破滅崩壊している世界について
この世界は無限大に破綻している
第一に、救いようがない。
恵まれない不幸な存在は一定で発生する。
塗炭の日々を送り、抗い苦痛の果てに絶望して死ぬ、ただそれだけの生命だ。
弱者は救われない。
社会主義などの理想は不完全で、すべて自助努力に期待して、各々に任せるほかに術が無い。
自助努力が期待できない真の弱者も、いるのかもしれない。
だが、それも弱者の振りをして、より幸福に、恵まれようとする存在が一定で発生するので、ハッキリどうしようもない。
弱者は世界に切り捨てられる、その果ての世界に対する憎悪などを糧に、自助努力を促そうとするのだ。
資本主義は悪ではない、少なくとも次善で最高だ。
競争のみが、強者を量産し、世界の富と幸福を最大化するのだ。
それによって、弱者も最大限救うことが出来るのだ。
まあ、救うというよりも、強者が更に幸福に気持ちよく良い気分になる為に、利用するが正しいか?
とにかく、競争は素晴らしい原理だ。
負け組みと勝ち組を生み出し、人生の階級を決定付ける、だからこそ人間は真底から力を発揮できる。
社会には競争を否定して、ただ最低限度の生活と現状維持を求める人間がいる。
しかし、それは尚早、間違っている、わけではないが、競争をしない内から諦めるのは、どうかと。
より幸福に楽しい人生が生きれる権利、チャンス、それを放り捨てるも同義だ。
物語小説で例えるが、二流と一流の物語の差は、どれほどか?
おそらく、それは無価値と無上の価値ほどに掛け離れている、人間の感覚的には、掛け値なしにそう実感があるはずだ。
高学歴高収入、それが現状もっとも効率的なので、目指すべき人生の一だろう。
だが無能でしかたなく、競争に敗北したら、どうなるのか?
率直にその後の人生は、つまらない、下らない、しょうもない、それだけの事実があるだけだ。
二流三流の人生という物語を観測して、果たして活き活きと人間らしく生きられるか? 無理だろう。
これらの二流以下の人生の上の存在は、ほとんど利己主義に傾く。
十二分に幸福でないのだから、自分のためにしか生きられない、そのような醜い奴であろう。
しかし、資本主義というシステム上、それは避けられない摂理原理だ。
見込みの無い存在に、誰かが背負うべき負債、汚れ仕事、などなどを背負わさせずして、それ以上があるか?
投資対効率の高い、有能で高い次元で幸福になれる存在を優遇して、それ以外を冷遇する、しかたないのだ。
見込みのある人間に投資しなければ、本当に社会は衰退する。
この社会は上位二割程度の真に有能な人材が引っ張っているのだ、そいつらを優遇しなければいけない。
そうしなければ、彼らは社会の為に働かず。
ただただその才能を狭い範囲で発揮し、静かに自らの幸福の最大化に努めるだろう。
広い範囲で滅私奉公するような、真の有能者など絶対数がたかが知れている。
リスクや手間暇費用にあった報酬を払い、社会的に優遇するのは絶対必須、なので相対的な冷遇は避けれない、絶対に。
このような社会仕組みなので、だいたい八対二の法則が支配する。
八割が不幸、二割が幸福、具体的には二流以下の物語、一流以上の物語、鑑賞物と比喩しようか。
これが真実だろう、まったく救いようが無い。
だがだからこそ、とも言える、要素がある。
このような世界なので、精神性人格人間性が高いレベルにある強者が、より弱者の為に生きようとする。
強者は須らく、最大限、一切の何もかもを利用して人生を高次元に充実させようとする、ものだ。
中には利己的に、私利私欲を満たす輩もいるが、ほとんどは考え合ってのこと、愚か者は本質的に強者にはなれないモノだ。
また強者は優遇されているので、広く力を発揮しやすいのだ、インセンティブも多々あろう。
世界には格差や不平等がある、発生した瞬間、生まれからあるのだから、無くしようがない。
だからこそ、チャンスや機会の平等がしっかり整備された、最大限理想的な形の競争や格差が必要だろう。
人間が人間らしく、活き活きと自らの運命を自らで掴み取る、言い換え、つまりは自助努力を促すためである。
たとえば、一線越えて過度に不幸な存在、そのような人生という過去を歩んできた人間がいる。
それは両親がいないとか、過度に貧困や、幾らでもあるだろう、この世は不幸にも幸福にも事足りない。
こういう人は、平等な世界、均等であろうと歪に強制する社会である、では絶対に幸福になれない。
大きな不幸を背負っているのだから、それを挽回する幸福に至らないといけないのだ。
このようなどん底を知っている人間は、莫大な自助努力が期待できる。
平坦で無難な人生は絶対に認めない、許せない、我慢がならない筈だからである。
さらに良い要素として、弱者に大きく感情移入できる、滅私奉公ともいえる領域かもしれない。
自らが生まれ持っての弱者で、後天的強者だから、これはほとんど本能に近いレベルであろう。
いろいろ語ったが、結論として、世界は破綻している。
無限大に無上なレベルで神ゲーであり、クソゲーでもある。
この醜くも美しい世界、という言葉は、実に的を射ている。
要は重要となるものは、絶対に強者にならなければいけない、という事だ。
だからといって、安易に生きてはいけない、強者とは真に強者でなければ持続しない。
弱者はどこまで行っても弱者だ、卑怯で醜く、己の自己矛盾に耐え切れずに、必ず自暴自棄になって死ぬ。
正攻法で自助努力して、誰しもが強者になれるように、助け合い努力し切磋琢磨しなければ、駄目だろう。
弱者とは所詮は世界に必要とされず、お荷物で社会的に切り捨てられる存在、あるいは候補でしかありえない。
弱者には価値が無い、それを自覚するべきである。
そして、その価値が無い、あるいは低い価値にも大きな価値を見出せる、強者。
ゼロから1を生み出し、幾らでも増幅して価値を認める事ができる。
弱者は弱者に一切の価値を、本質的には見出せない、又は至難困難である。
子捨てや姥捨てが、その明瞭たる例だろう、人間は弱ければ、ハッキリ無上にどうしようもない醜い屑だ。
自覚するべき、弱者は全て強者に引っ張られて、ようやく人間らしく生きる事ができている。
だからこそ、強者の役に立つような存在、つまり誰しもが強者を目指し、至らなければ絶対にいけないのだ。
足を引っ張るのではなく、共に世界の責任を、負債を背負って立つ存在である。
そう、この破綻した世界を、どうにかする為に、である。
だが、それは幻想だろう、この世界はギリギリの均衡で成り立つ。
八対二の法則が成り立たなければ、自然と成り立たない世界だ。
八割不幸で二割が幸福、その方程式に大きな変わりが、この先あるとも思えない。
所詮人間は愚かで弱い、八割の人間が幸福になれば、どうせ歪みが発生する。
より幸福になろうと暴走するのだ、死すら恐れず、人間は快楽と悦楽に逆らえるようには出来ていない。
誰しもが自殺志願者、常に死にたがっていて、誰しもが悦楽主義者、一瞬を最大限楽しもうとする、からだ。
二割しか不幸でないなら、幸福な存在は、世界を救うべき対象と認めない、かもしれないのだし。
どうしようもなくなるのだ。
世界は破綻している、生きているだけで吐き気を催すべきだろう、その不快すら、世界を変革する原動力になろう。
同時に、生きることにも最大限深い喜びも見出すべきだ。
このような世界に居るのだ、そうでないと割に合わない、帳尻が合わない、勿体無いし惜しいのだ。
そして焦燥に駆られて生きて、そのつもりがなくても、人生は直ぐに終わる。
長くない、有限だ。
直ぐに老いぼれて、老い先短い末期に絶望して、ただ死に無にかえる、それが現実だ。
気が狂いそうな現実こそ、直視する甲斐があるだろう。
死を想い、今この瞬間に、将来全ての恐怖と後悔などを、最大限想像し創造するべき。
破綻した世界での、処世術は幾らあっても足りる事はないだろう、から。




