婚約者に捨てられた私のカフェに「片方だけのマグカップを譲ってください」と変な男が通い詰めてくるので過去を語っていたら、いつの間にか新しいペアのマグカップを買う約束をしていた件
「あなたの分のマグカップ、もう捨てたの」
嘘だ。
三年間、私はずっと嘘をついてきた。
カフェ『Loss』——喪失。我ながら皮肉な店名をつけたものだと思う。元婚約者が出て行った夜、やけくそで決めた名前。朝になって正気に戻った時にはもう看板が届いていて、キャンセル料を払うのも馬鹿らしくてそのまま使った。
結果的に、意外と客受けは良かった。「エモい」とか言われて若い子がSNSに上げてくれる。
笑えない。
閉店後の店内で、私は棚の奥にしまい込んだマグカップを取り出した。
白地に青い鳥が描かれたペアマグカップ——の、片方だけ。取っ手のない方。悠真は取っ手のある方を持っていった。自分が使いやすい方だけ、ちゃっかり選んで。
「……バカみたい」
三年だ。三年も経って、まだこんなものを後生大事に抱えている自分が、どうしようもなく惨めだった。
捨てればいい。捨てれば楽になる。分かってる。分かってるのに——
このマグカップを見るたびに思ってしまうのだ。
私も、こんな風に不完全なまま捨てられたのだと。
「店長、また閉店後に残るんですか? 体壊しますよ」
厨房から顔を出したのは、唯一のアルバイト店員・神楽坂遥だった。ショートカットにピアス、ボーイッシュな見た目だけど、恋愛話になると目をキラキラさせるタイプの子。
「いいから、遥は先に上がって」
「……また、あのマグカップ見てたでしょ」
「見てない」
「嘘つき。目、赤いですよ」
図星を突かれて、私は顔を背けた。この子は妙に鋭い。
「……うるさいな。早く帰りなさい」
「はいはい。でも店長、いい加減あのマグカップ捨てた方がいいですよ。元カレの呪いみたいで怖いです」
「呪いって……」
「だって三年ですよ? 三年間ずっと棚の奥に隠してるの、私知ってますからね」
遥はそう言い残して、エプロンを外しながら裏口へ消えていった。
一人になった店内で、私は再びマグカップを見つめる。
取っ手のない、不完全な片割れ。
——捨てられないのは、認めたくないからだ。
これを捨てたら、本当に終わってしまう。私と悠真の五年間が、なかったことになってしまう。
馬鹿げてる。とっくに終わってるのに。
カランコロン。
閉店後の扉を開ける音に、私は慌ててマグカップを棚に戻した。鍵、閉め忘れてた。
「すみません、もう閉店で——」
振り返った先に立っていたのは、見知らぬ男だった。
黒縁眼鏡、猫背、前髪が目にかかった暗い印象の男。雨に濡れたカーディガンから雫が落ちている。傘も持たずに来たのか、この土砂降りの中を。
「……あの」
「それ」
男が指を差した。
私が今しまったばかりの、棚の奥。
「それ、俺が探してたやつです」
——は?
「取っ手のない青い鳥のマグカップ。1987年製、廃盤品。ペアの片方だけが残ってる」
男の目が、眼鏡の奥で静かに光った。
傷ついた獣のような、妙に真剣な目だった。
「譲ってもらえませんか」
「……意味が分からないんですけど」
「俺、こういうのを集めてるんです」
男——真壁蒼一と名乗った——は、びしょ濡れのまま説明を始めた。
全国の喫茶店を巡って『対になるものを失った食器』を蒐集している。片方だけのティーカップ、欠けた取っ手のポット、ヒビの入った砂糖壺。そういうものばかりを。
「……なんで、そんなもの」
「片方だけになったものには、物語がある」
蒼一は静かに言った。
「だから価値があるんです」
その言葉が、欠けた私の心に妙に刺さった。
「……変わってますね」
「よく言われます」
「褒めてないです」
「知ってます」
淡々とした返しに、少しだけ笑いそうになる。危ない危ない。三年ぶりに他人に笑わされるところだった。
「売り物じゃないんで」
「じゃあ、物語を聞かせてください」
「……は?」
「そのマグカップがなぜ片方だけになったのか。その物語を教えてもらえたら、諦めます」
蒼一の目は、冗談を言っているようには見えなかった。
「……帰ってください」
「来週また来ます」
「来ないでください」
「閉店後に」
「話聞いてます?」
「コーヒーは一杯だけ頼みます。邪魔はしません」
男は一方的にそう言い残して、雨の中へ消えていった。
傘も持たずに。馬鹿なのだろうか。
「……なにあれ」
取り残された私は、棚の奥のマグカップを見つめた。
——片方だけになったものには、物語がある。
私の物語なんて、聞いてどうするというのだろう。
捨てられて、傷ついて、三年間立ち直れなかっただけの、惨めな話なのに。
でも。
なぜか、少しだけ——本当に少しだけ——次の週が気になっている自分がいた。
◇ ◇ ◇
一週間後、本当に来た。
「……本当に来たんですね」
「来ると言いました」
「普通、社交辞令だと思いません?」
「思いません」
真壁蒼一は先週と同じ席——カウンターの端——に座り、同じように黒縁眼鏡の奥から私を見ていた。今日は傘を持っていた。少しは学習したらしい。
「ブレンドを」
「……はいはい」
閉店後のカフェに客は彼一人。厨房の奥で遥が「店長、あの人また来ましたよ! めっちゃ店長のこと見てますよ!」と囁いてくるのを、私は無視した。
「で、何の用ですか」
「物語を聞きに来ました」
「だから、売り物じゃないって——」
「売ってくれとは言ってません。聞かせてほしいだけです」
蒼一はコーヒーを一口飲んで、静かに続けた。
「俺は、あのマグカップがなぜ片方だけになったのか知りたい。あなたが話したくないなら、それでいい。でも、話したくなったら聞きます」
……なんだ、この男。
押しが強いのか弱いのか分からない。
「話したくなるわけないでしょ」
「そうですか」
「だいたい、なんで私がわざわざ——」
——なんで私が、赤の他人に過去の傷を晒さなきゃいけないの。
そう言おうとして、言葉が詰まった。
蒼一の目が、妙に静かだったから。責めるでもなく、哀れむでもなく、ただ「聞く準備がある」とでも言うように。
「……あなた、なんでそんなもの集めてるんですか」
気づけば、私は逆に質問していた。
「片方だけの食器なんて、普通の人はゴミだと思うでしょ。なんでわざわざ」
「俺も捨てられた側だからです」
あまりにもあっさりと、蒼一は言った。
「五年前、婚約者を親友に奪われました」
——は。
「だから、片方だけになったものを見ると、他人事と思えない。捨てられた側の気持ちが分かるから」
眼鏡の奥の目が、一瞬だけ揺れた。傷ついた獣の目。
ああ、この人も——
「……同じ、なんですね」
「何がですか」
「私も、婚約者に逃げられたんです。三年前」
なぜ言ったのか、自分でも分からない。
ただ、この人になら言える気がした。同じ傷を持っている人になら。
「あのマグカップ、婚約記念に買ったんです。ペアで。彼は取っ手のある方を持っていった。自分が使いやすい方だけ」
蒼一は何も言わなかった。ただ、静かに聞いていた。
「女がいたんです。私の知らないところで。彼女に『好きだ』って言われて、その場の感情で逃げた。私への説明は——『ごめん』の一言だけ」
三年間、誰にも言えなかった話だった。
母にも、遥にも、友人にも。「大丈夫」「もう立ち直った」と嘘をつき続けてきた。
なのに——
「惨めな話でしょ」
「いいえ」
蒼一は首を振った。
「俺も同じです」
たった一言。でも、その一言が妙に重かった。
「……来週も来ていいですか」
「……好きにしてください」
ぶっきらぼうに答えながら、私は気づいていた。
この男の前でなら——少しだけ、本当のことを話せるかもしれない、と。
◇ ◇ ◇
それから、蒼一は毎週来た。
閉店後のカフェで、私は少しずつ過去を語った。悠真との出会い、婚約、そして裏切り。蒼一は余計なことを言わず、ただ静かに聞いていた。
三回目の夜。
私は初めて、誰にも言えなかった本音を口にした。
「私、ずっと分からなかったんです」
マグカップの取っ手を——あ、取っ手ないんだった——縁を無意識になぞりながら、私は言った。
「なんで私だったのかって。なんで私だけが捨てられて、あの女は選ばれたのかって」
藤堂彩音。ふわふわした茶髪、大きな瞳、甘えた声。『守ってあげたくなる』タイプの女。
私とは正反対だ。
「私、たぶん——」
言葉が詰まる。言いたくない。でも、もう止まらなかった。
「——あの女のこと、憎みながら羨ましかったんです」
蒼一が、静かにこちらを見た。
「彼女は、悠真に『好きだ』って執着された。追いかけられて、選ばれた。私は——私は一度も、誰にもそんな風に執着されたことがない」
声が震えた。
「醜いでしょ。捨てられた被害者のくせに、奪った側を羨ましいと思うなんて。でも本当なんです。私は——誰かに『君じゃなきゃダメだ』って言われたかった。そのためなら、誰かを傷つける側になってもよかったのかもしれない」
最低だ。こんなこと、誰にも言えなかった。言ったら軽蔑される。当然だ。
でも——
「俺も同じです」
蒼一が、静かに言った。
「俺も、親友を憎みながら羨ましかった。あいつは俺の婚約者に『選ばれた』。俺は——選ばれなかった」
眼鏡を外して、目元を押さえる。
「だから俺は、捨てられた食器を集めてるんです。片方だけになっても、価値があると思いたかった。——自分自身に、そう言い聞かせたかった」
ああ。
この人も、同じだ。同じ傷を抱えて、同じように藻掻いている。
「……私たち、似てますね」
「そうですね」
「お互い、醜いですね」
「そうですね」
目が合って——なぜか、笑ってしまった。
三年ぶりに、心から。
「店長、なんか楽しそうですね」
翌日、遥にそう言われた時、私は否定できなかった。
「店長、あの人といる時だけ、ちょっと笑ってますよ」
「……そう?」
「そうですよ。三年間働いてて、初めて見ました。店長の本当の笑顔」
本当の笑顔。
そんなもの、自分では分からない。でも——
確かに、蒼一といる時間だけは、息がしやすい気がしていた。
◇ ◇ ◇
六回目の夜。
蒼一が、不意に言った。
「対のマグカップは、元に戻せなくても意味がある」
いつものように閉店後のカウンター。私は彼の向かいに座り、例のマグカップ——取っ手のない方——を眺めていた。
「たとえ片方だけでも、かつて『対』だった記憶がある。その記憶自体に価値があると、俺は思います」
蒼一の言葉は、いつも静かで、どこか祈りのようだった。
「……でも人間は違う」
「え?」
「対のマグカップは、割れても文句を言わない。でも人間は——捨てられたら傷つくし、怒るし、憎む。元に戻せないって分かってても、どこかで期待してしまう」
蒼一は、珍しく感情を込めた声で言った。
「俺は、元婚約者に未練がないと言ったら嘘になる。でも——」
彼の手が、テーブルの上を滑って、私の手に触れた。
——え。
「——今は、別のことを考えてます」
心臓が跳ねた。
大きくて、繊細な指先。古い食器を扱い慣れた、優しい手。
「あ、あの——」
「すみません、忘れてください」
蒼一は慌てて手を引っ込め、眼鏡を直した。耳が赤い。
……可愛いな、と思ってしまった自分に驚く。
「蒼一さん」
「……はい」
「今度、コーヒーじゃなくて、ご飯でも——」
ブブブブブ。
私のスマホが鳴った。
画面に表示された名前を見て、血の気が引いた。
『氷室悠真』
三年間、一度も来なかった名前。
震える指でメッセージを開く。
『戻りたい』
たった四文字。
三年間、欲しかった言葉。夜中に何度も妄想した言葉。『やっぱり澪がいい』『俺が間違ってた』『戻ってきてくれ』——そう言われる日を、どれだけ待ち望んだか。
なのに。
「……澪さん?」
蒼一の声で我に返る。
彼が心配そうに私を見ていた。傷ついた獣のような目で、でも今は——私を守ろうとするような目で。
ああ、そうか。
私の心は、もう動かない。
三年前の私なら、泣いて喜んだだろう。許してしまっただろう。でも今は——
今は、隣にいるこの人の、耳が赤くなる瞬間を見たい。
それだけだ。
「……なんでもないです」
私はスマホを裏返して置いた。
「それより、さっきの続き。ご飯、行きませんか」
「……いいんですか」
「私が誘ってるんですけど」
「いや、その……」
蒼一の耳がまた赤くなる。
——ああ、もう駄目だ。この人のこと、好きになってる。
◇ ◇ ◇
一週間後、悠真が店に来た。
「澪、久しぶり」
相変わらず整った顔、相変わらず爽やかな笑顔。三年前と何も変わっていない——いや、少しだけ疲れが見える。彩音との関係がうまくいかなかったのだろう。
予想通りだ。
「……営業中なんだけど」
「少しだけ話せないかな。大事な話があるんだ」
厨房の奥で、遥が露骨に嫌な顔をしているのが見えた。「店長、追い出しましょうか」と目で訴えている。ありがたいけど、これは自分でケリをつけなきゃいけない。
「……閉店後なら」
「ありがとう。待ってる」
悠真は嬉しそうに笑った。その笑顔が、昔はあんなに好きだったのに——今は何も感じない。
閉店後。
私は悠真と向かい合って座った。カウンターの端、蒼一がいつも座る席に——悠真が座っているのが、妙に腹立たしかった。
「彩音とは終わったんだ」
「知ってる」
「……え?」
「SNSで見た。派手に別れたんでしょ」
悠真は気まずそうに目を逸らした。
「俺、間違ってたと思う。澪を傷つけた。本当に申し訳なかった」
「……うん」
「だから、もう一度やり直せないかな。俺、やっぱり澪じゃなきゃ駄目なんだ」
——『君じゃなきゃ駄目だ』。
三年間、欲しかった言葉。
なのに、今聞くと笑ってしまいそうになる。
だって、この人は分かっていない。
私が欲しかったのは、こんな言葉じゃない。
「悠真」
「うん」
「あなた、私のこと好きだった?」
「もちろん——」
「じゃあなんで、あの時『ごめん』の一言で済ませたの」
悠真の顔が強張った。
「なんで、説明もなく消えたの。なんで、三年間一度も連絡してこなかったの。——なんで今になって、彩音と別れたから戻りたいなんて言えるの」
声は震えなかった。不思議なくらい、冷静だった。
「私は三年間、ずっとあなたの言葉を待ってた。謝ってほしかった。説明してほしかった。でも——もういい」
「澪——」
「私、もうあなたのことどうでもいいの」
言った瞬間、胸がすっと軽くなった。
「他に好きな人ができた。だから、もう戻らない」
悠真の顔が歪んだ。傷ついたような、信じられないような顔。
——ああ、この人はずっとこうだったんだ。自分が傷つけた相手が、自分を待ち続けてくれると思い込んでいた。
「……誰」
「言う必要ある?」
「俺には知る権利が——」
「ないよ」
私は立ち上がった。
「帰って。もう来ないで」
悠真は何か言いたそうにしていたけれど、私はもう見ていなかった。
厨房の方から、遥が小さくガッツポーズしているのが見えた。
——終わった。
三年間引きずった過去が、やっと終わった。
◇ ◇ ◇
その夜、蒼一が来た。
「今日は何かあったんですか」
「……なんで分かるの」
「顔が、いつもと違う」
いつもの席に座った蒼一は、私をじっと見ていた。心配そうな目。でも、同時に——期待しているような目。
「元婚約者が来た」
「……そうですか」
「断った」
蒼一の目が、一瞬大きくなった。
「戻りたいって言われたけど、もういいって言った。好きな人がいるからって」
「……そう、ですか」
「嘘じゃないよ」
私は棚から、あの取っ手のないマグカップを取り出した。
「これ、あげる」
「え」
「もう要らないから。——新しいペアを買うから」
蒼一が、マグカップを受け取った。大きな手で、繊細に。
「……物語は」
「全部話したでしょ。聞いてたじゃん」
「そうじゃなくて——」
蒼一が、珍しく言い淀んだ。耳が赤い。
「俺も、新しいペアを買いたいんですけど」
心臓が跳ねた。
「俺と——揃いのマグカップ、買いませんか」
……不器用か。
「それ、告白?」
「……たぶん」
「たぶんって何」
「俺、こういうの慣れてなくて——」
もう我慢できなくて、私は笑った。三年ぶりに——いや、蒼一と出会ってから何度目だろう。心の底から。
「蒼一、右利き? 左利き?」
「……右利きですけど。なんで?」
「取っ手の向き、揃えたいから」
蒼一の耳が、真っ赤になった。
「……それ、OKってことですか」
「さあ、どうでしょう」
「澪さん……」
「冗談。——うん、買おう。揃いのやつ」
蒼一が、ふっと笑った。初めて見る、柔らかい笑顔だった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
片方だけのマグカップを、私はもう捨てられる。
だって今は、新しいペアを買う理由ができたから。
——ああ、そうだ。
「店の名前、変えようかな」
「え?」
「『Loss』じゃなくて」
「……何にするんですか」
「まだ決めてない。でも——」
蒼一の手が、今度はためらいなく私の手を握った。大きくて、温かい手。
「——『喪失』はもう終わりだから」
窓の外で、雨が上がり始めていた。
三年前、悠真が出て行った夜も雨だった。あの時は、雨音が私の泣き声を隠してくれた。
でも今は違う。
雨上がりの空に、うっすらと虹が見える。
「蒼一」
「はい」
「来週も来る?」
「……もちろん」
「じゃあ、閉店後じゃなくて、普通に営業時間に来て。コーヒー奢るから」
「それ、客として来るなってことですか」
「……分かってるじゃん」
蒼一の耳が、また赤くなる。
ああ、この人の隣なら——私も、新しい物語を始められる気がする。
片方だけだった私は、もう片方だけじゃない。
欠けた取っ手の代わりに、握ってくれる手があるから。
「ねえ、蒼一」
「はい」
「私の物語、どうだった?」
「……最高でした」
「嘘つき。惨めな話だったでしょ」
「惨めなんかじゃない」
蒼一が、真剣な目で言った。
「片方だけになっても、ずっと価値を持ち続けた人の話です。——俺は、そういう物語が好きなんです」
ずるい。そんなこと言われたら——
「……泣かせないでよ」
「泣いてないでしょう」
「泣きそうなの。我慢してるの」
「じゃあ、泣いていいですよ」
「……うるさい」
でも、涙は出なかった。
代わりに、笑みがこぼれた。
三年ぶりの涙じゃなくて、三年ぶりの——いや、もう数えるのはやめよう。
これからは、笑った回数を数えていく。
蒼一の隣で、新しいペアのマグカップで、コーヒーを飲みながら。
「店長ーーーー!! 付き合い始めたなら報告してくださいよーーー!!」
翌日、出勤してきた遥の絶叫が、店中に響き渡った。
「うるさいな……どこから聞いたの」
「カウンターに置きっぱなしのマグカップ見れば分かりますよ! 『蒼一』『澪』って名前入りのペアマグカップ!! いつの間に買ったんですか!!」
「……昨日の夜、ネットで」
「早い!! 展開が早すぎる!!」
遥が騒いでいる横で、私はカウンターに並んだ二つのマグカップを眺めた。
白地に青い鳥——じゃなくて、白地に青い猫。新しいデザインの、新しいペア。
取っ手の向きは、左右対称。右利きの蒼一と、右利きの私が、向かい合って座った時にちょうどいい配置。
「……いい買い物した」
「聞いてます? 店長!!」
「聞いてない」
「ひどい!!」
でも遥も、怒っているふりをしながら嬉しそうだった。
「店長が幸せなら、まあいいですけど。でも報告はしてくださいね!? 私、三年間ずっと店長のこと心配してたんですからね!?」
「……ありがと」
「え」
「ありがとう、遥。ずっと気にかけてくれて」
遥が、目を丸くした。
「……店長が素直にお礼言うの、初めて見ました」
「うるさいな。たまには言うでしょ」
「言わないですよ。三年間で一度も」
「……そう」
そうだったのか。
私は三年間、誰にも素直になれなかった。「大丈夫」「平気」と嘘をついて、一人で抱え込んで。
でも、もういい。
蒼一に出会って、過去を語って、醜い本音を吐き出して——やっと、素直になれた。
片方だけのマグカップは、もう棚の奥にはない。
蒼一の家に、彼のコレクションの一つとして飾られている。「物語のあるマグカップ」として。
そして私のカフェには、新しいペアのマグカップがある。
——これから始まる、新しい物語のために。
「いらっしゃいませ——あ」
開店と同時に入ってきたのは、蒼一だった。
今日は傘を持っていない。晴れてるから当然だけど。
「おはようございます」
「……おはよう。早いね」
「一番に来たかったので」
耳が赤い。
「コーヒー?」
「はい。——あと、できれば」
「できれば?」
「隣、座っていいですか」
カウンターの、私が普段立っている側を指差す蒼一。
……不器用か。
「いいよ。でも、仕事の邪魔しないでね」
「しません」
「嘘つき。絶対するでしょ」
「……たぶん」
遥が「ごちそうさまでーす」と棒読みで言いながら、厨房に引っ込んでいった。
私は笑って、蒼一の隣に立った。
新しいペアのマグカップに、コーヒーを注ぐ。
——片方だけのマグカップには、物語がある。
でも、ペアのマグカップには——これから始まる物語がある。
私と蒼一の、新しい物語が。
「蒼一」
「はい」
「好きだよ」
蒼一のコーヒーが、テーブルにこぼれた。
「……っ、急に言わないでください」
「ふふ、ごめん」
「謝ってる顔じゃないですよね」
「うん、全然」
蒼一の耳が真っ赤なのを見て、私は今日も笑った。
三年間、失ったものを数えて生きてきた。
でもこれからは、得たものを数えて生きていく。
蒼一の笑顔。遥の応援。母の優しさ。
そして——新しいペアのマグカップ。
『Loss』という名のカフェで、私は『喪失』を終わらせた。
次の店名は、まだ決めていない。
でも、蒼一と一緒に考えようと思う。
——きっと、いい名前が見つかるはずだから。




