第52話 光の招待
セレストの膝の上で眠っていたイエレナの呼吸が、ゆるやかに変わっていく。
深く規則正しかった寝息が、少しずつ浅くなる。
胸元へ預けられた重みがわずかに揺れ、柔らかな髪が彼の腕をさらりと撫でた。
レース越しの陽射しが、白いソファへ淡く落ちる。
揺れる光の粒が、イエレナの睫毛の先で静かに瞬いた。
その温度の変化を感じ取ったのか――
長い睫毛が、かすかに震える。
「……セス?」
夢の続きを辿るみたいな、掠れた声。
ゆっくりと瞼が開き、滲んだ視界いっぱいに映ったのは、柔らかな銀の髪と瑠璃色の瞳だった。
セレストは片手で本を閉じ、そっと目を細める。
「おはよう、イェナ」
低く穏やかな声が、午後の静けさへ溶けていく。
起こしてしまわないように。
まだ半分夢の中にいる彼女を、そのまま包むみたいな声音だった。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
ぼんやりとしていた意識が、そこでようやく現実へ追いついた。
――膝の上。
近すぎる距離。
寄り添う体温。
状況を思い出した瞬間、ぱちりと瞳が大きく見開かれる。
「っ……ご、ごめんっ……重かったよね?!」
慌てて身体を起こそうとした瞬間、そっと腕が回される。
急がなくてもいいと伝えるみたいに、やわらかく支えられた。
「……もういいの?」
覗き込むような声が、すぐ近くで落ちてくる。
瑠璃色の瞳が静かに細められ、その口元には淡い笑みが浮かんでいた。
引き止めるでもなく、急かすでもなく。
ただ、彼女自身に選ばせるような優しい間。
その空気に触れた途端、イエレナの頬がじわりと熱を帯びていく。
視線が落ち着かないまま揺れ、長い睫毛が伏せられる。
膝の上で、指先がきゅっと小さく握り込まれた。
唇を結び、ほんの少しだけ息を吸う。
まるで勇気を集めるみたいに。
「っ……もう少しだけ……いい?」
囁きにも満たない、か細い声。
けれどその瞳は、今度は逸れなかった。
甘えることに慣れていないまま、それでも確かめるように向けられた視線。
セレストは一瞬だけ目を細めると、くすりと喉の奥で笑った。
「……いいよ」
その返事と一緒に、ぽん、と軽く自分の膝を叩く。
“おいで”と迎え入れるみたいな、あまりにも自然で優しい仕草だった。
イエレナはおずおずと彼を見上げる。
けれど次の瞬間、ほっとしたように頬をゆるめ、小さく笑った。
そして遠慮がちに身体を預けながら、そっともう一度、セレストの膝へ頭を乗せる。
淡い髪がさらりと広がり、午後の光をやわらかく弾いた。
「……ふふっ」
零れた笑みは、ひどく無防備で
その表情を見たセレストも、つられるように目を細める。
何も言わないまま、指先をそっと髪へ滑らせた。
絹糸みたいに柔らかな感触を、ゆっくりと梳いていく。
静かな沈黙。
けれど不思議と、気まずさはなかった。
風がレースを揺らし、紅茶の香りがふわりと漂う。
その穏やかな空気の中で、イエレナがぽつりと呟いた。
「……アズみたい……」
セレストの指先が、ほんのわずかに止まる。
イエレナははっとしたように目を瞬かせ、慌てて視線を揺らした。
「……あ、ごめんなさい。失礼だよね……。
でも、時々こうやって甘やかしてくれたの」
その声はどこか懐かしさを滲ませていて。
セレストは静かに目を細めた。
「――そっか」
故郷のことも。
アズベルトのことも。
彼女は普段、あまり自分から語ろうとしない。
だからこそ、こうして零れる小さな思い出が、たまらなく愛おしかった。
少しずつ。
本当に少しずつだけれど――
イエレナが、自分の抱えているものを預けてくれるようになっている気がする。
甘えるような仕草も。
遠慮の薄れた距離感も。
ふとした瞬間に滲む信頼も。
その変化が嬉しくて、どうしようもなく大切にしたくなる。
いや――
きっと、自分はもう。
“守りたい”だけでは、足りなくなっている。
セレストは静かに息を吐き、眠たげに目を細めるイエレナを見下ろした。
(……イェナは、本当に僕の心を揺らす天才だね)
セレストは小さく息を吐きながら、ゆっくりと彼女の髪を撫で続けた。
指先を滑る柔らかな感触が、妙に心地いい。
窓の外では、午後の陽射しが白いレースを透かし、サロンの空気を淡い金色に染めている。
風は穏やかで、花の香りはやさしく甘い。
静かで、満ち足りた時間だった。
――この瞬間が、永遠に続けばいい。
そんな願いが、ふと胸をよぎる。
けれどその永遠を願っていられるほど、世界は穏やかではない。
遠くで、時を告げる鐘がかすかに鳴った。
静寂を裂くでもなく。
ただ、淡々と“時は進んでいる”のだと知らせる音。
その響きに、セレストの睫毛がわずかに揺れる。
甘やかな時間の中へ、静かに“王子としての時間”が戻ってきた。
しばらく逡巡するように目を伏せ、それから彼はやさしく声を落とす。
「……イェナ。少し話してもいい?」
その声音に、イエレナはゆっくりと顔を上げた。
まだ眠気の残る瞳が、まっすぐセレストを映す。
けれど彼の空気がほんの少し変わったことに気づいたのか、彼女はそっと身体を起こした。
「……なに……?」
どこか不安げな声。
セレストは思わず小さく笑う。
「ふふ……そんな怖がらないで」
安心させるように目を細めながら、傍らのテーブルへ手を伸ばした。
指先で封書を取り上げ、そっと彼女の視線の高さへ掲げる。
第二王子の紋章が、午後の光を受けて淡く輝いた。
「レオニス兄上から、君宛てに書簡が届いたんだ」
「……レオニス殿下、から……?」
その名を聞いた瞬間、イエレナの声にわずかな緊張が混じった。
セレストは穏やかに頷き、封書をそっと彼女の手へ渡す。
「明日の午後、登城してほしいらしい。叙任式の打ち合わせだって」
「……叙任式って……セスじゃなくて?」
不思議そうに見上げてくる瞳に、セレストは小さく肩をすくめる。
「うん。本来なら僕宛ての話なんだけどね」
苦笑混じりに言いながら、静かに続けた。
「でも今回は、君への正式な招待だ。
王族の隣に立つ“婚約者”として――この国の前に、姿を示すための」
穏やかな声音だった。
けれどその言葉は、確かな重みを伴って胸へ落ちてくる。
イエレナの指先が、封書の端をきゅっと握った。
セレストはそんな彼女を見つめたまま、ゆっくりと言葉を重ねる。
「もちろん、断ることもできる。無理に出る必要はないよ」
責任を押しつけるでもなく。
答えを誘導するでもなく。
ただ、彼女自身に選ばせるように。
「……どうする?」
その問いに、イエレナは静かに視線を落とした。
膝の上で、指先が小さく握り込まれる。
鼓動が、少しずつ早くなる。
怖くないわけじゃない。
大勢の視線が向けられることも。
“亡国の姫”として囁かれることも。
きっと避けられない。
けれど――
胸の奥で、あの日の言葉が静かに蘇る。
“調和の祝福”。
守るだけではなく、向き合わなければならない力。
逃げるように隠れているだけでは、きっと何も変わらない。
午後の陽射しが、揺れる睫毛をやわらかく照らした。
短い沈黙のあと、イエレナはゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、まだ不安が残っていた。それでも、その奥には確かに――逃げない光が灯っている。
「……行きます」
小さいけれど、はっきりとした声だった。
セレストはその答えを静かに受け止め、やわらかく目を細める。
「そう。わかった。それなら、明日は僕が王城まで送るよ」
「……うん。ありがとう」
素直に頷くその姿に、セレストはふと息をついた。
少し前までの彼女なら、不安を隠すように俯いていたかもしれない。
けれど今のイエレナは、怖れを抱えたままでも、自分で前へ進もうとしている。
その小さな変化が、どうしようもなく愛おしかった。
セレストは彼女を見つめたまま、そっと微笑む。
まるで、その覚悟ごと包み込むみたいに。
午後の光を受けた淡い髪へ指先を伸ばし、一筋だけ掬い上げる。
さらりと零れる柔らかな感触を確かめるように、ゆっくりと撫でた。
「……それと。打ち合わせの間は、レーネを付けておくね」
「レーネを……?」
少しだけ目を瞬かせるイエレナへ、セレストは静かに続ける。
「何かあっても、彼女ならすぐ動ける。
王城の中でも……今は、油断しない方がいい」
その声音は穏やかだった。
けれどそこには、“安全な場所など存在しない”と知っている者の静かな警戒が滲んでいる。
祝福を巡る空気は、確かに少しずつ動き始めていた。
イエレナはその言葉を胸の中で反芻するように、小さく視線を伏せる。
それからふっと力を抜き、やわらかく笑った。
「……ありがとう。レーネが一緒なら、心強いかも」
その笑顔に、セレストの口元もわずかに綻ぶ。
「君がそう言ってくれるなら、安心だ」
窓の外では、午後の陽射しが静かに揺れていた。
白いカーテンを透かした光が床へ淡く落ち、重なったふたりの影をやさしく包む。
穏やかで、温かな午後。
けれどその奥では、
新しい季節の気配が、確かに動き始めていた。
【 次回予告 】
王城にて交わされる、静かな問い。
“婚約者”として立つ覚悟。
失われた名を晒す意味。
そして――後戻りできない未来。
「……理解は、出来ているね?」
それでもなお、彼女は視線を逸らさない。
やがて落とされる、最後の問い。
それは立場ではなく――彼女自身の想い。
次話、第53話「問われた想い」
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物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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