第四十一章:魔王的Requiem
「おじい様、どうしてあの方たちはみんなミツバチの真似をしておられますの?」
幼い頃、マリは祖父と祖母に連れられてチベットを訪れたことがあった。丸坊主の聖職者たちが絶え間なくミツバチのような低音を発しているのを見て、不思議に思ったのだ。
「ミツバチの真似、かい? マリのたとえは実に言い得て妙だね」
かつてナチス・ドイツの国防軍諜報部の情報将校だった祖父は、上層部との関わりから神秘学にも造詣が深かった。
「どうしてですの?」
マリは首を傾げた。当時四歳半だった彼女は、水滴を湛えたような大きな瞳でおじい様を見上げた。
「実はね、彼らは宇宙の根源がある種の特別な『音』でできていると信じているんだよ。まるで魔法の呪文のようにね」老人は愛おしそうに語りかけると、露店で買い求めたばかりのマニ車をマリの手へと持たせた。だが、幼い少女はそれを瞬く間に分解してしまった。そしてサンスクリット語など読めもしないというのに、僧侶の真似をして経文を唱えてみせたのだ。
祖父は背が高く、顔に幾筋かの傷痕を持つ老人だった。物腰は上品で洗練されており、いつも温和で穏やかな笑みをたたえていたため、人生の大半を情報戦という血生臭い戦場で過ごしてきた男だということを忘れさせてしまうほどだった。
第二次世界大戦中、彼は東部戦線でソ連のパルチザン(遊撃隊)と刃を交えた。中東戦争の際にはユダヤ人側に買収され、アラブ世界に潜伏していたかつての同僚たちを切り崩す工作に協力した。もっとも、彼はその機会を利用して石油投資の利権をちゃっかり手に入れていたのだが。
冷戦期には西側陣営から請われ、共産主義者たちと死闘を繰り広げた。ベルリンの壁が崩壊して初めて、彼は真の退役を迎えた。今、彼は残された僅かな時間を、最愛の末の孫娘に捧げようとしていた。
三歳半の孫娘が歌劇場の帰り道に『ワルキューレの騎行』を口ずさみ、他人の心拍音すら聴き分ける不可思議な音感を露わにした時から、彼は神秘学もあながち単なる迷信ではないと思い始めていたのだ。
――この孫娘は、あるいは世界に選ばれた特別な存在なのかもしれない、と。
「Moin……und Nimmerwiedersehen♪」
「戦場を異界に選ぶとは、諦めたのかしら?」魔王は身躯をしならせた。異界へと移ったことで、彼女の魔力は爆発的な回復を遂げていた。
「LiveではZurufへのお返事が大切ですの♡」マリは小悪魔的に不敵な笑みを浮かべた。押し寄せる無数の光の長槍を、最小限の体さばきで滑らかにかわしていく。電光石火の刹那、魔王の剣刃が突き刺さる。マリは一歩踏み込み、紙一重で刺突をかわすと、己の剣刃を魔王の胸元へと突き立てた。
「私の動きについて来られるとはね……!」魔王は翼を羽ばたかせ、滑るように後退して心臓を押さえた。大広間の周囲にはマリの放つ彩蝶が群がり、討ち死にした魔法少女たちの視線が痛いほど注がれているのを感じ取っていた。
「ちょっと対策を練っただけですわ♡ それじゃあ……Drei, Zwei, Eins!」目を閉じた今のマリには、魔力が織り成す楽章が聴こえていた。だからこそ、魔法が発動する微小な瞬間を完璧に察知できる。
「Die Harmonie setzt ein!(ハーモニーの開始ですわ!)」マリは手を振り、目元でチャーミングにピースサインを作ると、ウィンクを投げて猛然と突進した。重厚な金属音が鳴り響き、拮抗する絶大な力量の衝撃が周囲の地表を破砕していく。
「力が……衰えていく……?」魔王は剣を振るった。本来ならマリを吹き飛ばすはずの怪力が、見る見る失われていく。耳元で絶え間なく鳴り響く空霊な和音。耐え難い眠気が押し寄せ、意識が暗闇の深淵へと侵食されていく。
「女王陛下……ですか……」魔王は後退し、愕然と立ち尽くした。周囲を見回しても、そこに漂うのは舞い踊る彩蝶のみ。
「いいえ! これはあたくしの伴奏ですわ!」白銀の彩蝶がマリの肩に留まり、羽をパタパタと震わせて抗議するように羽ばたいた。
「即興曲――『魔王のレクイエム(安魂曲)』。どうぞご清聴あそばせ♪」マリは不敵に微笑むと、ドレスの裾を優雅に持ち上げた。魔王は剣を振り抜き、無数の光の槍がマリへとなだれ込む。
「Wohlan! Der Feind in meiner Sicht! Es ist Schlachtenzeit! Fechten für den Sieg!(いざ! 大敵は眼前にあり! 凄惨なる討伐の刻! 勝利を掴むべく剣を揮え!)」
激しい金属打撃音が轟き、舞い上がる煙塵の中からマリの朗々たる歌声が響き渡った。ワルキューレの降臨を思わせる荘厳なプレリュード(序曲)が始まる。
「舞台の雷光よりあたくしのほうが速いですわ。今宵ここがあなたの処刑台♪」甘く軽快な声で歌い上げながら、背後から放たれる無数の光槍を紙一重で回避する。閃光が霧散しても、可憐な歌声はなおも大広間に朗々と響き渡っていた。
「惜しかったですわね。あたくしまだここにおりますの。あと二節歌ったら、あなたの心臓刺しますわ」
魔王は六対の翼で加速し、マリへ突進した。だがマリは臆さず踏み出し、身を交わしながら剣身で受け流す。激しい火花が散る中、彼女はその衝撃を利用して旋回し、死の舞踏を踊る。軽やかなバレエのごとき身こなしでありながら、鋭く血飛沫を巻き上げた。
「Wohlan! Mein Feind! Fechten für den Sieg!(いざ我が敵よ! 勝利のために剣を執れ!)……次の一太刀で、心臓刺しますわ♡」マリは小悪魔的なウィンクを投げかけた。その腕から鮮血を滲ませる魔王だが、彼女の圧倒的な再生能力はマリの放つ和音に干渉され、一向に修復が進まない。
「あり得ない……私は――!」魔王は歯噛みし、剣に強大な光子を収束させ、無数の光槍をマリへと解き放った。だがマリは白鳥のごとき優雅なステップで光幕の隙間を潜り抜け、魔王の目前へと躍り出た。その表情には絶対の余裕が漂っている。
「死ねええっ!」魔王は叫び、渾身の力を込めて剣を振り下ろした。破壊的な衝撃が城砦を力任せに二つに切り裂き、焦土へと変えていく。
「Das Ende♪(終曲!)あなたの心を貫いて、魔王に捧ぐRequiem!」
強光が晴れると、マリは魔王の背後に佇んでいた。周囲には無数の彩蝶が旋回している。魔王が振り向きざまに反撃を試みるが、真紅の剣刃が容赦なくその心臓を貫いていた。
「まさか……! 私が……不滅の存在であるはずが……!」魔王はマリの剣身を鷲掴みにし、強引に引き抜こうと抗う。
「ですから言いましたでしょう? Rockの時間はおしまい♡ 狼狽えてRollしなさい!」マリの口元が上がり、銀白の彩蝶が彼女の剣先へと舞い降りた。
「女武神が最後の合唱を捧げますわ♪ 五色の蝶々、ぜんぶ出番ですわ!」マリが剣を流麗に引き抜くと、魔王の心臓から噴き出したのは血ではなく、七色に輝く無数の彩蝶だった。討ち死にした英霊たちの残魂が、マリの魔力を介して生前の魔法を再発動させていたのだ。一筋の力は微小であれど、膨大な数が魔王の体内で一気に解放されれば、内部からすべてを壊し尽くす絶対の切り札となる。
「Der Schlussakt!(終幕)」マリは優雅に踵を返した。消えゆく彩蝶たちが最後の燐光を静かに散らしていく。彼女が美しい銀髪をサラリとなびかせると同時に、魔王は地へと倒れ伏した。
戦いは、ここに決着したのだった。




