第9話 暗闇
食堂を出る前に、オシッチはニーナを促して先に外で待たせると、ワインを前にして座り込んでいるジゴヴィッチに言った。
「最後に一つだけ聞いておきたいんだが、火事の後でアパートから二人の焼死体、ペータル某とオクラナの男の遺体が見つかったと言ったが、それは間違いないんだな?」
ジゴヴィッチはグラスに手をかけたまま、顔も上げずに言った。
「君の言いたいことは分かる、だがヴィディチは片足だ。彼の遺体があればすぐにそうと分かる、そうだろう?」
オシッチは黙ってうなずく。できればニーナには、ヴィディチが死んでいるかもしれないと考えていることを気取られたくなかった。
と言うか、自分でもそう考えているのを認めたくはなかった。
「聞きたいことはそれだけか?」
「あぁ、世話になったな。たぶん明日には発つよ」
外ではニーナが通りに出て珍しそうに辺りを見ている、ように見える。
おそらくお上りさんのフリをしながら周りを警戒しているのだろう。よく見ると風景とか珍しい建物よりも人や暗い路地に目を向けている。
素人ながらに彼女もそれなりに自分の置かれた状況を分かっているのだろう。自宅に闖入者がやって来たのは昨日のはなしだ。
だが出てきたオシッチに気付いて振り向いた彼女の表情には、不安の影は見られなかった。むしろ陽気過ぎるくらいに陽気に見える。それが逆に、こっちにとっては不安の種となった。
「二人で何を話してきたか、あたしには分からないけど、あたしは聞かないわよ」
「それでいい、さっさと宿へ行こう。尾行をまかなきゃならないから、だいぶ遠回りになるぞ」
「尾行?」
「何でもいいから行くぞ」
既に日は落ち、サロニカはしんとした静けさを保っていたが、それでも人の姿が絶えるという事はなく、港の方からは灯りが差していて、もうしばらくは街も眠りに落ちることはないように思われた。
尾行をまくには好条件というわけでもないが、少なくとも夜の闇は身を隠すのに役に立ってくれる。
オシッチ達を尾行て来ている二人組の男はセルビア人らしいが、おそらく組織の人間ではないだろう。彼らの所作には軍人らしさが欠片も見られない。
オシッチらが所属している『組織』はセルビア軍の将校階級を母体にしており、構成員は一定以上の階級の軍人が大多数を占める。オシッチやヴィディチのような下士官上がりはごく少数だ。
組織が寄越した人間でないとすると、他に考えられるのはセルビア警察かニコラ・パシッチの急進党、あるいはアピスを嫌っているという噂の、次期国王で現摂政公アレクサンダル二世か。
軍と、それを取り巻く環境の間に大きな亀裂を残した五月危機以来、組織の敵は多い。そしてオシッチ達は、その所属する組織にすら信頼できる味方がいないのだ。
静かな街の通りを二人、黙ったままに歩き出す。
背中に尾行者の存在と視線を感じてはいたが、オシッチは努めて意識しないように歩度を保った。相手に害意が感じられないのは良い兆候だと言える。しかしそれとて何の保証にもならないし、今は足手まといが一人いる。
「どうだ、初めてベオグラードの外に出た気分は?」
不安に耐えられず、ついにオシッチの方から気を紛らわせるために口を開く始末。あまり良い兆候とは言えなかった。
「サロニカは歴史ある都市だ。この際だからよく見ておくといい」
「それを否定するつもりはないんだけれど―― オシッチ、あなたバカみたいよ。 もっとマシな事を言って頂戴」
「うるさい、仕方ないだろ。俺は元から世間話で時間を潰したりとか好きじゃないんだ」
「じゃあ、どうやって時間を潰すの?」
「とりあえず生きてるさ。確かいつかピーターが言ってたんだ、人生は死ぬまでの間の暇つぶしだって。それが英国流なのかもな」
「あんまり人生をそういう風に考えるのは好きじゃないわね。そもそもこんな状況で人生について語るなんてナンセンスよ」
「どんな状況で言ったところでそういう話題はナンセンスに聞こえるものだろ。だったらお前はどうだ? どうやって死ぬまでの時間を消化する?」
「そうね―― 本を読んだり、仕事したり、友達や兄さんと話したり―― あとは恋して結婚して、子供を産んで育てて、とにかく普通に暮らしていきたいわ。戦争とか陰謀とかの話を聞かないところでね」
「そうかもな、そういう普通なことができる世の中だったら――」
言いかけたところで不意に、背後でゴトっと重いものが落ちる音がする。尾行者たちがいる方角だ。
暗い路地を振り返る。
まず目に入ったのは黒々とした二つの人影、そして横たわる一人の人間だった。
うつぶせに寝ているのは駅で見かけた尾行者の一人で、首筋に光る棒状のものが直立している。目を凝らさなくてもオシッチにはそれが突き刺さったナイフだという事が分かった。
二つの人影の一つから霧状に液体が吹き出し、路地の壁に紅い花を咲かせる。ややあって人影は二つに別れ、片方がゆっくりと地面に倒れこんだ。
街は相変わらず静かで、人通りも少ない。
闇を照らす微かな灯りに浮かぶ二つの人影、冷たい地面には二つの死体、そしてそれを怯えた目で見る二人組。状況は危険と言うほかない。
「走るぞ」
ニーナの肘をつかんで駆け出す。横目で見た彼女の表情に恐怖が浮かんでいた。
たぶん自分の顔にも同じような表情が張り付いているのだと思った。