第51話 午後のまどろみ
ラファエルとのやり取りから、いくらかの時が過ぎた。
けれど、あの日交わされた言葉は、今もイエレナの胸の奥に静かに残っている。
――“調和の祝福”。
人と精霊のあいだを繋ぎ、流れを均す力。
けれど同時に、それは使い方を誤れば、誰かを傷つけてしまう力でもある。
「均衡は美しい。だが――崩れれば、すべてを壊す」
不意に蘇るラファエルの静かな声に、イエレナはそっと指先を握りしめた。
だからこそ、自分の力とどう向き合うべきなのか。
どう在りたいのか。
彼女は、少しずつ考え始めていた。
それからというもの、イエレナは毎日のように中庭へ通い、祝福の制御を繰り返していた。
◇ ◇ ◇
午後のやわらかな陽射しが、中庭へ静かに降り注いでいる。
白い石畳は淡い金色に染まり、風に揺れる花々のあいだから、精霊たちの小さな囁き声が聞こえていた。
穏やかな昼下がりの中心で、イエレナはそっと両手を胸の前で重ねる。
ゆっくりと息を整え、静かに掌をひらくと――
白い手のひらに、淡い光がふわりと灯った。
やわらかく、静かで。
けれど確かな温もりを宿した、小さな灯。
意識を澄ませた瞬間、中庭を囲む結界の線がわずかに揺らぐ。
乱れた流れを撫でるように。
押し返すのではなく、ただ静かに整えていく。
その感覚に触れるたび、イエレナの脳裏には、あの日浮かび上がった古代契約の紋様がよぎった。
円環。
流れ。
均す線。
意識したこともなかった、不思議な形。
けれど今なら分かる気がした。
あれはきっと、フェルディナの歴史と深く結びついたものなのだと。
(……フェルディナが精霊信仰の強い国だったことも、関係しているのかな)
ふと、幼い頃に聞かされた古い言い伝えを思い出す。
精霊王と初代フェルディナ王が手を取り合い、国を築いたという逸話。
あの頃は、ただの美しい物語だと思っていた。
けれど――
(違うのかな……)
もし、あの原初契約式こそが、その“はじまり”だったのなら。
胸の奥が、静かにざわつく。
けれど調べる術は、もう残っていない。
フェルディナの地には近づけない。
禁書も記録も、王宮とともに失われた。
(そんな大事な情報が、他国で見つかるはずないよね……)
失われたものは戻らない。
そう理解しているはずなのに、胸の奥にじわりと焦燥が滲んでいく。
(帝国が動いた理由にも……なり得るのに)
もし祝福そのものが、誰かにとって脅威だったのなら。
襲撃の真相は、いまだ霧の中にある。
誰も、すべてを語ろうとはしない。
だからこそ。
改めて――亡国の姫としての“責任”を、自分は背負わなければならない気がした。
ただ、力を扱えるようになりたいと思っただけだった。
なのに、知れば知るほど、新しい扉が開いていく。
まるで、自分の知らない場所で何かが動き続けているみたいに。
けれど、その中心にいるはずの自分は――まだ何も知らない。
胸の奥に広がるのは、奇妙な疎外感だった。
(――アズは、何か知っていたのかな)
その名を胸の奥でそっと呼んだ瞬間、掌に宿っていた光がふわりとほどけた。
淡い粒子は風に攫われ、午後の陽射しの中へ静かに溶けていく。
その横顔に落ちた、ほんのわずかな陰りを。
少し離れた窓辺から見つめていたセレストは、静かに視線を伏せた。
無理に問いかけることはしない。
今の彼女に必要なのは、答えを迫られることではなく――安心して息をつける場所だと分かっていたから。
手元の書類を閉じ、ペンを置く。
そしてしばらくしてから、何でもないような足取りで中庭へ歩み寄った。
「ちょうど紅茶を淹れてもらったんだ。焼き菓子もあるよ。今日も、よく頑張ったね」
その言葉だけで、張りつめていたものが少し緩む。
照れたように笑う頬には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
それでも彼女は、誰よりもまっすぐ前を向こうとしている。
「少し、休もう」
「……うん。」
窓際の長椅子に並んで腰を下ろす。
レース越しの陽射しがやわらかく降り注ぎ、風がカーテンを揺らすたび、紅茶の香りがふわりと漂った。
言葉はいらなかった。
ただ同じ場所で、静かな時間を分け合うだけでいい。
やがて――
イエレナの肩が、そっと彼の腕へ触れた。
一瞬、風かと思うほど頼りない重み。
けれど次の瞬間、小さく身体が傾ぎ、こてん、と頭が寄り添う。
「……あ、ごめん……」
はっとしたように身体を起こそうとする。
だが眠気には抗えないのか、すぐにまた小さく舟を漕ぎ始めた。
その様子に、セレストは思わず目を細める。
指先で淡い髪をそっと整えながら、低くやさしく囁いた。
「……おいで。」
「……だいじょうぶ、まだ起きて……」
イエレナはとろんとした瞳で彼を見上げ、無理に笑おうとするその声が、セレストの胸の奥を静かに締めつけた。
彼は小さく息を吐き、そっと彼女の頬を撫でる。
「少し休みな」
その瞬間、イエレナの唇からふっと力の抜けた息が零れた。
「……セス……」
夢の入口みたいに、柔らかな声。
次の瞬間――彼女は、すとんと彼の胸元へ身を預けた。
淡い髪が触れ、ぬくもりが静かに重なる。
小さな呼吸が鼓動に寄り添い、世界の音が少しずつ遠ざかっていく。
セレストはそっと彼女を抱き寄せた。
「……おやすみ、イェナ。」
囁きは風に溶け、午後の光がレース越しに淡く揺れる。
花の香り。やわらかな体温。腕の中で繰り返される、穏やかな寝息。
甘えることが苦手なくせに、限界までひとりで抱え込んでしまう。
寄りかかるより先に、背負うことを選んでしまう。その不器用さが愛おしくて――少しだけ、苦しい。
本当は。こんなふうに陽だまりの中で、何も気負わず笑っていてほしい。
けれど彼女は、きっと立ち止まらない。
立場も、責任も、全部抱えたまま、それでも前へ進もうとするだろう。
だからせめて、今だけは。
何も背負わず、安心して眠っていてほしかった。
腕の中の温もりを、そっと抱き寄せる。
そのとき――
控えめなノックが、午後の静寂を静かに震わせた。
「……殿下」
控えめな声とともに、静寂の向こうからネイサンが姿を見せた。
セレストは一瞬だけ目を閉じ、すぐに静かな王子の表情へ戻ると、
腕の中のイエレナを起こさぬよう、指先でそっと合図を送り、低く囁いた。
「……入って」
ネイサンは恭しく一礼する。
「レオニス殿下より、イエレナ様宛てに書簡が届いております」
「イェナ宛て? 僕ではなく?」
「はい。おそらく、登城の要請かと」
差し出された封筒を受け取り、軽く傾ける。
封印の横に走る、見覚えのある筆致。
『セスは来なくていいよ~ ラファエル』
その一文に、セレストの眉がぴくりとわずかに動いた。
「……兄上らしいね」
「かと存じます」
ネイサンの口元にも、控えめな苦笑が浮かぶ。
封を魔力で解けば、中には無駄のない端正な文面。
『イエレナ嬢へ。
明日の午後、登城願いたい。叙任式に関する確認を行う。
第二王子執務室にて。――レオニス』
読み終えた瞬間、胸の奥へ小さく重みが落ちた。
――叙任式。
王家にとって、大きな節目となる儀式。
その場へイエレナが“婚約者”として立つということは、ただ隣にいるだけではない。
王家の庇護下にある存在として、自らの立場を公に示すということだった。
セレストは静かに視線を落とす。
腕の中では、イエレナが何も知らないまま穏やかな寝息を立てていた。
理由を探そうと思えば、いくらでも見つかるだろう。
体調不良。準備不足。時期尚早――
けれどこれは、自分宛ての書簡ではない。イエレナ自身へ向けられたものだ。
つまり兄たちは、“彼女に選ばせる”つもりなのだろう。
セレストはわずかに目を細めた。
(……兄上)
試しているのか。それとも、背を押しているのか。
どちらにせよ――選ぶのは彼女だ。
「……今は、起こさずにおこう。疲れてるから」
「かしこまりました」
ネイサンは静かに一礼し、足音を立てぬまま部屋を後にする。
扉が閉まる音が小さく響き、サロンには再び穏やかな静けさが戻った。
セレストは封書をテーブルへ置き、封の端に残された落書きを見て、小さく息を吐く。
「……“来なくていいよ~”か。まったく、油断も隙もない」
苦笑混じりに呟き、視線を戻す。
膝の上では、午後の光を浴びたイエレナが、どこか安心したように微笑んでいた。
その寝顔を見つめながら、そっと髪を撫でる。
(……どんな知らせであっても、君が笑っていられるように)
静かに身を屈め、額へそっと唇を落とした。
「おやすみ、イェナ」
午後の光が揺れる。
風に押され、レースのカーテンがやわらかく波打った。
甘やかな時間は、それでも静かに――次の波へと流れ始めていた。
【 次回予告 】
穏やかな午後、重なる体温。
ほどけていく距離と、静かに深まる想い。
「……もう少しだけ、いい?」
寄り添うぬくもりの中で、
彼女は初めて“自分の意思”を選び取る。
――それは、王都への招待。
守られるだけではない場所へ。
亡国の姫は、光の中へと歩き出す。
次話、第52話「光の招待」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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