3-69 あなたのそばが私の居場所なので
この水路は私たちが発見して以来、オルハン殿下の指示で整備が進められていたそうです。
だから明かりもちゃんと灯っていて薄ぼんやりと明るい。揺れる水面が光を反射して壁や天井に独特の陰影をつけていました。
その反射する光がセレスタン様のお顔にチラチラと影を作り、ひどく幻想的で。私を見つめるスミレ色の瞳もまた、夜明け前の星々のように煌めいています。
彼は何も言わず私の指先にキスをしました。びっくりして恥ずかしくて心臓が口から出そうなくらい飛び跳ねて。
何も言えずにいると、立ち上がった彼は私の手を引いて、腕の中に閉じ込めてしまいました。
「君を愛してる」
「え……」
彼の腕はしっかりと私を捕らえ、抜け出すことはできそうにありません。
っていうか、今なんて言ったんですか。愛? って聞こえました。合ってますか、聞き間違いではないですか。食べ物ですか。
混乱する私の耳に、彼の胸の鼓動が聞こえました。セレスタン様の緊張が私の緊張と混じり合って、居心地悪いのにずっとこうしていたいような、不思議な感覚です。
「ずっと好きだった」
「ずっと」
「そう。リトンの街で夜空を見ながら『虹は雨のあとのご褒美だ』と笑ってたあの頃から惹かれてたんだ」
「ほぼ最初……」
「俺は家を継がねばならないし、俺の妻ともなれば今まで以上に敵視する者が現れるだろう。そんな生活を強いるのは本意ではない。だが……」
次期公爵様ですからね。相応の家のご令嬢じゃないと駄目だって、周りの人がうるさいらしいし。
平民だって親同士が子の結婚を決めることはよくありますけど、婚姻に求められる責任は貴族と比べるべくもありません。
それに私の両親は熱烈な恋愛の末の駆け落ちなので、彼の言うような貴族の結婚や生活というものを真に理解するのはちょっと難しいのです。
だから、私は彼に返す言葉がありません。
「だが?」
「……歩きながら話そうか。ふたりが水に入るまでそう余裕があるわけでもない」
「そ、そうですね」
私を拘束するセレスタン様の腕が緩み、名残惜しい気持ちを隠しながら離れると不意に彼のお顔が近づいて……。額にキスされました!
ミズネコは水の中でこっちを見てますけど見るんじゃありません!
「えっ、な、えぇっ?」
「隙ありだ」
「はいぃっ?」
そういえばエドリスだった頃もこういう地味な悪戯をよくやっていた気がします。
これが彼の素なのでしょうか。もしかして「セレスタン」でいるときは貴族の皮でも被っているのかしら。
再び私の手をとってタルカラ方面に向けて歩き出すと、セレスタン様が話を戻しました。
「で、まぁ……前世の記憶を取り戻したら、ずいぶん小さいことで悩んでいたなと思った」
「小さいこと?」
「たとえばジゼルは、同じ悩みを誰かに相談されたらどう答える?」
水に浮かぶミズネコが尻尾を揺らし、ちゃぱちゃぱと水音がします。
前世、エドリスとミズネコは会ったことがあるのですが……そのときもこうやって、ミズネコは私たちが話すのを静かに聞いていたっけ。
ふたり並んで手を繋いで歩くのが堪らなく懐かしくて、しかも相手が同じ思い出を共有しているんだと思ったら胸がいっぱいで。
「私には貴族の責任がわからないから、もしかしたら怒らせちゃうかも」
「怒らないよ」
「うーん。お互いが覚悟を決めるのなら、あとはどんな問題であれ力を合わせて乗り越えるだけじゃないかなって。それが結婚ってものなんじゃないの、って思います」
「くくっ。そうだろう? ヌーラなら、そしてジゼルならそう言うと思ったんだ。誰かの敵意なんかを恐れるような女の子じゃないし、そもそも俺が全部の敵意から守ればいい」
「負担が偏るのは好きじゃないわ」
繋いでいた手が一瞬離れたかと思えば、ぜんぶの指を交互に重ねるように握り直されました。アルカロマの貴族はやらない繋ぎ方で、だけどヌーラとエドリスが手を繋ぐときはいつもこう。
やっぱりこの人はエドリスだわ! そう思ったら握る手に力が入ってしまいました。
「ニャ! そろそろ着く!」
ザバッと派手に水を撒きながらミズネコが水路から出て来ました。進行方向は彼の言う通り行き止まりで、水だけがこの先に行けるのです。
ミズネコはぴょこぴょこと私とセレスタン様のお顔を交互に覗き込み、ニヤっと笑うと再び水に飛び込みました。
「泉の様子見てくるにゃ! ツガイ、頑張れ!」
顔を見合わせて思わず笑ってしまう私とセレスタン様。
以前聞いたときはよくわからなかった「ツガイ」という言葉も、記憶を取り戻した今ならわかります。夫婦の片割れのことを言うんですよね。
ミズネコにとって、エドリスはヌーラのツガイに決まってるからそう呼ぶんでしょうね。
「そういえばミズネコって昔からああいう奴だったな」
「気を利かせたつもりでしょうか」
水面の波紋や水泡が消え、ミズネコの気配がすっかりなくなった頃、セレスタン様が私に向き直りました。
「さっきの答えを聞かせてもらおうかな」
「さっきの?」
「俺がエドリスでよかったって言ったろ。『だけど』じゃなくて『だから』で続く言葉を教えてと」
「あ……。えと、だから、だから私は、それを大切な思い出にして……あれ、ごめんなさい。泣くつもりなんてなくて」
どういった形であれ、結婚前に気持ちを聞かせてもらえてよかった。好きだと言ってもらえてよかった。
私はこの国でイドリース殿下のお嫁さんになるけど、愛する人との思い出は人生二つ分あるから――。
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、ボロボロと涙が溢れてしまいました。もう全然止まらない。自分でイドリース殿下と結婚するって言ったのに!
泣いたらめちゃくちゃ我慢してるみたいになっちゃう。ビビアナ殿下を困らせちゃう。セレスタン様を――。
と、セレスタン様がまたしても私の手を握ったままで跪いたのです。
「ちょ、セレスタン様?」
「結婚しよう」
「……え?」
「生まれ変わったら今度こそ一緒に生きていくって言っただろ。何があっても離れないと」
そう。確かに言いました。その約束があるから、ヌーラは死も怖くなかった。やっと会える。今度こそ一緒にいられるって。
だから次がない今は、正直すごく怖い。
「私……」
「俺は覚悟を決めた。ジゼルが同じ気持ちでいてくれるなら、攫ってでも連れて帰るしイドリースと結婚なんかさせない。アルカロマに居場所がなければ一緒に旅に出るのもいい。世界はすごく広いんだ。君を色んなところに連れて行きたい」
「私、許されるならセレスタン様と一緒にいたい。あなたのいるところが私の居場所だから!」
そう言い終えるより先に、セレスタン様が立ち上がって私を抱き上げました。




