第37話「開演前夜」
役所の一角にある選挙管理委員会の窓口は、他の部署に比べてひっそりとしていた。
「……立候補の手続きに来ました」
そう口にした瞬間、カウンター奥の事務員がわずかに顔をしかめたのを、ゼントは見逃さなかった。
「はい……お名前と生年月日、住所をお願いします」
抑揚のない声で応対する事務員は、事務的に用紙を差し出し、用意された椅子を指さした。
ゼントが記入を始めると、隣の事務員が小声で何かをささやいたのが聞こえた。
「……今年はもう、候補者は決まってると思ってたんだけどな……」
(なるほど、歓迎ムードではないか)
記入を終えると、事務員は機械的に書類を確認し、説明を読み上げ始めた。
「選挙には候補者本人を含め、最大3名までが演説に登壇できます。演説は許可された日時・場所のみで行ってください。音楽や太鼓など、注目を集める手段は一定の範囲で認められています。名前や標語を書いた横断幕や、のぼりはご自分で用意してください」
その説明は、淡々としているがどこか「やめた方がいい」と言わんばかりの圧を帯びていた。
「……では、こちらで書類と供託金を預かりますね。落選した場合、返還はされませんのでご留意を」
「……わかりました」
——あとは、この声を、どう響かせるかだ。
◇
アーリの商店の奥。普段は在庫置き場に使われている小部屋に、簡易な机と椅子が運び込まれていた。
段ボールの上に地図を広げ、選挙区の人口分布や演説予定地を確認する。壁には手書きのスローガンと、支援者から寄せられた応援メッセージが貼られていた。
「……まあ、事務所って言うには簡素すぎるけどね。でも、ここから始めるなら悪くない」
アーリが腕を組みながら言った。
ゼントは椅子に腰を下ろし、配布された書類の束を机の上に広げた。
「選挙のルールはだいたい把握した。演説は三人まで。のぼりや横断幕は自前。太鼓もOKだ」
「……思ったより自由度あるじゃないか」
ダルが口を挟む。
「だからこそ、伝える力が問われるな。お前の言葉は、もう教室を越えて届き始めてる」
ライ先生が応じた。
「よし、あとは仕上げだ」
アーリが手を打つ。何かを思い出したように、棚の奥から一通の封筒を取り出した。
「そうだ、商業ギルドの副ギルド長から預かってたんだ。あんたに渡してくれって」
ゼントは封筒を手に取り、そっと封を切った。
中には数枚の紙幣と、短い手紙が入っていた。
「これは選挙に必要なものに使ってくれ。表立っては応援できんが、こちらも動いている。……忘れるな。お前は、もうひとりじゃない。」
「素直じゃないねぇ。ま、あいつらしい。……でも、こういうときは頼りになるやつだよ、ほんとに」
アーリは封筒を覗き込みながら、ふっと笑った。
ゼントはしばらく無言で手紙を見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。
「……ありがたい」
そっと封筒を胸元に押し当てる。ぬくもりのようなものが、そこに宿った気がした。
「……ありがとう、みんな」
視線を落としたゼントの瞳には、微かに熱を帯びた光が宿っていた。
ミキ、ノゾミ、ヒロじい、アンナ。大切な顔が、次々に脳裏に浮かぶ。
「俺たちのゲームの……本番だな」
ゼントが静かに言った。
◇
広場にはすでに人だかりができていた。現市長の演説が、ちょうど終わるところだった。
正面には、横断幕に大きく名前が記され、左右には縦に並ぶ応援者の名前。太鼓を持った男が、どん、どん、と音を鳴らしながら立つ。
「たのしい街づくりを目指します! ご清聴、ありがとうございましたーっ!」
拍手。再び、どん、どん、と太鼓が鳴る。
現市長が深々と頭を下げ、舞台からはけていく。
「……あいかわらず、典型的な演説だな」
アーリが小さくつぶやいた。
彼女が視線をステージに向けると、スタッフが一斉に動き出す。
黒いカーテンが舞台の前方からゆっくりと引かれ、全体を覆い隠す。観客からは、舞台の内部が完全に見えなくなった。
「……なにが始まるんだ?」
「幕……? いや、違う。あれは……隠してる?」
ざわめきが、徐々にざわつきから期待へと変わっていく。観客の視線が、一様にカーテンの向こうを見つめていた。
その中、舞台裏でゼントたちは最後の準備を整えていた――。




