第35話「希望の代価」
役所の建物は、朝の光の中でもなお重々しかった。灰色の石造りの壁は、どこか無機質で、人を拒むような冷たさがあった。
ゼントは深呼吸をひとつしてから、扉を押した。
「……市長選の立候補、について伺いたいんですが」
受付の女事務員は、ちらりと視線をよこしただけで、面倒そうに書類の束を引き寄せた。
「立候補者ですか。書類はこちら。必要事項を記入の上、供託金をご準備ください」
「供託金……?」
「三百万クラウンです。現金で。提出期限は、7日後の正午までとなっております。なお、落選された場合の返還はありません」
その言葉を聞いた瞬間、視界が少しだけ揺れた気がした。
「……そんなにかかるんですか」
「法律で定められておりますので」
あくまで事務的。驚きも、同情も、そこにはなかった。
書類一式を受け取ったゼントは、小さく頭を下げて役所を出た。
市場の脇を抜けて歩く帰り道、遠くから子どもたちの笑い声が聞こえてくる。誰かが「今度は俺の番だ~!」と叫んでいた。
笑っている子どもたち。だが、胸が重い。
(届けたい。伝えたい。けれど、立つには……金が要る)
家に戻ったゼントは、帳簿を開いた。
野菜の売上。仕入れ。税。支出。月々の生活費。
……とても足りない。
机に額をつけたまま、呻くように呟く。
「三百万……そんなもん、どうやって……」
そのとき、扉がノックされた。
顔を上げると、そこにはヒロじいの孫のアンナが立っていた。
「……ゼント、選挙に出るんだって? ちょっとこっちに来て!」
手を引かれるまま、ゼントはヒロじいの家へ向かった。
アンナから、封筒を手渡される。封筒の中に、一枚の紙が添えられてあった。ヒロじいらしい、きれいな字で書かれてあった。
『異世界の記憶をもとに、私が名を与えた子の誰かが、この世界の制度に疑問を抱き、いつか選挙に立つ時が来るかもしれない。
あの世界で、未来や希望を意味する名前を持つ子供たちだ。そのときが来たなら、迷わずこの金を託してやってほしい。』
ゼントが封筒を開けると、中には丁寧に折り畳まれた紙幣の束と、一枚の古びた紙が入っていた。
目頭が熱くなりそうになるのをこらえながら、ゼントは深く頭を下げた。
「……ヒロじい、ありがとう」
その帰り道、アンナはそっとポケットから数枚の硬貨を取り出し、黙ってゼントの手に握らせた。
「私からも、少しだけだけど」
手の中には、数枚の銅貨。子どもにとっては大金だ。
「……だめだよ、これは受け取れない」
ゼントが慌てて返そうとするが、アンナは首を横に振って手を握り直す。
「絶対に勝って。じーじの気持ち、無駄にしないで」
声が少し震えていた。小さな手のひらは、銅貨を包んだまま離さなかった。
ゼントは息を呑み、銅貨を胸にしまい、静かにうなずいた。
「ありがとう。……百人力だよ」
その足で、ゼントはアーリの商店に立ち寄った。
奥の作業部屋には、アーリ、ダル、そしてライ先生が集まっていた。テーブルの上には、ゲームの部材や販売用の資料が雑然と並んでいる。
「供託金だろ」
アーリが切り出した。
「ここまで広がったゲーム、その利益はあんたの力だ。だったら、使っていい」
ダルがすぐにうなずく。
「俺の取り分も使ってくれ」
ライ先生は頷いた。
「私の分もだ。あのゲームは、教育のために始めた。だが今は、それ以上の意味を持っている。ここが正念場だ」
「ありがとう」
ゼントが、静かに頭を下げる。
だが、それでもなお、目標には届かない。
「……あと、少し足りない」
アーリがぽつりとつぶやいた。
「なら、あいつに頼みにいきな」
アーリの言葉に、ダルが頷く。
「……あいつ……って?」
「ギルドの男だよ。商業ギルド、この地域の副ギルド長なんだよ」
「前に署名を届けに来たときの、あの人か……」
「どうりで、妙な迫力があったな」
ダルがぽつりと呟いた。
「お前に関心を持ってたしな。話せば分かると思う」
アーリがそう言って、地図の端を指さした。
「ここがあいつの屋敷だ」
ゼントは、その紙を手に取って見つめた。
「……分かった。行ってくる」




