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言葉足らずに愛を語る(リュカ視点)

※社交シーズン開始ごろ~本編あたりのお話。リュカ視点。

※ひたすら言葉足らずに愛を語る。しかしクリステンがらみのエピソードが中心。

 一瞬で、全身の血が沸騰した。

 久しぶりに婚約者のセシルと顔を会わせたとき、リュカは冬だというのに自分の体が熱で蒸発するかと危惧した。はにかんだようなセシルの微笑みに全身が甘く震えた。


「お元気そうで何よりです、リュカ様」

「……」

「……リュカ様?」

「……。……あっ! いや、すまない。さあ行こうか」


 謎の衝撃と熱のせいで思考が停止していたが、貴族としての習慣のおかげなのかセシルへ自然に手を差しのべることができた。馬車までのエスコートをなんとか始めることには成功した。

 成功したのだが、それが苦悩の始まりでもあった。


「パーティーは苦手ですけれど、こうしてリュカ様と手を繋ぐといつも安心していられます」

「──────っ!!!!」


 手袋越しだというのに、セシルの細い指の感触を確かめたとたん火傷をしたかと思うほど繋いだ手が熱く感じた。慌ててセシルを馬車に連れて入り、手を離す。


「…………」

「あの、どうかなさいました?」

「っ、いや、なんでもない! 大丈夫だ!」

「あまり無理をなさらないでくださいね」


 心配そうな言葉の甘さに目眩が起きる。


 ──繋いだ手を引っ張って押し倒したい。襲いかかりたい。やばい、この欲望は。これは、まずい。セシルにそんな無体を働くわけにはいかない。


 リュカはすぐ側にいるセシルから顔を背けて馬車の窓を覗いた。セシルの家の門扉が見える。その真ん中で、見送りに家から出てきたマデレインがニヤニヤと笑っているのが見えた。


 こうしてリュカの苦悩の社交シーズンが始まった。



***



 今日もリュカはセシルから離れるとそのあたりにいた適当な令嬢とダンスをする。セシルとダンスをやめたことはリュカを想定以上に楽にした。

 ダンスは比較的得意だったからスローテンポの曲であれば踊りながらでもセシルを見ていることができる。おまけに踊っていれば情欲を押さえやすくなった。


 セシルは踊っているリュカを見ようとしない。憂い顔でうつむくセシルの様子がまた美しく……というより美味しそうに見える。どんな顔をしても可愛いとはこれいかに。


「リュカ様。セシル様とはどうなさいましたの?」


 ダンス相手に踊りながら話しかけられた。誰と踊っていたっけ、とリュカは目の前に意識を移す。


 ──名前なんだっけ。ええと……クリステンだったかな? まあどこかのご令嬢だ。うん。


 そう適当に結論づけて再びセシルに意識を戻し、クリステン(仮)の言葉に適当に返事をすることにした。


「どう、というのは?」

「最近、リュカ様は苦しそうな顔をなさっていますわ」

「……そう」


 社交の場ではできるだけ笑顔ないし無表情でいるべきところだがセシルを襲わないように我慢していたのが顔に現れていたらしい。確かに我慢は苦しい。だがセシルのことを思えばそれもまた甘美な蜜である。結婚までなんとか頑張らねば、と気合いを入れ直す。

 音楽に乗って右へ左へ、そしてターン。

 ちらりちらりと視界の端に映るセシルは人間界に落ちてきた妖精か天使かのように見えた。どれだけダンスホールが混んでいたってわかる。物陰にいてもセシルは光り輝いている。


「ええ、苦しそうですわ。それで……もしかして、リュカ様がなにか我慢していらっしゃるのではないかと」

「よくわかったね。実はそうなんだ。でも仕方がないのさ」


 セシルがリュカの忍耐を試しているわけではないことは、よくわかっていた。セシルは断じて悪女ではない。実に良い女だ。むしろ聖女である。いやもはや女神だ。

 自分の魔性をセシルが自覚してくれればもっといいのだが、とリュカは内心で呟く。

 悪いのは野獣のような自分だが無自覚に魅力を振りまくセシルもまた少しは悪いはずだ。もっとも、一番悪いのはセシルを魅力的に生み出した神である。


「リュカ様は優しくていらっしゃるのね」

「そうでもないさ」

「せめて、私がリュカ様を癒して差し上げられればよかったのですが」

「こうしてダンスをすることが十分救いになっているよ」


 セシルとダンスすることは甘美すぎて拷問だった。うっかり顔にセシルの吐息がかかったときリュカは死ぬかと思った。手は腰から下へ勝手に下がりそうになるし、足はセシルの足の間に割り入れたくなるし、むき出しになった細い首にはむしゃぶりつきたくなるし、要するに我慢をするのがつらくなる。


 しかし、こうして他の令嬢と踊っているときは紳士でいることができるのだ。セシルに顔向けできるような紳士に。


「普段は難しくとも、せめてこうしている間は、僕は誰よりも淑女にふさわしい紳士でいたいと思っているんだ」

「まあ……そんな、私に……」


 ──そう、セシルのような極上の淑女にふさわしくありたい。


 ダンスが終わり、お辞儀をしたところでリュカはアンソニーに話しかけられた。アンソニーはリュカをホールの隅へ招くと顔を寄せて小声で尋ねた。


「いつ仲良くなったんだ? クリステン嬢と」

「ああ、クリステンで名前あってたんだ」


 リュカは暢気な返事をした。記憶は間違っていなかったらしい。先の社交シーズンのときまでは彼女の名前もしっかり覚えていたはずだが、今シーズンはセシルの変化に衝撃を受けたせいか他の令嬢に関する様々な情報が頭から抜けてしまった。

 するとアンソニーはほっとしたかのような呆れたかのような複雑な表情を浮かべた。


「名前も覚えてねえのかよ……そんならいいけど。なにか話してたろ、クリステン嬢が嬉しそうな顔してたから気になった」

「えーと……なんだっけ。そうそう、セシルとどうなってるんだと聞かれたんだ」

「へえ、彼女はあの噂を聞いてないのか」

「あの噂って?」

「そりゃもちろん放置プ……なんでもない。言い寄られたりしてねえか?」

「まさか!」


 リュカは微笑みを浮かべた。

 同じ世代の若きご令嬢たちからは善い人だの優しいだのと言われることはあっても好きだと言われたことは一度もない。セシルを除いては。

 セシルがいるからモテないことが苦痛だと思ったこともなかったが。まさか好きになりすぎて苦痛を感じる日が来るとは思ってもいなかった。



***



 今日もセシルから手を離してダンスホールの反対側へ行く。

 日が経てば経つほどに、セシルに対する思い、もとい欲望は募る一方だった。側に立つだけでセシルの香りに血がたぎる。あの日以来、自分にこんなにも激しい感情があったのかとリュカは自分に驚いてばかりだった。


 もはやセシルは劇物だ。うかつに触れれば失われる。もちろん失われるのはリュカの生命ではなくセシルの安全であるが……。


「もしかしてセシル嬢が我が儘をおっしゃっているのかしら?」

「うん? そうではないよ」


 リュカはなにも考えず反射的にそう答えた。

 話しかけてきたダンスの相手に目をやれば、クリステンが潤んだ心配そうな目をしていた。


 ──前も踊った子だな。この子、ずいぶん心配症なんだなあ。


 セシルが我が儘なんて言うわけないじゃないか、天使なんだから。リュカはつい微笑みを溢した。セシルはお願いされることはあっても我が儘は言わない。断じて。


「では……セシル嬢と一緒ではないのはリュカ様のご都合ですの?」

「そうだよ、僕が望んだからだ」


 本当は側にいたい。けれども側にいれば暴漢か山賊かウジ虫かというほど衝動的になる体がもたない。

 クリステンはなぜか嬉しそうな顔をしている。変わった子だなあという感想を抱いて、リュカは再びセシルに視線を戻す。シャンデリアの光が彼女の艶やかな髪の上でキラキラと舞い踊っている。光の女神の祝福に違いない。むしろ光の女神本人なのかもしれない。そうだったらどうしよう。


「婚約なさっているのに?」

「そういうこともあるのさ」

「セシル様のおそばにはいたくない、と」

「まあ、そうだね」


 異国風のゆっくりした曲に合わせてステップを踏み、クリステンをくるりと回す。

 これがセシルだったら悶絶ものの美しさなのではないだろうか。目が潰れてしまうかもしれない。


「あの……差し出がましいようですが、婚約破棄をなさればよろしいのでは?」

「……え?」

「そうすれば、きっと好きな方と……」


 クリステンは頬を赤らめている。

 生返事をしていたリュカは予想外の単語にハッとした。雷に打たれたような衝撃が走る。

 なぜ気がつかなかったのか。そうだ。破棄してしまえばセシルと合理的に距離をおける。結婚はそのまま予定通りに行えばいい。婚約は結婚に必須のものではない。


「そうか! そうだ、そうすればよかったんだ」

「リュカ様……ついに心を決めて下さったんですね」

「そうだ……僕は愛しい人のためにならば決まった道から外れることだって厭わない」

「まあ」


 リュカが感謝の気持ちを込めてクリステンを見つめると、よほど喜んだのかクリステンがとろけそうな表情をしていた。優しい子であるらしい。


「婚約破棄をすれば愛しい人を傷つけずに僕の望みもかなえることができるんだね。なんで今まで気がつかなかったんだろう。ありがとう、クリステン嬢」


 今日はアンソニーは会場にいない。パーティーが終わったらまずアンソニーに相談に行こう。

 リュカはそう決めて、クリステンに満面の笑みを返した。



***



 いつもセシルのためを思って距離を置いているとはいえど、セシルに妙な虫が引き寄せられた時は話は別だった。妙な虫にセシルが食われるくらいならば婚約者であるリュカが食べる方が確実にマシである。


 その運命の日。

 いつものようにダンスホールの片隅で立っていたセシルにニヤニヤと下卑た笑みを浮かべた中年男近付いていくのをリュカは目撃した。若い娘に手を出すことで有名な男だ。急いでセシルの側に立ってその男を睨みつけ無言で追い払う。

 幸い、男は無理にセシルに襲いかかることもなく身を引いた。しかしまだ誰か来るかもしれないという警戒感からリュカはしばらくセシルから離れないことに決めた。


 ふう、と、セシルが小さく息を吐くのが聞こえた。


 ぞわり、とリュカは身震いをした。

 セシルの口から出た甘い毒が吐息となってリュカの耳へ届き、中へどろりと入って全身に灼熱の痛みを与える。その、耐え難いほどの甘美さ。

 セシルに目をやれば、艶めいた髪が白い柔肌からなるデコルテにかかっていて、その髪の流れが自分を鎖骨から胸の奥へと誘っているようにすら見える。

 カッと体が熱くなる。


「──もう我慢の限界だ。セシル、婚約を破棄しよう」


 これでセシルも守れるし自分も楽になる、そう思ったのだが、現実は。

 セシルが泣き出して。

 もう少し我慢すれば無事に結婚できるんだ、だから頼む、というつもりで「あと1年もないだろう、僕たちには」と言えば。


「ちょっと待った! 待てってば、リュカ!」


 アンソニーが乱入し。


「──場所を変えるべきだ。いつもの場所へ来い」

「なっ、なんだアンソニー、邪魔を──」


 セシルは見事にアンソニーに拉致された。

 リュカは呆然として愛しの女神が親友に肩を抱かれて泣きながらホールを出て行くのを見ていた。アンソニーの動きが素早く、またダンスの音楽が始まって人が移動し始めたため、人の流れに邪魔されて二人には全く近づけなかった。手を伸ばすこともできなかった。


 魂を飛ばしかけていると、突然、体に誰かがぶつかったような衝撃を受けた。

 見下ろせばクリステンが抱きついている。リュカはぎょっとして彼女の両肩を押した。


「く、クリステン嬢? どうしたんだい」

「抱きしめてくださいませんの?」

「うん?」

「もう、セシル様に義理立てする必要もございませんでしょう?」

「……え、どういうこと?」


 リュカが困惑して問うと、なぜかクリステンも驚いたような表情になった。


「セシル嬢とは婚約破棄なさるんでしょう? それで、いつ婚約してくださいますの?」

「僕はもう婚約はする気はないよ」

「すぐに式をなさりたいというわけですか?」

「いや、それはすべて予定通りにするつもりさ。さあ手を離してくれ。セシルを追いかけなくちゃ」


 クリステンは目を丸くして、それからきゅうっと目をつり上げた。


「どうしてまだセシル様をお気になさるんですか? 確かにリュカ様はお優しいところが長所ですけれど!」

「えーと、気にするのは当たり前だろう? だってセシルは僕の未来の妻なんだから」

「え……」


 クリステンの手がするりとリュカの袖から離れた。

 彼女の顔は青ざめていたが、リュカには今それを気遣う余裕はなかった。


「……どういうことですの?」

「どういうこともこういうこともないよ、僕はセシルを愛しているってことさ!」

「なっ……」


 リュカは腹に力を込めると、人の間を縫ってなんとかダンスホールの出口にたどり着いた。

クリステンの誤解は彼女が自信家でリュカを確実に落とせると踏んでいたせいもある。


※これでミラクルアホ男子の暴走婚約破棄物語(仮)は終わりです。ありがとうございました。

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