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皇帝陛下の旧式戦艦   作者: 夕月
海路一万五千余里
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汽笛一声海原へ

 呉を出港した「伯耆」は速吸瀬戸、豊後水道を南下し、日向灘を通って東シナ海に出る針路をとった。草垣諸島沖で佐世保所属の第二十一駆逐隊から派遣された二等駆逐艦「櫻」「橘」と合流し、最初の寄港地、香港を目指す。


 橘花の仕事は本土ともだいぶ離れた二日目の夜になってからである。夕食もそこそこに茅子に手を引かれて連れてこられたのは、やたら太い後部檣楼頂点に設置された天体望遠鏡である。

 艦内旅行の時存在することは伝えられたが、口頭で紹介されただけで実際上がるのは初めてであった。これからしばらくお世話になる仕事場だというのに碌な下見をしなかった…否、させてもらえなかったのは、

「高い揺れる怖いもうやだ降りるゥ」

「ほら、泣き言言わんとさっさと登らんかい」

茅子の高所恐怖症のせいであった。

 天体望遠鏡は安定した地面で使用することを想定しており、艦の揺れは観測時の天敵である。酔うし。そこでこの望遠鏡台座には新開発のジャイロスタビライザーを使用し、できる限り動揺の影響を受けないような工夫がなされている。備え付けの望遠鏡は東京天文台には劣るものの可能な限り上等な反射式であり、観測に困ることはあまりない。屋外なので冬は冷えるだろうが、幸い今は夏である。

 なおこのジャイロスタビライザー、どうも航空母艦なるものを製作する時にできた副産物らしい。橘花も今年竣工予定の航空母艦「鳳翔」の概略は聞いたことがあったが、あのような狭い滑走路から飛行機を飛ばすなど、本当に有効な兵器となり得るのだろうか。


 南方は本土からは見えづらい南十字星が良く見えるのでそちらの観測をしたかった橘花だったが、茅子が「はよ降りたい」と無言で訴えたので、仕方なくもう一つの天体観測施設に移動する。

 後部甲板には古式ゆかしき天球儀が備え付けられていた。よくお出でになった、と出迎えたのは、暗くてお顔がわからないが恐らく天文権博士の高畠さんであろう。今後しばらく下で働くことになるじんぶつである。

 こちらの天球儀にもまたジャイロスタビライザーが使用されているが、こちらはどうやら取り外し式であり、昼間は十字に溝を切った台石のみが見えていた。高畠権博士曰く同じものが京都梅小路の梅林寺に存在し、明治維新前はそちらで天体を観測していたとのこと。

「…つまり本来占星術は定点でやらねば意味がありません」

「はい」

「しかしこの艦は絶えず動きます。日本とは緯度も経度も全く異なりますね」

「そうですね」

「ここに英国から提供された北回帰線からの天体図があります。資料室にもまだたくさん」

「おお」

「貴女の職務は緯度、経度、艦の速度その他諸々を計算し、この天体図との照合をはかることです。何か異常があれば報告すること」

「げぇっ」

 これから計算漬けの夕べが続くらしい。こうなれば人間計算機としての職務を全うするしかない。


 とはいえ天文台とは違い屋外である関係で、メモ類は暗闇の中か、ランプをともしながら記すしかない。その後室内に持ち帰って参照してみると、決まって一カ所は芋虫を潰したような記入ミスが存在する。慣れるのはしばらくかかりそうであるし、その頃には視力はどれだけ下がっていることか。

 ふと気づくとまだ茅子がいた。相当暇らしい。

「どうせ居るなら代わってちょうだいな、天文台が動くとか経験したことないのよ」

「私が修正計算をしようものなら、おそらく凶兆だらけになりますよ」

「そのほうがかえって注意深くなっていいんじゃないかしら」

 そもそも占星なら本土でやった結果を送ってもらえばいいのではないかと思うのだが、高畠氏曰く「いちおう将来のためにも“自前の”インド洋上での観測結果が欲しいから」とのこと。


 占星術においてもっとも重要な惑星の一つである土星の観測を終えた頃のことである。

「あっ、艦長!」

 茅子がそう言うと同時に、橘花は反射的に最敬礼を以て迎えた。別に誰に鍛えられたわけでもないのに、それはそれは綺麗な敬礼だったとひとは言う。須崎特務艦長の近寄りがたそうな威圧感がそうさせたのであろう。ところが。

「にゃー」

 暗闇に人影はなく、足元から返事(?)が聞こえるだけである。

 “名誉”艦長のほうであった。猫は人間と違って夜目が利くので、深夜でも元気である。いや、奴らは元気な時はいつでも元気だし、それ以外は寝てる。ヘンリエッテ艦長はこのとき元気に起きていた。

「艦長、観測中はいつも見に来るんです。そろそろいらっしゃる頃かと思っておりました」

 高畠氏ですら猫艦長に尊敬語を使う例外ではない、というより分隊長クラスから一平卒まで、一日中いくら探しても例外が見つからない。なので橘花もこの猫艦長を目上の人として扱わなければならない気がしてきた。

「名誉艦長は天体に興味がおありですの?」

「どうなんでしょ、望遠鏡と天球儀が猫心をくすぐるんじゃないですかね。こんど聞いてみましょ」

 ただし接し方が一番なれなれしいのは、見た所茅子こいつのようだ。

「みゃーう」

 猫艦長は橘花の所に来て行儀よく座った。そういえば、彼女への自己紹介がまだだったように思う。副砲でおひるね中のところに突撃した時は、橘花はただ唖然としているだけだった。

「ご無沙汰してまおります、舎密院立東京天文台所員の鶴舞です。不束者ですが以後宜しく…」

 ランプの灯をあびたヘンリエッテ艦長の両目が、闇の中きらきらと輝く。やがて艦長は正座していた橘花の長ズボンを「ぽん」と叩いた。

「『しっかりやりたまえ』かしら?」

 艦長はここに居座るつもりのようで、忙しそうに動く高畠氏の天球儀を(若干うずうずしながら)眺めていた。とりあえず柵をすりぬけて海に落ちないかだけ心配して、橘花は計算作業に戻るとした。


「とまぁ、ここに来る『艦長』ってほとんど猫のほうなので、あんな綺麗な敬礼はしなくていいですよ」

 相変わらず暇している茅子がからかってくる。給水制限さえなければ、一回そこのオスタップの水をぶっかけてやりたい。

「…えぇ、今後気をつけるわ」

「そもそも艦長は基本操舵室か艦長室なので、こんなところ来ませんて」

 こいつは。

「来るとしたらよっぽど暇…」

「呼んだかね?」

 二人同時に反射的に最敬礼を返した。今度は“特務”のほうの艦長だ。後ろで見ていた高畠氏曰く前回に増して綺麗で、息もぴったり揃っていたとのこと。

「ン、鶴舞君が職場に慣れたか気になってな。どうやら大丈夫そうだ、善き哉善き哉」

 茅子が小声でささやく。

「…すいません嘘です、たまに来ます」

 後日特務艦長から、敬礼の仕方が大変よろしいとお褒めの言葉があった。

主人公の上司に当たる高畠権博士ですが、「権博士」とは律令時代における「博士」に準ずる地位であり、要するに「高畠権」さんではありません。ごん、お前だったのか。

「恋する小惑星」が今話題ですが、私のようなにわか仕込みの知識で張り合おうなどおこがましい。特に意識せず頑張ります(意識してもあっちに何か影響があるわけでもなし)

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