第6話 小さな祝福の芽生え
セレストに手を引かれ、屋敷の中へ戻っていったあの夜から。
日々は、少しずつ、しかし確かに変わりはじめていた。
最初に気づいたのは――畑に立つ老農夫だった。
「……おかしいなぁ。こんなに実が早くつくとは」
ぽつりと漏らしたその言葉に、隣の婦人が「今年は土のあたりがいいんだろうよ」と笑って返した。
けれど、それだけでは片づけられない変化が、確かにあった。
根菜は土の奥深くまでしっかりと張り、
果樹の枝は、例年より多くの実を重そうに抱えていた。
雨はそれなりに降り、日差しも平年並み――なのに、作物たちは瑞々しく、豊かに実っていく。
それはまるで、大地そのものが静かに潤い、目覚めていくかのようだった。
「……今年の畑は、よう実るな」
「ありがたいことよ。坊ちゃまのところに、福を呼ぶ人が来られたんだろう」
そう囁かれるようになったのは、
イエレナがこの地に身を寄せてから、しばらく経った頃だった。
誰が口火を切ったわけでもない。
けれど、人々はどこかで気づいていた――
あの静かな少女の周囲には、目には見えぬ何かが息づいていると。
春先の芽吹きのような、
夜明け前のぬくもりのような、
やわらかで、満ち足りた気配。
それは、祝福の残響のように。
彼女の内に宿るものが、静かに、村の大地を潤しはじめていた。
それは、身近な人々にも、静かに影響を与えていた。
たとえば、アウルが育てている薬草たち。
朝に水をやるたび、以前よりも葉の色が濃く、香りが強くなっているのに気づいた。
「……土、変えた覚えはないんだけど」
アウルは、少し眉をひそめながらも、嬉しそうに薬草を摘み取っていく。
乾燥させたハーブの香りが、屋敷の台所にふんわりと広がった。
一方、ギウンもまた、別のかたちでその変化に気づいていた。
ある日、いつものように村の周辺を巡回していたときのこと。
通りがかった農家の夫婦が、顔をほころばせながら話していた。
「ほれ見んさい、このトマト……今年はひとまわり大きくなっとるんだ」
「しかも甘いんよ。なんでかねぇ、陽当たりが良かったかねぇ」
別の日には、腰を痛めていた老爺が、すたすたと歩いている姿を見かけた。
声をかけると、笑ってこう言う。
「なんか最近、痛みがすっと抜けよった。神さまでも通ったかのう」
そんな噂が、巡回のたびにぽつりぽつりと耳に入ってくる。
ギウンは表向きは「良かったすね~」と軽く流していたが、
内心では――ふと思い当たる。
(……姫様が来てから、だよな)
そう呟きかけて、口には出さずに微笑んだ。
彼女がこの地にいること。
それだけで、村の空気が少しだけ柔らかくなったように思えるのは、きっと気のせいじゃない。
風が抜け、草がそよぎ、小さな奇跡が誰にも気づかれぬまま根を張っていく――
まるで“祝福”が、この地をそっと包みはじめているようだった。
物語の合間を綴った短編もございます。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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