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第10話 安寧

 オシッチとニーナが息せき切らし、イギリス人が伝えた避難場所にたどり着いたのは午前2時をまわった頃で、明らかに外国人風の二人組で明らかに面倒事を抱えた風の客にも関わらず、普通の雑貨屋らしい店の主人はそんなの慣れっこと言った体で二人にジロリと視線を投げつけた。


「おい、何時だと思ってるんだ?」



 大柄の体躯で背も高く、黒髪を短く刈り上げ、顔の下半分が濃いヒゲで覆われた主人は威圧感たっぷりに言う。しかしこちらも今しがたまで厄介事に追われてきたばかりで、そんな事を気にしてはいられない。

 肩で息をしながらオシッチは言うべき言葉を必死に探し、迷った挙句にセルビア語で、どうにかこうにか口にした。


「――ピーターに言われてきたんだ、キャベツ畑はここか?」


 アホらしい事は分かっていた。

 だが効果はあったようで、ヒゲの主人の表情が柔らいだ。少しだけ。

「ピーターか―― あのクソったれ泥棒ウサギめ、今度タマネギを盗んだらとっ捕まえてパイにして食ってやる」



「――ねぇ、合言葉(キーワード)は『泥棒ウサギがタマネギ盗んだ』じゃなかったかしら?」

 小声でニーナが囁く。


「気にするな、きっと歓迎のあいさつみたいなものなんだろ。アンタがベンヤミンか?」


「そうだ、君がミハイル・オシッチだな」

 男がゆっくりとカウンターを回って近づいてくる。

 動作の緩慢さがなんとなくクマを思わせた。



 この『クルーリク雑貨店』はサロニカ市街の外れにある小さな店で、この辺りでは見当たらないポーランド風の食器とか小物を扱っているらしい。色鮮やかな食器が店の照明の中に並んでいる。おそらくピーターの連絡を受け、こちらがやって来るのを予期して待っていてくれたのだろう。

 そうでなければこんな夜更けに灯りをつけている理由がない。


「事情が分かっているなら話は早い、こっちがヴィディチの妹のニーナで―― 何をしている?」


 彼女はさっきの逃走劇のことなど忘れたように、店の食器に見入っている。

 そんな彼女の様子を見ていたらなんだか、自分だけが今回の騒動で大騒ぎしているのではないかと思われてきた。


「見て、すごく綺麗よ。おじさん、これどこで作ってるの?」


 ベンヤミン氏(おそらく偽名だろうが)はおそらく普段の商売用の表情なのであろう、柔和な笑みを浮かべて言った。「もちろんポーランドだ。クラクフから列車でやって来る」


「嘘をつけ、あんな何本も国境を越えて来てこの値段なわけがないだろう。この街にはユダヤ系住民が多いから、大方どっかのユダヤ系ポーランド移民がこの近くに(かま)を持っているんだろうよ」


 ベンヤミンはニヤっと口の端を上げてオシッチを見た。

「フン、さすがピーターの紹介なだけある。わしはワルシャワの出だが、あそこはだいぶ住みづらくなったからな」

 彼は嘘を見破られた事に、満更でもなさそうな顔で答える。


 しかし最近の情勢を鑑みるに、ユダヤ人にとって東ヨーロッパは住みづらいどころの話ではないだろう。

 昔からユダヤ人は幾度となく迫害を受けてきているが、殊に昨今の情勢はその中でも特に過酷としか言い様がない。ドイツからロシアにかけて彼らは追い立てられ、もはやそれは虐殺の域に達している。

「ひょっとしてアンタもシオニストか?」


「あぁ、『ポアレ・ツィオン』の一員だ」


 ニーナがよく分からないという顔をしている。


 オシッチはチラとベンヤミンの顔をみてから説明した。

「ユダヤ人は世界中にいるが、そのほとんどは迫害されたり厄介な目にあったり、殺されたりしてる。そんなユダヤ人が安全に暮らせるようなユダヤ人の国、神の(イスラエル)を作ろうっていうのがシオニズム運動で、ポアレ・ツィオンもその一つだ」


 ベニヤミンはよく出来ましたというように頷いた。

「口約束だがイギリス人はその手伝いをすると言った。だからお前たちの手助けをするのにやぶさかでない、って事さ。お前たち、ユダヤ人いじめなんかしてないだろうな?」



 オシッチとニーナはとんでもないというように大きくかぶりを振る。

 こんな状況で変な誤解を受けて追い出されてはたまらない。


「いいだろう、泊めてやる。二人ともこっちへ来い」


「いや、泊まるのはニーナ一人だけなんだ。俺はホテルに戻るよ」


 弾かれたようにニーナはオシッチを振り向いて目をみはる。さっきの口論はともかく、殺人者たちがうろつく街に戻るとは思っていなかったようだ。

「ちょっと―― こんな状況で外に出たら危険よ。第一、あそこは誰かに見張られてたんじゃない」



 当然、ジゴヴィッチの用意したホテルは何者かに見張られているのだろう。

 オシッチが目にしたのはセルビア人らしい二人組だけで、その二人も今しがた殺されてしまったわけだが、それでフリーなったとは考えづらい。殺人者たちがなんの情報もないまま、あんな街中で、しかもこちらの目に入るところで殺しをしてのけるとは思えない。

 だからオシッチ達は逃げられた、と言うより逃がされたのだ。


 しかしオシッチにも考えはあった。

「こんな状況(シチュエーション)でも俺達にはお前の兄を見つけるという目的がある。 ――今のところ手掛かりはないわけだが、ひょっとしたら俺達を付け狙ってる連中なら何か知ってるかもしれない。ならあのホテルで待ち構えるのが一番手っ取り早いし、こっちが主導権を握れる」


「何が主導権よ? さっきまであたし達、逃げてたのよ?」



「君達が置かれている難局(シチュエーション)がなんとなく分かってきたぞ」ベンヤミンが口を挟む。「わしも彼女と同意見だ。情報収集の手段は一つじゃないし、焦って事を起こしたところで余計に厄介なことになるだけだ」 

 

「なら状況を変える。カウンターの裏に何があるんだ? ベンヤミン」


「フン、目ざとい奴だ。やはりピーターが寄越しただけのことはある」

 再び大男はニヤっと笑う。しかし先に嘘を見破られた時にはなかった鋭い光が目に浮かんでいた。

「しかし鹿撃ち用の散弾銃を持って夜の街をうろつくのは、それはそれで別の危険があるぞ」


 カウンターに戻って彼が取り出した銃は1.2mはある長物の猟銃で、確かに彼の言う通りそんなものを持っていたら憲兵に捕まってしまうだろう。

「だったら別のを、拳銃を貸してくれ。返せる保証はないが」


「簡単に言ってくれるな。 ――無い事はないが、まずは話を聞かせろ」



 仕方がない。

 オシッチはベンヤミンが促すままに店の奥へ入り、併設された彼の家に入る。後からニーナが続いた。


「一人で住んでるんですか?」


「いや、息子二人と娘が上の階で寝ているよ」大男は穏やかな声で答える。

 その痛ましい程に優しげな声色は、二人にそれ以上を聞くことをためらわせた。



 しばしの沈黙のまま居間にとおされた二人をベンヤミンは食卓に座らせる。居間の木製の家具はどれも古びてはいるが、どこを見てもホコリ一つなく、かえって家の主の趣味の良さを表しているように見える。

 彼はキッチンから陶製のコップとラベルのついてないワインボトルをもちだし、卓にドンと置いた。

「すまないが家にはこれしかない、欲しかったら勝手にやってくれ。それじゃ話してもらおうか」


 オシッチとしては危難に立ち向かう前に、ワインでなくもっと強いので気を引き締めてから行きたかったのだが、あまり図々しい振る舞いをして追い出されても仕方がない。

 気の進まないままにオシッチはここに来た目的と今日の出来事をベンヤミンに話した。


 

 夜も遅い時間になっていたが、彼は眠そうな素振りを欠片も見せずに真剣な表情でオシッチの話を聞き、一通り聞いたところで深く息をついた。

「つまり彼の行方について、今のところ何も手掛かりはないわけか」


「そうでもない、まずはジゴヴィッチの話のウラを取る。ここの警察にでも聞けばピレウス通りの火事について、何か教えてくれるかもしれない」


「警官がそう簡単に事件について教えてくれるとは思えないわ。忘れてるかもしれないけど、あそこで起きたのは殺人事件なのよ?」


「わかってる、だがゾランは―― お前の兄はその事件の重要参考人だ。警察も奴の行方を知るために、お前と話したがるかもしれない」



 可能性は低いが、警察は話だけでなく彼女を拘留したがるかもしれない。兄が事件の捜査状況を知るために妹を送り込んだ、と警察が考える可能性だってある。


 しかしサロニカの警官だって暇ではないだろうし、被害者は二人とも外国人だからあまり熱心に捜査しない、と言うよりしたがらない事だってある。どんな警官だって政治絡みの事件(ネタ)は嫌がるだろうし、どんな小さな火種が外交問題、ひいては戦争に発展しかねないこのバルカン半島では、なおさら手を触れたがらないだろう。


 例え彼女が拘留されたとしても、こっちはこっちで手がかからなくて済むし、彼女も留置場にいれば安全だろう。

 話がどう転んだとしても、構わない。



 だが良い考えに思われたその策も、ベンヤミンの意見により撤回せざるを得なくなった。

「さっき殺人の現場に居合わせた人間が警官に近づくというのはオススメできないな。余計な面倒を抱える心配だってあるし、君が話していた殺人者達の手口を聞く限り、彼らはプロだ。それもそこらの鉄砲玉とは比較にならないほどのな。そういう連中なら警察に手を回しておくくらい、何でもないはずだ」


 



「どっちにしても――」オシッチの考えなど知らず、眠たそうな顔をしたニーナが口を開く。「明日にはミトロヴィツァに行くんでしょう? わたしは日が昇るまでは、外に出たくないわ」


「だから何度も言ってるようにお前はここにいるんだ、聞きわけのない奴だな―― ミトロヴィツァだって?」


「自分で言ってたじゃない、兄さんと初めて会った場所だって――」


「そういやそんな事も言ったな。でもあれはジゴヴィッチに聴かせるために言っただけで、別に意味はないし、行くつもりもない」


「嘘だってこと?」


「平たく言えば、そういう事だ」

 オシッチはそっけなく答える。


 もっとも、ヴィディチと初めて会った場所だというのは本当だった。

 とっさに出てきた地名がそこだった、という事実に何か意味を見出すとしたら、オシッチ自身の感傷とでもいう事になるのだろうか。




「しかしどうする? 君がどうしても警察に接触するというのならわしは止めん。だが危険を冒す前に、もう少し他の選択肢を考えてみるべきじゃないか?」


 少しの間、オシッチは彼の言う『他の選択肢』というものを検討してみた。

 だが思い浮かぶのはむしろ危険とお近づきになるようなものばかりで、どうしても例の二人組の殺人者たちとの接触は避けられそうにない、というかこっちから近づいて行って先に排除してしまう以外に選択肢が思いつかない。

 死ぬほどビビらされたお返しに意趣返ししないことには、物理的な意味でも精神的な意味でも平穏を保てないだろう。 ――もちろん銃を持っていればの話だが。


 こんな時、ヴィディチがいれば頼りになるのだが――。

 奴がいればニーナのことも安心して任せられるし、銃を持たせても、何か始めるときに助言を求めても、奴なら何とかしてくれるような気がする。そういう人間なのだ。



 オシッチが黙っているのを見てベンヤミンはのっそりと巨体を揺らして近づき、オシッチの肩に分厚い手を置いた。

「今日はもうここで寝るんだ。考えなしに動いてこれ以上危険を抱え込みでもしたら、結局彼を探すという目的からは遠ざっていくだけだぞ」


「だがどうする? 俺がここで寝るとして、その危険が歩いてこっちに向かってくる事だって考えられる」


 ベンヤミンの表情に不安がよぎる。おそらく二階で寝ている子供たちのことを考えたのだろう。だがすぐに元の表情を取り戻す。その際にほんの一瞬、キッチンの方に目を向けた。

「その心配はここに来る前にして欲しかったのだがな。 しかし君達を信じるよ、何か面倒が起こったら、それはその時に考えればいい」



「――わかったよ」オシッチは渋るように言う。

 ニーナもベンヤミンも明らかにホッとしたような表情を見せた。

「だがあんたからはまだ聞きたい事がある、すまないがもう少し付き合ってもらうぞ。 ――ニーナは先に寝ていてくれ」


「構わんよ。さぁお嬢さん、部屋に案内しよう」



 大男に案内されてニーナはフラフラと付いていく。

 オシッチにおやすみも言わずに部屋を出て行ったところを見ると、相当疲れていたのだろう。 ――無理もない。そういう一日だったのだ。 


 オシッチはシンとした部屋に一人残され、とりあえずテーブルの上のボトルに手を伸ばし、いっぱい注いだ。

 ボトルの外観から中身はワインだと思い込んでいたのだが、コップに注いだ液体はとろみのある赤褐色をしており、どうみてもワインではない。

 コップを鼻に近づけてようやく中身が分かった。自家製の蜂蜜酒(ミード)、ポーランド風に言えば『ミュート・ピトニィ』というやつだ。


 しばらく香りを堪能してから、一気に(あお)る。

 アルコールの熱が全身に伝わるのを感じたあと、オシッチは素早く立ち上がり、まっすぐキッチンの食器棚に向かう。

 おそらく目当ての物は一番下の開き戸、その中の目につきにくい場所にあるはずだ。


 大ぶりの鉢や空のボトルなど、背の高い食器の影に手を伸ばして探ると、新聞にくるまれたずっしりとした感触の包みを見つける。

 取り出してみると、包み紙はなんとタイムズ誌であった。おそらく提供者はピーターなのだろう。



 英国の新聞に包まれた拳銃を懐に抱き、オシッチは音もなく夜のサロニカへ再び飛び出した。


 

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