3-61 私の手が真っ赤に染まって
セレスタン様が、イドリース殿下が、ハラーク公爵が戦っています。
すぐ近くで金属のぶつかる音が響き渡り、その合間には荒い息遣いや呻き声も聞こえて。広場側の騒ぎも、聖騎士たちが戦線を下げたせいか、あるいは押されているのか段々と近づいている気配です。
「あなた方の代弁者であり人々の代行者たる私ジゼル・チオリエが畏れ多くも申し上げます」
すぐそばで神殿騎士がまた一人倒れました。
セレスタン様が戦闘不能にしたのです。が、出血はしてない。
そう。彼らはただ操られているだけだから、魔獣を相手にしたときのように殺すわけにはいかないのでしょう。私もそのお考えに賛成です。ただ、それはあまりにも……こちらが不利。
実際に、セレスタン様もイドリース殿下もハラーク公爵までも、一度に複数人を相手にギリギリの戦いを強いられているのです。その汗に、位置取りに、疲労の蓄積が垣間見えます。
急がないと。
「あなた方の愛する民が悪意に絡めとられています。歪んだ人工の悪意に苦しめられているのです」
掲げた杖が薄らと光りました。この晴天の下では気付く人もいないほど淡く。
と同時に集まった精霊たちが『そうだね』と悲しそうなお顔で頷くのです。私は自分の祈りがもっと強くもっと広く届くようにと杖を持つ手に力を籠めます。
そのとき、背後でヨアンさんの焦る声が。
「ブノワ! すまん、ひとり抜けた! 追ってくれ!」
「ざっけんな!」
背後の広場や階段の様子はわからない。けど、みんなを信じるしかない。
「どうか、あなた方の子どもたちから苦しみを取り除き――」
「ジゼル!」
「ジゼル様!」
「ジジー!」
神殿騎士の剣を受けたセレスタン様が視線だけをこちらに向け、私の名を叫びました。背後から呼ぶのはブノワさんでしょうか。さらにネルミーン姫の声まで。
でも今は動けない。ここでやめたら最初からやり直しですから。時間がたつほど私たちは追いつめられてしまうから。ただネルミーン姫が無事なことがわかってよかった。
「人工の悪意から解放し、愛しい子らに平穏を――んぐっ」
視界の隅で、セレスタン様が鍔迫り合いをしていた相手のお腹を押し蹴って遠ざけ、こちらへ走り込んできました。とても悲痛な表情で。
またそれとほぼ同時に、私は背中から強い衝撃を受けて押しつぶされてしまったのです。膝立ちになっていた私はうつ伏せに倒れ、耳元には苦しそうな女性の呻き声が。
背中にかかる重圧に体が動かせず、状況がさっぱりわかりません。杖は転がり、フードもいつの間にか脱げてしまって。それにとにかく重くて苦しくて。
少しでも呼吸が楽にならないかと左手で身体を支えようとしたそのとき、生温い、しっとりした感触が左手いっぱいに感じられました。先ほどの沐浴の水でしょうか。でもそれとは少しずれた位置だと思うのだけど。
気になって恐る恐る確認したその手は真っ赤に染まっていました。
「ひっ――」
「ジゼル! 怪我したのかっ?」
「ああくそっ! 邪魔だ、どけ!」
セレスタン様とイドリース殿下がそれぞれに駆けつけ、私の上に覆いかぶさる誰かを取り除いてくれます。
ようやく軽くなった体をセレスタン様が抱え起こし、腹や背中、腕などを具に確認しました。
「その血はなんだ、どこを怪我した? すぐに医者を――」
「違う……」
「え?」
「私の血じゃないです! ……あっ、ネルミーン姫はっ?」
さっき確かに女性の呻き声が聞こえたはず!
ネルの姿を捜して周囲を見回すと、彼女は膝をついて肩で息をしながら神官に支えられていました。彼女のドレスにもべったりと血が付着しています。
「ネル……っ?」
「ジジー、無事?」
「私は。でもネルは? その血って」
「良かったわ。ジジーを狙って神殿騎士が迫っていたから咄嗟に割って入ってしまったけれど、あたくしも何もないみたい。平気よ」
ネルの言う通り、私たちのそばには親衛隊に拘束される神殿騎士の姿があります。イドリース殿下が彼の手から叩き落した短剣は確かに血に染まっていて。
左手に付着した、ぬらぬらと鈍く光るこの血は、では一体誰のものなの?
一瞬だけ顔を見合わせた私たちですが、でも次の瞬間にはある一点に視線が集中しました。私の足元に転がるひとりの男性です。
「ブノワさん……? ブノワさん!」
這うようにブノワさんの元へ向かうと、青白い顔で荒い息をして。ああ、生きてはいる。生きてはいるけど!
「い……ってぇ……。ジゼルさ、ま。ジゼルさまは」
「ここ! ここにいます!」
「おー……。よかった、ご無事っしたか。ハハ、俺ちょっとミスったくせぇ……。でも無事でよかった」
「喋らないで。今すぐ私が――」
「ジゼル! ……やめろ」
治癒をしようとした私を、セレスタン様が鋭く諫めました。
どうして? ブノワさんが今こんなに苦しんでるのに。ベアトリスさんは倒れたままなのに!
「ヨアン、ブノワを医務室に連れていけ!」
「や、医務室だってコレじゃ機能してるか」
「いいから!」
「一瞬待ってください、こいつ、くそっ、邪魔なんだよぉ!」
セレスタン様と、階段上で操られた人々をどうにか抑えているヨアンさんとのやり取りに交じって、親衛隊の魔術師さんの声も。
「隊長、これ以上は魔防結界もちません!」
「まじかよ、どこから何が飛んでくるかわかんねぇのに……兄上と妃殿下を中に避難させるか」
結界とかよくわからないけど、攻撃を凌ぐための魔術的な何かがあるんだと思います。多分。
さらにイドリース殿下の言葉を半ば遮るように、ハラーク公爵が謝罪します。
「殿下、申し訳ありません! 神殿内からまた馬鹿共が……」
「こんなおかわりいらねぇんだよ、くそが! 中も安全じゃねぇなぁ!」
もうぐちゃぐちゃです。
どこもかしこも綻びだらけで、一瞬の気の緩みで全てが瓦解するような。目まぐるしく変化する状況と周囲の声に翻弄されて、考えがまるでまとまりません。
ブノワさんを助けないと。ベアトリスさんの状態を確かめないと。みんなを正気に戻さないと。
「おい、ジゼルッ?」
セレスタン様の脇をすり抜け、杖を拾い上げました。
もう、本気で頭にきたので!




