私の泣き声を隠してくれた。


 でも今は違う。

 雨上がりの空に、うっすらと虹が見える。


「蒼一」

「はい」

「来週も来る?」

「……もちろん」

「じゃあ、閉店後じゃなくて、普通に営業時間に来て。コーヒー奢るから」

「それ、客として来るなってことですか」

「……分かってるじゃん」


 蒼一の耳が、また赤くなる。


 ああ、この人の隣なら——私も、新しい物語を始められる気がする。


 片方だけだった私は、もう片方だけじゃない。

 欠けた取っ手の代わりに、握ってくれる手があるから。


「ねえ、蒼一」

「はい」

「私の物語、どうだった?」

「……最高でした」

「嘘つき。惨めな話だったでしょ」

「惨めなんかじゃない」


 蒼一が、真剣な目で言った。


「片方だけになっても、ずっと価値を持ち続けた人の話です。——俺は、そういう物語が好きなんです」


 ずるい。そんなこと言われたら——


「……泣かせないでよ」

「泣いてないでしょう」

「泣きそうなの。我慢してるの」

「じゃあ、泣いていいですよ」

「……うるさい」


 でも、涙は出なかった。

 代わりに、笑みがこぼれた。


 三年ぶりの涙じゃなくて、三年ぶりの——いや、もう数えるのはやめよう。


 これからは、笑った回数を数えていく。

 蒼一の隣で、新しいペアのマグカップで、コーヒーを飲みながら。



「店長ーーーー!! 付き合い始めたなら報告してくださいよーーー!!」


 翌日、出勤してきた遥の絶叫が、店中に響き渡った。


「うるさいな……どこから聞いたの」

「カウンターに置きっぱなしのマグカップ見れば分かりますよ! 『蒼一』『澪』って名前入りのペアマグカップ!! いつの間に買ったんですか!!」

「……昨日の夜、ネットで」

「早い!! 展開が早すぎる!!」


 遥が騒いでいる横で、私はカウンターに並んだ二つのマグカップを眺めた。


 白地に青い鳥——じゃなくて、白地に青い猫。新しいデザインの、新しいペア。

 取っ手の向きは、左右対称。右利きの蒼一と、右利きの私が、向かい合って座った時にちょうどいい配置。


「……いい買い物した」

「聞いてます? 店長!!」

「聞いてない」

「ひどい!!」


 でも遥も、怒っているふりをしながら嬉しそうだった。


「店長が幸せなら、まあいいですけど。でも報告はしてくださいね!? 私、三年間ずっと店長のこと心配してたんですからね!?」

「……ありがと」

「え」

「ありがとう、遥。ずっと気にかけてくれて」


 遥が、目を丸くした。


「……店長が素直にお礼言うの、初めて見ました」

「うるさいな。たまには言うでしょ」

「言わないですよ。三年間で一度も」

「……そう」


 そうだったのか。

 私は三年間、誰にも素直になれなかった。「大丈夫」「平気」と嘘をついて、一人で抱え込んで。


 でも、もういい。


 蒼一に出会って、過去を語って、醜い本音を吐き出して——やっと、素直になれた。


 片方だけのマグカップは、もう棚の奥にはない。

 蒼一の家に、彼のコレクションの一つとして飾られている。「物語のあるマグカップ」として。


 そして私のカフェには、新しいペアのマグカップがある。

 ——これから始まる、新しい物語のために。



「いらっしゃいませ——あ」


 開店と同時に入ってきたのは、蒼一だった。

 今日は傘を持っていない。晴れてるから当然だけど。


「おはようございます」

「……おはよう。早いね」

「一番に来たかったので」


 耳が赤い。


「コーヒー?」

「はい。——あと、できれば」

「できれば?」

「隣、座っていいですか」


 カウンターの、私が普段立っている側を指差す蒼一。


 ……不器用か。


「いいよ。でも、仕事の邪魔しないでね」

「しません」

「嘘つき。絶対するでしょ」

「……たぶん」


 遥が「ごちそうさまでーす」と棒読みで言いながら、厨房に引っ込んでいった。


 私は笑って、蒼一の隣に立った。

 新しいペアのマグカップに、コーヒーを注ぐ。


 ——片方だけのマグカップには、物語がある。


 でも、ペアのマグカップには——これから始まる物語がある。


 私と蒼一の、新しい物語が。


「蒼一」

「はい」

「好きだよ」


 蒼一のコーヒーが、テーブルにこぼれた。


「……っ、急に言わないでください」

「ふふ、ごめん」

「謝ってる顔じゃないですよね」

「うん、全然」


 蒼一の耳が真っ赤なのを見て、私は今日も笑った。


 三年間、失ったものを数えて生きてきた。

 でもこれからは、得たものを数えて生きていく。


 蒼一の笑顔。遥の応援。母の優しさ。

 そして——新しいペアのマグカップ。


 『Loss』という名のカフェで、私は『喪失』を終わらせた。


 次の店名は、まだ決めていない。

 でも、蒼一と一緒に考えようと思う。


 ——きっと、いい名前が見つかるはずだから。

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