真・摂政戦記 003話 投入
【筆者からの一言】
帝国陸軍最強戦力の正体が今、明らかになる!
1941年12月某日 『アメリカ ワシントンDC』
ルーズベルト大統領が連邦議会議事堂において日本に対し開戦演説をしていた頃、摂政の新たな作戦が開始された……
澄み渡る青空に白い雲が流れている。
今、その大空に人の手により造られた人工物が幾つも浮いていた。
最初は小さかったそれは、近付くにつれ徐々にその正体をワシントンDCにいる者達の目に晒す。
それは飛行船だった。
大型飛行船だった。
五隻の飛行船がゆっくりとワシントンDC上空に近付いてくる。
そのガスがつまった気嚢にはには「LOVE & PEACE(愛と平和)」と英語で大きく描かれている。
だが、この飛行船船団はアメリカ人が運航しているものではなかった。
書類上ではアメリカの民間観光会社が運航している飛行船とはなっている。
しかし、それは表向きの話しであり、その民間観光会社の実態は閑見商会のダミー会社だった。
そして、この飛行船船団こそはダミー会社を隠れ蓑に摂政が開戦数年前より密かに準備していた対アメリカ決戦用部隊の「第零東遣航空艦隊」であった。
ダミー会社の民間観光飛行船会社を隠れ蓑にして役所から営業許可と運航許可をとり、大型飛行船を購入して、この来るべき日が来るのを待っていたのである。
今、ここに乾坤一擲のワシントンDC強襲作戦が始まりを告げた!
「ワシントンDC上空脅威無し!」
艦橋より見張り員が叫ぶ。
それもその筈、今頃、ワシントンDCに近い航空基地は全て「桜華乙班紅桜蕾隊」の狗達に攻撃されている。破壊工作による爆破と外部からの奇襲攻撃の二本立てで戦闘機を飛び立てなくさせている。
ワシントン上空はこの時、日本が押さえたのだ。
指揮官が命令を下す。
「よしっ! 作戦開始!」
「了解! 降下七分前!」
緊張をたたえた応えを作戦参謀がかえす。
船内は既に緊張状態だったが、空気が更に張り詰めた。
船内後部の改装された貨物室内には天井に大きな日章旗が張られている。
その下で降下する予定の兵士達が最後の点検をしている。
それが終わった数分後、遂に始まった。
船内拡声器から伝達と指示が届く。
「一番艦、コース良し、コース良し、用意、用意、用意、降下! 降下! 降下!」
降下作戦が始まった。
落下傘を背負った兵士達が次々と飛行船の貨物ハッチより飛び出していく。
青空に数百もの白い落下傘が花開いた。
落下傘を上から見れば大日本帝国の名と日の丸が描かれているわかる。
目標はアメリカ連邦の議会議事堂と陸軍省と海軍省。
その周辺は広く敷地がとられており、緑の芝生の地も多い。
現代ではアメリカの国防総省はペンタゴンと呼ばれバージニア州のアーリントンにある。
しかし、それは後の話であり1941年12月の時点では陸軍省と海軍省に分かれており、その両省はワシントンDCにあった。
陸軍省と海軍省を押さえれば軍は大混乱に陥るだろう。
落下傘部隊は空中にある時から攻撃を開始した。
落下傘で降下しながらマフィアとの取り引きで入手したトンプソン短機関銃を地上に向け乱射し、手榴弾を落とす。
地上にいた人々は驚愕し逃げ惑った。
議会議事堂では連邦議会警察と海兵隊が警備についていた。
陸軍省と海軍省では、それぞれの警備兵が警備についていた。
それらの兵士達が落下傘で降りて来る正体不明の者達に向け発砲を開始した。
だが、予期しない突然の空からの攻撃に動揺は隠せない。
浮足立っていた。
警備兵と交戦しながら次々と落下傘部隊の兵士達が議会議事堂と陸軍省と海軍省の近辺に着地していく。
この落下傘部隊が着地したタイミングで飛行船団より発煙弾が地上に向け落とされる。
白い煙幕を吐き出しながら発煙弾が落下し、辺り一面を白い煙で覆っていった。
発煙弾の数は多く、議会議事堂、陸軍省、海軍省を白い煙で取り巻き覆い隠す。
警備兵は味方や民間人に弾が当たるのを恐れて安易には銃を撃てなくなった。
この時、議会議事堂近くに着地した一人の日本兵は大地に降り立ち落下傘を外すやいなや、白い煙の中に飛び込み剣を一閃、見事にアメリカ人兵士の首を刎ねる。
その剣を振るった男の名は国井善弥。1894年生まれの47歳。
史実では数多くの他流試合を行いながらも生涯不敗を誇り昭和武蔵の異名をとった剣豪。
鹿島神流十八代目宗主。
そして陸軍戸山学校に銅像が建てられた剣術家でもある。それには当然、理由がある。
戦場で最後の活躍を飾るのは歩兵だ。歩兵が敵兵を駆逐して敵地を占領して戦いは終わる。
ライフル、機関銃、戦車、大砲という火器が発達しても最後の最後は歩兵が突撃して敵兵を倒し敵地を占領する。最後の場面では銃剣で戦う事もある。
だからどこの国でもライフルには銃剣が付けられるようになっている。
日華事変が開始された頃、陸軍において一つの問題が発生した。
日本陸軍の将校達は軍刀を持つ。
場合によっては軍刀で突撃をする。
そこまではいい。
問題は軍刀を手に突撃し中国兵の返り討ちにあい死傷する将校が無視できぬほど多かったのだ。
日本陸軍は近代剣道を導入している。
しかし、近代剣道はある意味スポーツだ。
相手を打つ箇所が決められているから変則的な動きは少なく速度が重要視される。
だが、その近代剣道では実戦では通用しなかった。
剣道でよくやるような面打ちはヘルメットをしている敵兵に致命傷を与える事が難しく敵兵を倒せず逆撃を受け負傷する者が相次いだ。
剣道でいつもしているような打込みでは威力不足で敵兵を殺せなかったのである。
この事態を憂慮した日本陸軍上層部は急遽、剣術の指導に古流剣術の大家たる国井善弥を指導者として陸軍戸山学校に招く。
戸山学校は現代日本の新宿にあった陸軍の学校で、歩兵の戦闘技術を教えたり研究したりしている学校だ。
国井善弥はここで将校達に剣術を教え多大なる貢献を果たす。
そして銅像が建てられる事になったのだ。
それが国井善弥の一つの逸話だ。
国井善弥は他にも逸話は事欠かない。
戦後、日本を占領統治していたGHQの肝入りでアメリカ海兵隊の銃剣術の教官と日本の剣術家が試合をする事になった。
この時、日本側の代表として選ばれたのが国井善弥であり「音無しの構え」で圧勝した。
国井善弥は柔術でも強かった。鹿島神流には柔術もある。
戦前にフランスの軍艦が日本を訪問した時に異種格闘技戦の親善試合が行われた事がある。
フランス側はボクシングのヨーロッパ選手権保持者の水兵が出て、日本の柔道家達と試合を行ったが日本側の惨敗だった。しかし、最後に国井善弥が登場し、あっという間に勝利してしまう。その時、試合の進行係をしていたフランスの下士官が国井善弥に拳銃を向けるという行為に及ぶ。しかし、国井善弥が殺気を向けるとその下士官は拳銃を放り出して逃げ去ったという話しが伝わっている。
そんな逸話を持ち比類なき強さを誇った国井善弥であったが「剣聖」と呼ばれる事は無かった。
昭和の時代、「剣聖」と呼ばれし者が数名いる。
「剣聖」は技だけでなく高潔な精神も求められ人格者でなければならなかった。
だが国井善弥は必ずしも高潔な人格者ではなかった。
日本各地を道場破りをしてまわり数えきれないほどの看板を持ち帰った。
道場破りに来られた場合も必ず勝負する。
国井善弥が終生誇りにした事は他流試合を挑まれて一度も逃げなかった事だという。
近代剣道を徹底的に批判した。批判したどころか国井善弥の主張は「剣道罵倒論」とまで言われている。
その剣道への罵倒はかなり酷かった。
しかし、反論できる者は皆無に近かった。
国井善弥の強さが剣道界を沈黙させたのだ。
それどころか、某「剣聖」は国井善弥との対戦を避けるほどだった。
それ故に異端であった国井善弥は「剣聖」とはなれなかったのだ。
しかし、この時代、間違いなく日本最強と呼ぶのに相応しい剣術家は、この国井善弥であっただろう。
なお史実において小説家の柴田錬三郎の作品「眠狂四郎シリーズ」で、主人公の眠狂四郎に円月殺法を伝授した師のモデルがこの国井善弥である。柴田錬三郎は直接、国井善弥の剣技を見た事があり、そこから眠狂四郎の師を創りあげたと言われる。
同じく小説家の中里介山の作品「大菩薩峠シリーズ」の主人公で「音無しの構え」をふるう机竜之助も国井善弥がモデルである。中里介山は実際に国井善弥に剣を15年間、学んでいた弟子である。
その国井善弥の剣が今、ここアメリカの大地でふるわれていた。
視界の悪い煙の中を一振りするごとに血しぶきが飛びアメリカ人警備兵が倒れて行く。
銃を撃つ暇など与えぬ、神速の剣。
活人剣ならぬ、まごうことなき必殺の殺人剣がふるわれている。
「うわははははははははっ。ぬるい! ぬるいぞ! どうしたアメリカ人ども。お前らの強さはこの程度か!!」
国井善弥は笑いながらアメリカ人兵士を切り捲る。
その剣を止めれる者などアメリカ人兵士にいはしない。
そんな国井善弥とは対照的に黙々と剣を振るいアメリカ人兵士を倒している者がいた。
その男の名は中山博道。1872年生まれの69歳。
高齢にも関わらず、その剣の冴えは筆舌に尽くしがたい。
常日頃より鍛錬を欠かさないので80歳までは若い者に負けはしないと豪語するだけの事はある。
この中山博道、後世において「剣聖」と呼ばれし武道家である。
「剣聖」ではあるが剣だけの武道家ではない。
中山博道は最初に神道無念流剣術を学んだが、それに飽き足らず幾つもの武道を学ぶ。
剣術でも他に天道流の免許皆伝を受け、居合の英信流の各派を学び、その中で長谷川英信流の免許皆伝を受けている。居合については他に民弥流をはじめとして各派の道場を訪ねて見聞を重ねている。
後には自らが夢想神伝流居合術を創始する。
他にも杖術、弓、槍、薙刀等、色々と学んでいた。
中山博道は剣において「迎うるに敵なし」とまでの強さを讃えられるほどになり、後に神道無念流剣術を学んだ有信館の後継者となって道場を受け継ぐ。その道場は東京では中西派一刀流の明信館と勢力を二分するとまで言われるほど隆盛を誇った。
後に武道の振興を目的に設立された政府の外郭団体である「大日本武徳会」において、武術家に贈られる最高位「範士」の位を、剣術、居合、杖術の三つで授与されたが、三つもの範士を授与されたのは、この中山博道ただ一人である。
その「剣聖」が繰り出す剣の技。
神道無念流の五加五形の五つの根本たる構え、上段の天の構え、下段の地の構え、中段の人の構え、左の陰の構え、右の陽の構えから繰り出される剣筋は鋭く、そして美しい。
その剣が振るわれる度に一人、また一人とアメリカ人警備兵は倒れていく。
「剣聖」の歩みを止めれる者などアメリカ人兵士の中にはいなかった。
その「剣聖」の近くで剣を振るっているのは
羽賀準一。1908年生まれの33歳。
中山博道の神道無念流の有信館に学んだ「鬼才」
剣の道に入ったのは18歳と遅かったが、わずか6年で警視庁で剣道の助教になり教える側になるという天才ぶりを発揮した。
何よりもまず強さを求めた剣術家であり、その稽古は過激というのに相応しいほどだった。
だが、それ故に「強いだけの剣ではいけない」「剣の道により人格をも高めるべき」と主張した「剣聖」持田盛二とは、犬猿の仲であったのは剣道界で有名だ。
その羽賀準一の剣に魅せられた者は多い。
現代において剣道と言うと全日本剣道連盟が主流の団体となっている。
しかし、羽賀準一の弟子達はその方針に飽き足らず、羽賀の名を冠した道場を開き、全日本剣道連盟では禁止・反則となっている技を有効とした稽古と試合を独自にしている。
なお昭和の時代には羽賀準一に素振りを習ったプロ野球選手が幾人もおり、それを野球の打撃に生かしている。
有名な俳優も羽賀準一に剣技を習いドラマの役作りに生かしている。
その羽賀準一の振るう剣は剛の剣。
裂ぱくの気合いと共に繰り出される剣は、体勢、力勢、刀勢が見事なまでに合わさり一分の無駄も無い。
その剣の前に立ちはだかり防げる者などいはしない。
アメリカ人兵士はただ切り伏せられていくだけだった。
中山博道と羽賀準一の師弟コンビに負けじと剣を振るっているのは
高野茂義。1877年生まれの64歳。
小野派一刀流を学び「無敵の左上段」と呼ばれ数々の名勝負で名を上げた剣術家。
元は水戸藩剣道指南役の千種家の次男として生まれる。
後に「剣聖」高野佐三郎の明信館で剣を学ぶが、その才を見込まれ高野家の養子となった。
ちなみに「剣聖」高野佐三郎は「無敵の大上段」と呼ばれている。
高野佐三郎には実子がいたにも関わらず養子となった事からもわかるとおり、茂義には剣の才能があった。
実際、1922年の46歳の時に「大日本武徳会」において、武術家に贈られる最高位「範士」の位を授与されているが、50歳前に「範士」の位を授与されたのは中山博道と高野茂義の二人のみである。
その冴え渡る左上段にアメリカ人警備兵が次々と餌食になっていく。
煙に覆われている戦場の中で、人の動きと心機を測り、近付く敵の間合いを測って剣を打ちおろす。
一切の無駄も躊躇も無い一刀即断。
達人でなければできはしない。
アメリカ人はその剣の前にただ、ただ、切り殺されるだけであった。
「せいっ!」
気合いの入った掛け声とともにアメリカ人兵士が投げられ、地面に叩き付けられ、首の骨を折られ死んでいく。
「なんなんだ、小男のくせに!」
その男を前にしたアメリカ人兵士が驚き、目の前の出来事が信じられないのも無理は無い。
その男の名は植芝盛平。1883年生まれの58歳。
合気道の創始者。
その強さ天下無双。
あまりの強さから警察、陸軍、海軍に招かれ指導を行った経歴を持つ。
陸軍戸山学校では血気盛んな若手将校達を複数同時に相手にして全員投げ飛ばしたという逸話もある。
満州で冒険していた時代もあり、その頃、銃撃を受けた時には飛んで来る銃弾が見えそれを避けたともいう。
講道館柔道の創始者、嘉納治五郎が合気道を見て「これこそ私が理想としていた柔道だ」と感銘を受け、以後、講道館の高弟達を合気道の修練に派遣するようにもなった。
なお、合気道と講道館柔道の源流は同じと言われ、それが天神真楊流柔術だ。
植芝盛平は天神真楊流柔術三代目の磯又右衛門正智の弟子、戸沢徳三郎に天神真楊流柔術を学んだ。
嘉納治五郎は天神真楊流柔術三代目の磯又右衛門正智の弟子、福田八之助に天神真楊流柔術を学んだ。
奇しくも天神真楊流柔術から現代でも世界的に広がる二つの武道が生まれたのだ。
それほど力があるとも思えない小男が繰り出す驚異の技にアメリカ人警備兵は戦慄する。
だが、その戦慄する時間はわずかなものである。
すぐに死後の世界に送られたからだ。
投げられ、砕かれ、潰され、次々とアメリカ人兵士は死んでいく。
いったい何がおきたかわからない。
いつの間にか倒されている。そして死が迫っている。
そんな体験をしたアメリカ人兵士達。
それを行ったのは三船久蔵。1883年生まれの58歳。
柔道の神様とまで呼ばれた男である。
そのあまりの強さから東京帝大、早稲田、明治、日大、その他幾つもの大学や学校で柔道師範となっている。
明治45年には既に新聞で「日本一の柔道家」と書かれる存在だった。
幾つもの新しい柔道技を編み出したが、「隅落」、別名「空気投げ」はその最高峰とも呼べる技である。
空気投げは体が大きく突進してくる者ほど決めやすい技だ。
猪突猛進のアメリカ人には最も決めやすい。
右に、左に、次々と空気投げが決まり、とどめが刺される。
自分の身に何が起こっているか理解する間もなくアメリカ人兵士は次々と死んでいった。
この男と遭遇したアメリカ人警備兵も不運だった。
その男の名は徳三宝。1887年生まれの54歳。
鬼と呼ばれし柔道家である。
講道館では「技の三船、鬼の徳三宝」と呼ばれる実力者だ。
柔道は投げる技だと嘯き、受け身を嫌って練習しなかったという逸話がある。
道場破りに来た外国の水兵15人をあっという間に叩きのめしたという話もある。
かつては日本各地にいて季節ごとに暮らす場所をかえる回遊民サンカと暮らし、彼らに伝わる武術を学んだという話もある。
この時代において柔道最強の一角を占める人物である。
その男から逃れる術などアメリカ人警備兵には無かった。
中にはボクシングの構えをした者もいた。パンチを繰り出したところで跳び関節で腕の関節を破壊され怯んだ隙をつかれてとどめをさされる。
銃を向けた者も同様だ。撃つ前に腕を破壊された。
投げられ、叩き付けられ、とどめを刺され、だだ、ただ、アメリカ人兵士の死者が増えて行く。
時には剣で、時には体術で倒されるアメリカ人兵士達。
変幻自在の技に翻弄され、次々と息の根を止められた。
その技を用いるのは望月稔。1907年生まれの34歳。
日本伝柔術の創始者。
講道館柔道の嘉納治五郎、合気道の植芝盛平という二大巨頭に武術を学んだ。
それだけでなく香取神道流剣術や神道夢想流杖術、長谷川英信流居合術など古武術を学び、それらの経験を生かして総合武道の道場「養正館」を開く。
日本伝柔術も柔道と合気道、その他の古武道を取り入れた柔術である。
史実においては戦後にヨーロッパで合気道や柔道の指導を行っているが、その強さに外国人武道家も舌を巻いたという。
その強さが今、遺憾なく発揮されていた。
アメリカ人兵士は切られ、倒され、殺されていく。
秒殺だった。
誰も相手を発見してから10秒と持たない。
あっと言う間に地面に叩き付けられ、首の骨を折られて死んでいく。
柔道は受け身の取れない技は禁止されている。
だが、そんなものは関係なかった。受け身をとる暇もなく強烈な技を喰らい殺される。
尤もアメリカ人兵士が受け身を知っているわけもなかったが。
その強烈な技を放つのは、木村政彦。1917年生まれの24歳。
柔道の鬼と呼ばれた男。
「三倍努力」の男でもある。努力を心掛けている者より更にその三倍努力するという信条を旨とし実践した男。
現代のろくに努力もしないですぐ諦めたり、うまくいかないのをすぐに他人のせいにする人物には是非とも見習えと言いたくなる信条だ。
1930年から開催されている全日本柔道選士権において、年齢別20代の壮年前期部門で1937年と1938年で優勝し、年齢別が撤廃された1939年の大会でも優勝している。
「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と世の人に言わしめた。
史実では戦後にプロレスに転向したため柔道界からは白眼視されてしまったが、それでも柔道界で直接、木村政彦と対戦した者や稽古した者は、口を揃えて木村を最強と話す。
その木村政彦がパワー全開で戦っている。
投げ、絞め、叩き付ける。
その後にはアメリカ人警備兵の死体が残されるだけだった。
「うわっーー!」
白い煙を突いて矢がアメリカ人兵士の腹に突き刺さる。警備兵は腹を押さえて悲鳴をあげた。
次々と飛んでくる矢が他の兵士にも一矢も外す事なく突き刺さる。
煙幕を物ともせず敵に当たる矢は正に百発百中。
その矢を放つ者の名は梅路見鸞。1892年生まれの49歳。
弓の名人。この時代、間違いなく弓の第一人者にして無影心月流の創始者。
1939年に亡くなった阿波研造は、梅路見鸞よりも12歳も年上であり「弓聖」と呼ばれし弓の達人であったが、この梅路見鸞に教えを受けている。彼だけでなく、この時代の弓の大家と呼ばれた幾人もの人が教えを受けた。
無影心月流は大阪に道場を構えたが、その門弟は3000人を超えている。
梅路見鸞は弓以外にも剣術、居合、馬術、柔術に優れている。
心眼なのか、気を察知しての事かはわからない。
わかっている事は梅路見鸞が矢を放つ度、アメリカ人兵士が倒れるという事。
必殺の矢はまだ尽きる事はない。
顎が砕かれた者がのたうち回っていた。
あばら骨を複数折られうずくまる者もいた。
それを為したは本部朝基。1870年生まれの71歳。
「本部の猿御前」と呼ばれし唐手(空手)の達人
1922年、京都でボクシング対柔道の異種格闘技戦が開催された。
ボクサーは身長180センチの外国人で強かった。
この時、飛び入り参加で出場したのが本部朝基52歳。ボクサーのパンチは一発も当たらず本部朝基の一発でノックアウトとなる。
そうした本部朝基の逸話は数多くある。
齢をとってもなお強い無双の剛拳。それが本部朝基。
まったく齢を感じさせないその剛拳により次々とアメリカ人兵士が倒される。
「ホー!」
気合の入った変わった掛け声がワシントンの空に響いた。
それと共に肉体を打ち据える音も響く。
その音を作り出したのは清水隆次。1896年生まれの45歳。
神道夢想流杖術を戦前・戦後の日本に大きく広めた杖術家である。
出身は九州。その九州で神道夢想流杖術は明治維新後に衰退していた。
明治時代に九州で免許皆伝を得ていたのはわずか六人。その中で道場を構えて門弟を育てていたのは白石範次郎ただ一人だった。
その白石範次郎の弟子の一人で免許皆伝を得た清水隆次は神道夢想流杖術を世に広めるため単身、東京に出る。
紆余曲折の末、警視庁の杖術講師となり警視庁特別警備隊の正式装備に杖が採用されるに至った。
「大日本武徳会」において、武術家に贈られる最高位「範士」の位を杖術の部門で授与されている。
そうした彼の活躍に刺激を受けた者は多く杖術を学ぶ者は増え、日本国内だけでなく満洲でも多くの人が学ぶようになる。
杖で天下を取った男と清水隆次が呼ばれる由縁である。
神道夢想流杖術は独特な掛け声を使う。
今、その掛け声が高らかに響きわたる。響きわたらない場合もあった。技によっては「含み気合い」を使うからだ。
だが、技が繰り出される度にアメリカ人兵士が倒れて行くのはかわらない。
腹を突かれ、肩を砕かれたアメリカ人兵士が次々と倒れて行く。
摂政は、これら日本最強個人戦力たる12人の武の達人を、開戦数ヵ月前にアメリカに送り込み、ワシントンDC強襲作戦に投入したのだ。
一人一人が一騎当千、いや万夫不当とも呼べる生ける武神。
誰が始めに呼んだのか、彼らは帝国陸軍十二神将と呼ばれるようになる。
十二神将は議会議事堂に歩みを進める。
銃などものともしない武の達人達によりアメリカ人兵士は次々と倒される。
ましてや煙幕という視界の悪い中での近接戦なら尚更だ。
その十二神将を支援するは特に武道に秀でた「桜華乙班血桜隊」の狗達だ。
「誰だ! そこにいるのは名前と身分を名乗れ!」
狗達は煙幕の中、連邦議会警察の護衛班の誰何の声に馬鹿正直に名乗りを上げた。
「「「「「「我らの名前は血桜隊! 扱う武器は相手を選ばず! 摂政殿下の命によりお命頂戴つかまつる!
」」」」」」
狗達は議会議事堂を包囲し警察官と兵士を殺し十二神将に従って建物内に突入していく。
離れた場所にある陸軍省と海軍省でも同様の事が行われていた。
議会議事堂には現在、ルーズベルト大統領と政府閣僚、そして上下両院の議員達がいる。
果たして彼らの運命や如何に!
【to be continued】
【筆者からの一言】
「摂政戦記」では「桜華乙班紅桜蕾隊」はホワイトハウスを強襲していましたが、今回のお話ではしていません。
その代わりワシントンDC周辺の航空基地を破壊し血桜隊の援護に回っています。
今回、登場した武道家さん達は当時、実在した人達であり逸話も本当です。
えっ!?「帝国陸軍最強戦力という言葉に期待させやがって、この野郎、ふざけるな!」って。
こ、これは、ちょっとしたお遊びだから。悪気の無いお遊びだから。
でも武道じゃ当時、この人達が日本最強戦力は事実だから。
あと他にも何人かいるけど、めんど……話の都合上削ったけど。
あぁ読者様お願い、見捨てないで!
物を投げないで!
ブックマーク外さないで!
ポイント消さないで!