第九十三話
「………」
崩壊したベランダの残骸を踏み締め、ヴィーヴルは無言で佇む。
ブレスの直撃を受けた筈だが、肌に傷どころか衣服に焦げ跡すら残っていない。
「全く、傷付くぜ…」
それを見てザッハークは呟く。
「結構本気で撃ったのに、無傷かよ。自信を無くしそうだなァ」
じろり、とザッハークはヴィーヴルを観察するように見つめた。
一見、何の武装もしていないように見えるが、その身体は見えない鱗に覆われている。
魔力で構成された透明の鱗はヴィーヴルを常に守り続ける『城』だ。
「流石は、最古参の一体。ファフニールとティアマトの次に長生きなことだけはあるか」
防衛力、と言う一点ではティアマトさえ上回るかも知れない。
並みのドラゴンは当然ながら、同じ六天竜であっても正面からヴィーヴルを傷つけることは難しい。
「…あなたは、私と戦う為に来たの?」
ヴィーヴルは悠長にそう訊ねた。
ザッハークに向けた顔はいつもと変わらず無表情で、不意打ちを受けたことに怒りすら感じていない。
「…今ならごめんなさいって言えば………許す、よ?」
「それはそれは慈悲深い…と言うより、お前の場合は戦いが面倒なだけかァ?」
少し呆れたようにザッハークは肩を竦めた。
この小さな女は、ザッハークのことを敵とすら認識していないのだ。
今までに腐るほど居たドラゴンの中の一つとしか考えていない。
「…舐めやがって」
ザッハークの顔に殺意が浮かぶ。
今まではこの屈辱に耐えてきたが、それもこれまでだ。
その静かな怒りに呼応して、大地が蠢く。
「『ヒュドラ』」
「!」
ヴィーヴルを取り囲むように、地面から九の首が伸びる。
泥土から生まれた大蛇は、裂けるように大きく口を開き、ヴィーヴルへ向けた。
「放てェ!」
合図と共に、全ての首からブレスが放たれる。
最初のブレスが三つの首から放たれた攻撃なら、今度はその三倍。
九つの首から放たれた光は、全てヴィーヴルに命中した。
「まだまだァ!」
それでも攻撃の手を休めることなく、ザッハークは地面に手を当てた。
大蛇に囲まれたヴィーヴルの前後に岩の壁がせり上がる。
「潰れろォ!」
生み出した大蛇ごと岩の壁がヴィーヴルを圧し潰す。
ヴィーヴルは抵抗する素振りすら見せず、岩の中に消えた。
ドラゴンであろうと、全身を潰されては死を免れないが、ザッハークは未だヴィーヴルの方向を睨みつけていた。
「―――我が心は宝石」
ぴくりとも動かない岩の中から、歌うような声が聞こえた。
「何者にも壊されず、何者にも穢されず、何者にも理解されない」
音も無く、岩に亀裂が走っていく。
魔力によって構成された岩の壁が崩壊する。
「我が心よ、地の底で輝け」
それは孤独の歌。
地の底でただ一つ存在し続ける宝石のような、孤高の輝き。
「『エーデルシュタイン』」
パラパラと砕ける岩の中から、無傷のヴィーヴルが現れる。
その頬にはダイヤマークのような紋様が浮かんでいた。
「竜紋、か」
ザッハークは忌々しそうに吐き捨てる。
「知っているぜ。お前の竜紋の能力はよォ」
直接戦った経験は無いが、ファフニールとティアマトの下に居たザッハークはある程度他の六天竜の情報も知っていた。
ヴィーヴルの能力は物体の強度変換。
自身の皮膚を宝石並みに硬くしたり、逆に触れた相手の骨を脆くしたり出来る。
攻防一体の強大な力だが、特に防衛力が厄介だ。
ただでさえ強固な鱗が更に強化されるのみならず、それに触れたあらゆる攻撃が砂の城のように脆くされてしまう。
込められた欲望は『誰にも触れられない』
世界への強い拒絶感から生まれた力だ。
「警告は、したから。殺されても、文句はない…よね?」
「キヒヒヒヒヒヒ! やってみろォ!」
壮絶な笑みを浮かべて、ザッハークはヴィーヴルへ襲い掛かった。
「フッ!」
次々と迫る竜の首を素手で防ぎ続けるヴィーヴル。
ヴィーヴルの身体能力は外見相応の物でしかない。
しかし、竜紋を纏ったヴィーヴルは触れる物全てを破壊する。
竜の牙はヴィーヴルの鱗を突破できず、ヴィーヴルの小さな拳に触れた途端に柘榴のように裂ける。
どれだけ戦い続けてもヴィーヴルの体には傷一つ無く、ただその返り血のみが付着していた。
「ハッ!」
「ぐ…あ…!」
ヴィーヴルが接近していたザッハークへと拳を振るう。
それは殴ると言うよりは触れるような一撃だったが、ザッハークの臓器と骨を砕き潰し、その身体を吹き飛ばした。
「キヒヒ、ゲホッ! ヒャハ、ヒャハハハハハハ! どうしたァ? それで終わりかァ!」
血を吐きながらもザッハークは狂気的な笑みを浮かべて叫ぶ。
状況的には追い詰められている筈なのに、表情は変わらない。
(何? この余裕は…)
ヴィーヴルはザッハークの態度に違和感を覚えた。
ザッハークのことを殆ど知らないヴィーヴルだが、それでも無計画な愚か者では無いことは知っている。
勝算の無い戦いを挑むような男では無く、勝ち目のない戦いを続けるような馬鹿では無い。
何を狙っている? 何を待っている?
そんな思考に集中していた時、ヴィーヴルの足が突然機能を失った。
「な…」
ガクッと足の力が抜け、そのままヴィーヴルは地面に倒れる。
「キヒヒ」
地に顔を付けたヴィーヴルを見下ろし、ザッハークは嘲笑を浮かべた。
それだけでヴィーヴルは理解した。
ザッハークの罠に嵌まったのだと。
「力を、奪う能力?」
「ヒャハハハハ! 大正解!」
勝ち誇るようにザッハークは嗤った。
ザッハークはヴィーヴルの竜紋を知っていたが、ヴィーヴルはザッハークの竜紋を知らなかった。
当然だろう、ザッハークは自身の能力をティアマトにさえ隠していた。
偽名まで使って徹底して情報を隠していたのは、いつか下剋上を果たす為。
自身より若いドラゴンにワームと蔑まれる屈辱に耐えてきたのも、この時の為。
「コレが頭を使った勝ち方ってやつだよ。何百年も喰う為だけに生きてきた馬鹿には難しい話だったかァ? ヒャハハハハ!」
「………」
ザッハークの竜血を大量に浴びた為か、もうヴィーヴルは起き上がることさえ出来なかった。
残忍な笑みを浮かべたザッハークが近付いてくる。
ヴィーヴルの血肉を喰らう為に。
「………」
目の前に迫る死を感じながらも、ヴィーヴルに恐怖は無かった。
そもそも、今まで何の為に生きてきたのだろうか。
人を喰らうことも無く宝石を集めてきたが、それはただ生きる為だ。
何の理由も目的も無く、ただ生きていただけ。
人間も竜も、誰にも心を許さず、一人で生き続けた。
(私は、何を求めて…?)
何が欲しくて、生きてきたのだろうか。
「それじゃあ、いただきますってかァ?」
頭上から声が聞こえた。
ヴィーヴルは顔を上げることもなく、その運命を受け入れる。
「『屠竜一閃』」
その時、一筋の風がヴィーヴルの頭上を通り抜けた。
赤い軌跡がザッハークの腕を斬り飛ばす。
「間一髪、と言ったところか?」
男は紅く染まった剣を手にして、そう言った。
「何だ、お前は…」
「俺を知らねえのか? じゃあ、名乗るからよく覚えておけ」
赤いマントを翻し、男は告げる。
「俺はフライハイト。真紅のドラゴンスレイヤー、フライハイトだ!」