1,想定と胃痛
♢
ロザロス公爵邸の一室。書庫から持ってきた本を閉じ、カップに口をつけた。
「繊細な香りが非常に心を落ち着かせる。うまく淹れられているんだな」
「えへへっ。ありがとうございます。旦那様がヒュリオスさんから購入した茶葉で、ファルダ国の物なんです」
「そうか。道理でちょうどいい刺激だ」
ギルベールめ。いつの間にこんないいものを用意していたんだ。ファルダ国のものは彼には物足りない刺激にしかならないだろうに。
どうにも笑みが浮かんでしまうからもう一口。うん。美味しい。
ファルダ国とロドルス国では茶葉にも違いがある。鼻を衝く感覚が違うからこそ、国での違いがよく分かる。この国のものは、わたしには少々強く感じられるから困るところだ。
この国の茶葉を使うときにはリアンが試行錯誤を繰り返してくれる。そうして淹れてくれるリアンの茶も美味しい。今日も上手く淹れてくれた。
のんびりとしたひと時。紅茶を片手に本を読むという贅沢な時間だ。
辺境領から戻ってきて約半月が経つ。
当初、守護獣を連れて帰ってきたギルベールに屋敷の者は皆驚愕の声を上げた。ギルベールは非常に気まずそうな顔をしていたし、守護獣は聴覚を刺激する音に不快をみせていた。
使用人一同は守護獣の愛らしい見目のおかげか、すぐにその存在を受け入れた。そのおかげか、それとも守護獣もここがギルベールの家だと分かっているからなのか、守護獣のほうはすっかり寛いでいる。
ギルベールやわたしと一緒に朝食を摂って、ギルベールについて出勤して、ギルベールと一緒に帰宅して、ギルベールとわたしと一緒に夕食を摂って、一緒に談話の時間を過ごして、ギルベールと一緒に寝る。隠形する気などさらさらないようにギルベールの傍を離れず過ごしている。
ギルベール自身も守護獣が現れて日が経つが、やはりまだどこかこの二十年の習慣が抜けていないのだろう。守護獣を放って部屋を出てしまい守護獣が泣き叫んだり、膝に乗っているのを忘れて立ち上がって床に落として泣かれたり、後ろを歩いているのを忘れて扉を閉めてしまって泣かれたり。泣かれるたびに必死にあやしている。実に不慣れな様が微笑ましい。
現在のギルベールは事後処理諸々で忙しい。帰ってきても仕事をしていることが最近は多いが、もう少しすれば落ち着くだろうと思っている。
空になったカップにリアンが紅茶を注いでくれる。
「それにしても本当にびっくりしました。旦那様にはちゃんと守護獣がいて、あんなにも可愛いだなんて」
「ふふっ。すっかり皆を虜にしてしまったな」
だれよりも守護獣に慣れていないギルベールを他所に、屋敷ではすっかり彼の守護獣は受け入れられた。
なにせ、小さな身体でギルベールに甘えて、短い脚でてちてち歩いて、ギルベールとわたしのひと時には菓子をぱくぱく食べる子だ。「可愛いっ」と皆が言い出すのは早かった。
ちなみに、使用人一同はまだギルベールの守護獣の本来の姿を知らない。普段においてその姿をとることはないだろうから、まあ問題はないだろう。
ギルベールは今後守護獣との力の訓練が必要だが、それは王都のはずれで、万が一にだれにも迷惑がかからない場所で行うよう勧めてある。本人は非常に微妙な顔をしていたけれど。
「リアン。留守中も部屋を綺麗にしてくれてありがとう」
「当然のお勤めですので!」
誇らしげだが嬉しそうなその笑みは、すっかり仕事に充実感を持つものだ。
以前のリアンは雑用が多く先輩の存在でどこか肩身を狭くさせていたようだけれど、今はそんなこともなくやる気に溢れていい仕事をしてくれている。
耳が音を拾う。ちらりと視線を向けるとリアンも察したように扉へ移動してわたしを見る。問題ないと頷くとがちゃりと扉を開けた。廊下の方へ視線を向けて、扉の端へ下がって頭を下げる。
開いた扉から少々疲弊したギルベールが姿を見せた。その後ろには従者であるハインの姿もある。
「おかえり」
「ああ。……ただいま」
「うきゅ」
その肩に乗る守護獣も一緒の帰宅。
ギルベールがわたしの傍にある一人掛けソファに座ると、守護獣はとんっと肘掛に降りた。
てきぱきと紅茶を用意したリアンはギルベールの前にそれを置き、その傍に菓子を載せた皿を置いた。ギルベールの守護獣が嬉しそうに皿の傍に移動する。
守護獣に食事は必要ない。人間のような肉体を持っているわけではない守護獣は、食事も排泄も必要としない。食べても問題はないけれど味覚があるわけではないから味を感じているわけではないし、それがエネルギーになるわけでもない。
……のだが、ぱくぱくと菓子を食べる自分の守護獣をギルベールはじっと見つめている。
「……守護獣は食事がいらないと聞いていたが、こいつはよく食べる。ハイン、リアン。おまえたちの守護獣はどうだ?」
「私の守護獣は食事をしたことはありません」
「私もです。守護獣がこんなふうに食事するなんて、実家で作ってるパンをあげてたときくらいしか見ません」
「……やはり変わってるな、こいつは」
「うきゅ?」
自分のことが話題にされているなんて思っていないのか、ギルベールの守護獣はクッキーを手にこてんと首を傾げる。ギルベールはその口許についたカスを拭ってやった。
それを見て思わず小さく笑うと、ギルベールの視線が向けられる。
「君と同じことをしてみたいんだろうさ。真似をしたがるのは幼子には珍しくない」
「……そうだな」
なにかを考えるように、まるで自分に通じるものがあるかのように、ギルベールは瞼を震わせて守護獣を撫でる。嬉しそうに鳴いている相棒は尻尾をゆらりと揺らした。
そして今度は小さなタルトを手に持つと、てちてちとわたしの前まで歩いてくる。
「きゅっ」
そして、わたしにそれを差し出した。
「くれるのか? ではいただこう」
「きゅぅ!」
小さな手からタルトを受け取り口に運ぶ。うん。美味しい。
てててっと皿まで戻ると、またぱくぱく菓子を食べ始める。そんな姿をギルベールはじっと見つめていた。
二人でこうして茶をするとき、ギルベールの守護獣はわたしにもよく菓子を分けてくれる。「ギルベールにも」と言うとそうするが、わたしより先にギルベールにあげたことはない。
ギルベールが黙りながらも見つめる理由は分かる。けれどまあ、もう少しその話は後にしよう。
そう思うわたしの前で、ギルベールは視線を動かしてわたしを見た。
「先の戦功に応じて師団や個人が褒賞を賜ることになっている」
「ドゥーラを倒した君や、隊長格を倒した者、最前線を走った師団に?」
「ああ。国境兵にも相応に。……で、そこにあなたの名前も入っている」
「おや」
「おや、ではないだろう。ドゥーラの側近で右腕とも言われるドロブスをあっさり倒したのはどこの誰だ」
「おやおや。あれがそんな者だったのか」
「大した手応えでなかったような顔をしないでくれるか……」
……と言われても。
ドゥーラの傍にいたからまあできる相手なのだろうと思ったし、悪くない腕だった。なるほど。あれがそうだったのか。
近距離戦をしてくる相手なら、簡単な話、近づけなければいい。
わたしは中遠距離系が得意だ。だからそれで押した。それだけのことにすぎない。接近戦をしているともっと面倒だったかもしれない。
(シルティはどうやらどちらもこなせるようだし、ファルダ国の騎士がいるときは偏らせないようにしたほうがいいか……)
考えながら、紅茶を一口飲んだ。
「それで、それはなにか大々的な式典でもするのか?」
「陛下の御前で褒賞を賜ることになる。あなたが褒賞を賜るという話はすでに出回り、各貴族たちが騒いでいる。見物者は多くなると覚悟してくれ」
「……まあ、仕方ないか。今後の牽制にもなる」
「やめてくれるか……」
「それに、主役は君だろう?」
「…………」
非常な渋面は言葉より雄弁だ。思わず笑ってしまう。
なにせ今回の戦、ドゥーラを倒した上に守護獣を発現させた。さらにダグダ族を退けた。ギルベール以上の功労者はいない。
(貴族たちは不服だろうが、それ以上に相応しい者がいないのだからどうしようもない)
それに、そのおかげで今回の戦の被害は最小限で済んだのだ。
笑うわたしの前でギルベールはため息を吐いて続けた。
「その後には夜会が開かれる。それにも出席してほしい」
「分かった。まあ、以前よりは耳障りな音も減るだろう」
もう、ギルベールを守護獣なしとは言えない。父の不忠を覆すことはできずとも、ギルベール自身が守護獣とともにこれからの姿勢を示していくことができる。
それに、ギルベールになにかを言えば守護獣が黙っていない。貴族たちはもうそれを理解している。
そう思って、わたしは視線をリアンに向けた。
「リアン。今度の夜会はロドルス国風のドレスで出席する。準備を頼む」
「承知いたしました」
「……いいのか?」
「この国の一員として戦ったんだ。それでいい」
ギルベールは少しだけ眉根を寄せて、それでも頷いた。
気分を変えるように菓子に手を伸ばし、紅茶を口に含む。テーブルの上では、足を投げ出して座る守護獣がぱくぱくと菓子を平らげていく。
「それはいつ頃?」
「三月後に御前試合があるからその前にということになっているが……戦功は少々揉めている気もするな」
「与えたくない者に最大の勲章だからな」
軽く笑うけれどギルベールの表情は憂鬱気だ。控えるハインから微かな怒りが感じられるが、向けたい先は色々あるだろう。
「とはいえ、すでに爵位も屋敷も持っている君に与える褒賞となると、だれもが納得する形は金か出世か縁組くらいだろう?」
今思いつくことを口にするとギルベールの眉が深い皺を刻んだ。明らかな不快だ。
……さすがに領地はないだろうと思ったが、他になにかあるかな?
「……あなたがいる俺に、陛下は他の誰かを娶れとは言わない。それに正式に婚姻を結べるのは一人だけだ。愛人など持つつもりはない」
「だが、君の戦功と守護獣がいたという事実に、ファルダ国と結びつけるほうが危険性が高いと判断する者も出るかもしれない。わたしと君の縁組は、君が守護獣を持たないこと、わたしが獣人蔑視の王都内では孤立すること、ファルダ国と繋がっていたという君の父の所業を君に植え付ける意味合いが大きいだろう。しかし実際は君は守護獣を持ち、わたしは王都民からの蔑視も平気で第九師団や国境兵に顔見知りもできた。となると、最後のみを残すこの縁組の意味合いは薄まってきている。ま、九割は君への嫌がらせだから、最初から意味がないけれど」
「……だから、再び王命で離縁させ、今度は国内から動きを封じるための女性を寄越してくる、と?」
「堂々とはしてこない。国の威信に関わり、ファルダ国とできた繋がりを消し飛ばすような愚策を陛下は取らないだろうし、辺境領の商売事情にも関わってくる。問題は――別の方法で君を貶める者が出てくる可能性が高い、ということだ」
にこりと笑顔で言うと、憂鬱さの抜けた至極不快そうな顔に変わった。
堂々とはしてこない。だが、ギルベールをその気にさせようと近づいてくる女が親や家の言いなりで出てくる可能性はある。
(とはいっても、ギルベールは反逆者の息子。諸刃の剣を持とうという貴族はそういないだろうが……。この手の可能性はある意味てっとり早い手段として)
想定される可能性としてギルベールにも留めておいてほしい。
苦虫を噛み潰したような顔でギルベールはわたしを見ると、その表情どおりの声を吐き出す。
「……自分から周囲を騒がせるつもりはないし、そういうことが足元を掬うのだというのも理解している。気をつける」
「構わないよ。そんなことをしようとする者がいるなら、排除すればいいだけのことだから」
「……充分に気をつける」
「そこまで言うなら、わたし以外の女に目をくれないように。君を幸せにするのはこのわたしだ」
にこりと告げると、なぜだろうか、ギルベールが頬を引き攣らせた。
「た、頼むから……俺に胃痛を寄越すな」
「具合が悪いのか? 従者君。医者を――」
「いい! 治そうと思ってくれるなら頼むから大人しくしてくれ!」
ギルベールの悲痛な叫びが室内に響いた。
(ちゃんと大人しくしてるじゃないか。なにが問題なんだ?)




