第61話 紅の再会~前編~
テラスへ足を踏み出した瞬間、大広間のざわめきがまるで幕の向こうへ遠ざかるように薄れていった。
春の風が金糸のカーテンを揺らし、花と香の混じった甘い匂いを運んでくる。白い大理石の欄干の向こうには、どこまでも澄み渡る春空が広がっていた。
先ほどまで向けられていた無数の視線も、賑やかな音楽も届かない。そこはまるで、世界から切り離されたような静かな場所だった。
イエレナはそっと胸元へ手を当てる。
早鐘のような鼓動はまだ収まらず、息を整えようとしても胸の奥の震えは消えてくれない。
視線の先では、深紅と黒の軍装が陽光を受けて静かに揺れていた。
テオドールは一言も発さないまま、迷いのない足取りでテラスの奥へ進んでいく。
その背中に宿る力強さは、記憶の中の彼と少しも変わらない。けれど同時に、遠い年月と数え切れない戦場を越えてきた者だけが纏う、知らない気配もそこにはあった。
イエレナは小さく息を吸い込み、胸のざわめきを押さえるように指先を握る。
そして覚悟を決めるように、その背を追った。
やがてテオドールが欄干の前で足を止めた。
二人のあいだを春風が吹き抜け、淡い金の髪をさらりと揺らし、その風が過ぎるのを待つようにテオドールはゆっくりと振り返った。
光を受けた金の瞳がかすかに揺れる。
その視線がまっすぐイエレナを捉えた瞬間、胸の奥がひどく騒いだ。
逃げ場など、どこにもない。
「……久しぶりだな」
低く落ち着いた声。けれどその響きは、驚くほど鮮明に耳が覚えていた。
遠い春の日々から、少しも変わらないまま。
喉の奥がきゅっと詰まる。
それでもイエレナは、ようやく唇を動かした。
「……テオドール……」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥がじんと痛んだ。
懐かしい。
会いたかった。
けれど、会いたくなかった。
相反する感情が行き場を失ったまま胸の中で絡まり、息さえ苦しくなる。
テオドールは小さく息を吐くと、欄干へ片肘を預けた。
視線だけを遠くへ向けながら、どこか呆れたように笑う。
「まさか本当に生きてるとは思ってなかった」
その言葉が風に溶ける。だが次の瞬間には再びイエレナへ視線を戻し、金の瞳を細めた。
「しかも――こんな場所で会うとはな」
陽光が深紅と黒の軍装を縁取り、肩先に金の粒を散らしていく。
そこに立っているのは、幼い日に出会ったあの少年ではなかった。
帝国を背負い、数え切れない戦場を越えてきた王子。鋭さを纏いながら、その奥に拭いきれない孤独を滲ませる青年だった。
喉の奥が熱くなる。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、どの言葉も上手く形にならない。それでもイエレナは意を決したように口を開いた。
「……帝国に、報告するよね」
声にした瞬間、胸が大きく震えた。
その一言が何を意味するのか、二人とも痛いほど理解している。
テオドールはわずかに眉を動かし、短く息を吐いた。
「……それも分かってて、ここに立ってるんだろ」
真っ直ぐな視線だった。
昔から一度も嘘をつけなかった少年の目。
あの日と何も変わらないまま、逃げ道のない真実だけを突きつけてくる。
イエレナは答えられなかったが、その沈黙だけで十分だった。
胸の奥で、長く閉じ込めていた傷が静かに疼く。どれだけ時が流れても、テオドールは変わらない。
少し乱暴で、真っ直ぐで。
そして――優しすぎるほど残酷だった。
やがてテオドールは、小さく乾いた笑いを漏らす。
「まさか第五王子の“連れ”になってるとはな。……悪夢もいいとこだ」
口元は笑っているけれど、その金の瞳だけは少しも笑っていなかった。
怒りとも違う。呆れとも違う。
長い年月をかけてようやく辿り着いた答えを前にして、それでも素直に喜べないような複雑な色だった。
「……あの日からずっと、セスのところにいたの」
かすかに震える声でそう告げると、テオドールのまぶたがわずかに動いた。
金の瞳に何か別の感情がよぎる。
「……どうりで。皇帝が血眼になって探しても見つからねぇわけだ」
その口元はまだ笑っている。
けれど瞳の奥には、拭いきれない痛みと、ようやく見つけた安堵と、そしてどうしようもない諦めが静かに沈んでいた。
イエレナは息を呑む。その表情が、なぜだかひどく苦しかった。
春風が吹き抜け、揺れる影を見つめたまま、テオドールは不意に口を開いた。
「……フェルディナには、俺が介入した」
その瞬間、イエレナの呼吸が止まった。
風が弱まり、周囲の音が遠のいていく。
「あのままだと国境沿いは地獄になってた。略奪も私闘も止まらねぇ。だから帝国が動くしかなかった」
淡々とした声音だった。
怒りも、悔いも、言い訳もない。ただ事実だけを並べるその口調が、かえって胸を鋭く刺す。
「俺は皇帝に進言した。正式な軍の介入に切り替えろってな。市街地と民間区域は保護対象にした。……民間人には手を出させてねぇ」
そこで言葉が途切れる。
ほんの僅かな沈黙。それだけで続く言葉を察してしまいそうだった。
「だが――王族と、その関係者は全員処分された」
春風が吹く。それなのに、ひどく寒かった。
イエレナの指先が震えた。息を吸おうとしても上手く吸えない。
兄の顔が浮かび、母の声が蘇る。
胸元へ伸ばした手から力が抜け、指先がわずかに揺れた。
テオドールは視線を伏せる。
「……俺が戻ったのは、その直後だ。城は焼けてた。瓦礫しか残ってなかった」
焼け焦げた石壁。崩れた庭園。誰もいなくなった王宮。
彼が見た光景が、言葉の向こうから滲んでくる。
「報告じゃ、お前も死んだことになってた」
乾いた声だった。けれど、その奥には消えない怒りと、今ここにいるイエレナを見つめる安堵が確かに混ざっている。
すべてを見て。すべてを背負って。
――彼は、あの焼け跡を一人で歩いたのだ。
胸が痛い。
言葉にならない感情が喉の奥で絡まり、息が詰まる。
その沈黙を破るように、テオドールが小さく息を吐いた。
「……で」
陽光を背に、金の瞳が細められる。
そして、ようやく見つけた宝物を確かめるように、まっすぐイエレナを見た。
「今こうして見つけた」
静かな声だった。その一言を聞いた瞬間、胸の奥に凍りついていた何かが、静かにひび割れる。
どうしてだろう。
こんなにも優しい。
イエレナは唇をきゅっと噛んだ。
堪えようとするほど胸の奥に熱が溜まり、行き場を失った感情がじわじわと広がっていく。
テオドールはそんな彼女から視線を外し、小さく鼻を鳴らした。
「……旧フェルディナ国は、今は俺が預かってる。無駄に虐げられる心配はねぇよ」
春風が深紅の髪を揺らす。
その言葉を聞いた途端、イエレナの肩がかすかに震えた。
安堵と哀しみ、そしてどうしようもない懐かしさが胸いっぱいに広がっていく。
焼け落ちた城も、失われた家族も戻らない。それでも――故郷は生きている。
その事実だけが、暗闇の中に残された小さな灯火のように胸を温めた。
「……よかった……」
零れた声は、祈りにも似ていた。
テオドールはその震えに気づいたのか、ほんのわずかに目を細めると呆れたように笑った。
「……俺に一生感謝してろ」
乱暴な言葉だったけれど、その声音には、どこか照れ隠しのような優しさが滲んでいる。
次の瞬間、大きな手が伸びてきて、親指が頬を伝う涙を拭う。
無骨な指先なのに、その手つきは驚くほど丁寧で、昔と変わらない温もりがそこにあった。
触れられた場所がじんと熱を帯びる。
胸の奥で張り詰めていた何かが、少しずつほどけていくのを感じた。
「……テオドール……」
彼の名を呼ぶ声は、自分でも驚くほど頼りなく震えていた。
その響きに、テオドールのまぶたがわずかに揺れる。
春の風が二人の間を吹き抜け、遠くで鳴る鐘の音が静かに重なった。
まるで途切れてしまった時間を、もう一度繋ぎ直そうとするように。
イエレナはそっと目を伏せる。
失われたと思っていた故郷。もう二度と帰れないと思っていた過去。
すべてが消えてしまったわけではないのだと、ようやく知ることができた。
胸の奥で張り詰めていたものが、少しずつほどけていく。
気づけば、テオドールの前では肩の力を抜いて息ができていた。
それは王都へ来てから、久しく忘れていた感覚だった。
【 次回予告 】
交わされるのは、
過去の真実と、あまりにも残酷な忠告。
「……期待しすぎんなよ」
それでも灯った、消えかけた希望。
けれどその距離に割って入るのは――
静謐の王子。
そして、ぶつかるふたつの想い。
春のテラスで、
止まっていた時間が大きく揺らぐ。
次話、第61話「紅の再会~後編~」
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物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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