第13話 引鉄
ヴィディチと初めて会った時のことはよく覚えていない。覚えているのは、初めて一緒に組んで組織の仕事をした時のことだ。
当時セルビア軍の兵士だったオシッチは、コソヴォ解放の任務を帯びた第三軍に所属しており、オスマントルコのワルダル駐留軍残党の掃討作戦に従事していた。
ヴィディチもその場にいて、彼の両足もあるべき場所に健在だった。
二人は同じ中隊に所属していた。
その中隊がとある街に留まっていた時のことだ。砲撃戦の末にガレキと化した街の残骸の中、彼から話しかけてきた。
「何読んでるんだ?」
壁の残骸に腰をかけたまま、オシッチは目を上げて見返し、手に持った新聞を相手にも見えるように広げた。
「ドイツ語の新聞か? ドイツ語ができるなんて初めて知ったよ」
おそらく民家だったのだろう。そしてそこにドイツ人か誰かが住んでいた。
新聞以外にも生活の跡が散らばっていて、ほとんどが火に焼かれているかガレキに埋もれている。住居の、人間生活の死骸だった。
「オーストリア人を殺すのにドイツ語は要らない、トルコ人を殺すのにトルコ語は要らない。 ただ時たま便利になる時もあるかもしれないが、少なくとも今まで必要にならなかったから言わなかっただけだ。 どっちにしろ中隊長は知ってる。 ――前の中隊長ってことだが」
「惜しいことだ――」ヴィディチは呟くように言い、そして感慨深げに辺りを見渡した。
街にはまだ戦闘の匂いが燻っていて、煙と土埃の匂いが漂っている。辺りでは兵士たちが忙しく立ち働き、野営の準備を急いでいる。
もうすぐ日が暮れる頃だった。
「仕方がないさ、聖書がなんと言おうと死んだ人間は生き返らない―― それでオシマイだ。 どっちにしても代わりの中隊長はすぐに補充されるだろうし、戦争は続く」
怒り出すのではないかと思っていたが、予想外のことに彼は面白そうな顔でこちらを振り向き、笑いかけた。オシッチがこういったセリフを吐いた時は大抵、相手は怒り出すかムッツリと睨みつけるものだが、彼は違った。 むしろ喜んでいるようにも見えた。
「彼の遺族に聞かせられる話じゃないが、そういう考え方をする奴は嫌いじゃないぜ。 でも俺が言ったのは彼の事じゃないんだぜ。 惜しいといったのは、お前のことさ」
「どういう意味だ?」
「殺しだけが戦争じゃないって意味さ。 俺は参謀本部の人間に呼ばれていくところなんだが、一緒に行かないか?」
後から知ったことだが参謀本部とはすなわち“組織”のことで、彼らは敵後背地、つまりオスマントルコやオーストリア、後にブルガリア領内で活動する、活動できる人間を探していた。
既に世の中は大きく揺れ動いており、全面戦争はあらゆる面で始まりかけていた。例えば情報戦のような。 そして彼らは中心に近い場所にいた。
オシッチは新聞を畳んで立ち上がった。
その時はまだ、相手が生涯の友になるであろうことなど夢にも思っていなかったが、彼の子供のような眼、何かいつもと違う事が起こるんだと思わせてくれるその眼のことは今でも忘れない。
そして二人は“組織”の仕事をするようになった――。
「いい加減、目を覚ましたらどうだ?」
不意に冷水をぶっかけられて正気を取り戻し、その代償として薄く開いた眼を刺す光と体の痛み、そして置かれた境遇に顔を歪めた。
現実を生きるのはつらいものだった。 特に今のような場合は。
皮のベルトで椅子に縛り付けられた体は動かせそうになく、地下にあるらしいその部屋には、出入り口が一つあるだけで、しかも室内の半分以上は顔に向けられた強力な電灯で視界を遮られている。
何より問題なのは逃げ出す気力が削がれてしまっていることだった。体の痛みのせいか、先の夢の余韻のせいか、あるいは知らない間に打たれたかもしれない薬のせいかは分からない。
「さあ、ゾラン・ヴィディチの居場所を教えてもらおうか」
目の前にいるのは知らない男だった。顔に電灯を当てられているので見づらいが、口ひげを生やした細身の男で、技術者風の身なりをしている。
しゃべっているのはドイツ語だが、姿かたちやドイツ語の調子からマケドニア出身の男ではないかと思われた。
「ここは―― どこだっけ?」
口の中にまとわりつく粘っこくてむかつく反吐に息が詰まりそうになりながら、オシッチは何とか声を出した。「ビトラ? サンジャク? ――ベオグラード?」
「辺獄ってところだな、君は地獄を信じるかい? ミハイル・オシッチ」
電灯の影から出てきたのは例のギリシャ人情報部員だった。顔色の悪そうな薄気味悪い作り笑いを浮かべ、ゆったりと足を開いて立っている。しかめっ面しいマケドニア人との対照で、彼の方が主導権を握っているのが想像できる。
おそらく取り調べの際の“良い警官”役をやっているつもりなのだろう。しかし状況から見てどちらも“悪い警官”である事は間違いない。
「まあ、どっちでもいいんだ―― 今のは質問じゃない」
オシッチが黙っているとギリシャ人は先を続けた。「地獄はあるよ、ミハイル君。 人は神を、地獄を、そして電気を発明した。 地獄はここさ――」
そう言いながら彼はマケドニア人の傍らの箱をポンと叩いた。身体を見たくはなかったが、感触で箱と自分の腕が繋がれているのが分かった。
顔に恐怖が現れたのだろう。
マケドニア人はわずかにほっとしたように表情をゆるめ、ギリシャ人は無表情のまま、彼に合図して退室させた。 自分じゃ分からないが、自白まであと一息といったところなのかもしれない。
白状するような情報を持っていたとしてだが。
「――こういうの嫌いなんじゃなかったのか?」
息を切らせて言葉を絞り出す。 だがさっきよりはマシになっていた。
「その質問は2回目だな」ギリシャ人はゆっくりと部屋をまわった。目を合わせないようにしているように見えた。「君が気を失う前だ、答えなかったがね――」
彼はそのままの歩度で近寄り、オシッチの肩に手を置いた。「原則として質問をするのは我々だ。 だがいいだろう、聞きたいのはそんな事か?」
問われてオシッチは考えを巡らせた。
――何か聞きたいことなんかあっただろうか?
今はそんなことより家に帰りたい。 いや、椅子から解放してくれるだけでもいい。
「アンタ、殺された二人組のことを“部下”と言ったな―― だがあれはギリシャ人のように見えなかった。 今出て行った奴もそうだ、アンタ一体何者なんだ? 少なくとも陸軍情報部じゃないな」
ギリシャ人は相手の神経を逆になでるような笑みを浮かべた。いわゆるドヤ顔だ。
「残念ながらはずれだ、私はれっきとした陸軍情報部所属の将校だ。 ――もっとも、君の言うことがまるっきり的外れという訳でもないがね」
「というと?」
オシッチは目が眩むのをこらえて顔を上げ、できるだけ答えを知りたくてたまらないというような表情をしてみせた。
相手が話す気になっているのは都合が良い。もしかしたら主導権を握れるか、そのきっかけを掴むための情報が得られるかもしれない。例えわずかでも、情報は持っているに越したことはないし、なるべくなら死ぬのは先延ばししたい。
「今の私はギリシャのために働いているわけではないという事さ、第二インターナショナルというのを知っているかね?」
知っていた。
と言っても名前くらいという程度だったが、少なくとも味方ではない事はわかっている。
「――参ったね、共産主義者がどうやって陸軍将校になったんだ?」
「思想の転換というのはよくある事さ、例えば王家に忠誠を誓った軍の将校団が、その政治体制に幻滅してクーデターを起こすとかね。 君の国でもそうだったし、この国でもそうだった」
本来なら驚くべきなのだろう。 未だに真相は謎に包まれているギリシャ国王暗殺事件について、何か知った風な口をきく奴がいる。
しかし今はそれどころではなかったし、相手にとってもどうでもいいことのようだった。そして本命はその後に控えていた。
「私は―― いや、我々は来るべき戦争を避けたいと思っているのだよ、ミハイル・オシッチ。 そのためにも、ゾラン・ヴィディチを野放しにしておく訳にはいかない。 ――彼は危険だ、彼は戦争の引鉄を引こうとしている」




