第15話 熱に揺れる夜 ~後編~
――寝すぎちゃった……。
重いまぶたを無理やり持ち上げた瞬間、
ずきん、と頭の奥が揺れた。
視界はぼやけ、天蓋の輪郭さえ、ゆらゆらと滲んでいる。
イエレナは布団に手をつき、
なんとか身体を起こそうとした。
「イェナ……大丈夫~? 顔、真っ赤だよ?」
ふわりと降りてきたリリュエルが、心配そうに覗き込む。
イエレナはうつむいたまま、小さな声を絞り出した。
「……風邪、ひいちゃったかな……」
寝間着のボタンに指をかける。
けれど――外れない。
力を込めようとしても、指先が震えるだけで言うことをきかなかった。
(……おかしい……)
身体が、ひどく重い。
ベッドから足を下ろした瞬間、
支えが抜けたように力が抜け、
そのまま、ずるりと膝を落とした。
「……あっ……!」
床に手をつき、浅く息をこぼす。
立ち上がるどころか、呼吸を整えるのさえつらい。
だるさが、身体の芯まで染み込んでいた。
「イェナっ?! わ、わっ、大変!! セス呼んでくる!」
リリュエルが慌てて羽をばたつかせ、
ひゅっと光の尾を引いて飛び去る。
止める暇もなかった。
けれど――耳に残った“名前”が、胸を強く揺らす。
「……セス……」
その名を呟いた瞬間、
昨夜の記憶が、鮮やかに胸へ逆流してきた。
熱を帯びた瑠璃の瞳。
触れられた唇の感触。
そして――自分の口から、思わずこぼれてしまった、あの言葉。
(……顔、あわせられない……)
気まずくて、恥ずかしくて、
胸の奥が、じくじくと痛む。
なのに。
そう思えば思うほど――
(……傍に、いてほしい……)
抑えきれない弱さが、胸の奥から滲み出る。
その願いだけが、どうしても消えてくれなかった。
熱と一緒に疼く、どうしようもない本音。
小さく、けれど確かに、胸の奥で息づいている。
――そのとき。
「イェナ!」
ばたん、と扉が勢いよく開いた。
外套を揺らしながら駆け込んでくる影。
セレストだった。
その瞳は強く揺れていて、
今にも抱きしめてしまいそうなほど、必死な色を帯びている。
「っ……セス……」
名前を呼んだ瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
昨夜の記憶が一気に蘇り、気まずさと、ほっとする気持ちが絡み合う。
セレストは迷いなく膝をつき、
すぐ側にあったストールを手に取ると、そっと肩へ掛けた。
その仕草は丁寧なのに、指先が微かに震えている。
「……大丈夫? イェナ……」
切実な声に、胸の奥がひどく痛んだ。
逃げるように視線を伏せ、小さく呟く。
「……頭、いたい……」
その言葉を聞いた途端、
セレストの手が、額へ伸びる。
「……っ」
身体がびくりと強張った。
ほんの一瞬。
それだけの反応だったのに、セレストはぴたりと動きを止めた。
瑠璃の瞳が揺れ、
その横顔に、かすかな影が落ちる。
その表情を見た瞬間、
イエレナの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
(……今のは、違う……セスのせいじゃない……)
言葉にできない焦りが喉につかえた、そのとき。
セレストは苦しそうに眉を寄せ、
それでも、できる限りやわらかく微笑んでみせる。
「……ごめんね、触るよ」
許しを請うような、静かな声だった。
ふわりと額に添えられた手。
触れた瞬間、セレストの表情が深く曇る。
「……これは…イェナ、辛かったね…」
悔しそうに息を飲む。
自分の判断の遅さを責めるような、その横顔。
「アウル、宮廷医を」
後ろに控えていたアウルへ短く指示を飛ばし、
すぐにイエレナへ視線を戻す。
「……立てる?」
弱く首を振ると、
セレストは小さく息を吐いて、囁いた。
「……少し我慢して」
その声と同時に、身体がふわりと浮く。
思わず胸元にしがみついた瞬間、セレストの動きが一瞬だけ止まった。
けれどすぐに、何も言わず抱き上げ、
そっと寝台へ横たえられる。
毛布を丁寧に掛け、枕元を整え、
覆いかぶさるように、顔が近づく。
「宮廷医が来るまで、少しでも休んで。……何か食べられそう?」
優しい声。
けれど、その表情は硬く、どこか自分を責めているようだった。
「……いらな、い……」
弱く首を横に振ると、
「……わかった。後で、何か食べられるように準備しておくよ」
そう答える声も、わずかに揺れている。
ちょうどそのとき、アウルが駆け戻ってきた。
「宮廷医、午後には来られるそうです」
「……わかった。後は頼んだよ」
短く告げると、セレストは身を翻す。
その背が離れていく――
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
(……待って……)
思わず手を伸ばす。
けれど、指先は空を掴むだけ。
「……セス……?」
喉が熱に焼けて、声にならない。
セレストは気づかないまま、
そのまま部屋を後にする。
寝台の上で、揺れる意識を抱えながら、
イエレナは去っていく背中を、ただ見つめていた。
胸に残ったのは、
温もりの名残と――
それが失われていく、静かな寂しさだけだった。
◇ ◇ ◇
【セレストside】
廊下の曲がり角を過ぎ、
人の気配が完全に消えたのを確かめてから、
セレストはそっと壁に背を預けた。
外套に残る冷えよりも、
胸の奥のほうが、ずっと冷たい。
(……昨日の僕は、何をしているんだ)
弱っていたイエレナに距離を詰め、
唇に触れ、
「婚約しているから」と――
自分の衝動を、正当化した。
守るための言葉じゃなかった。
ただ欲を、彼女の優しさに押しつけただけだ。
「……あの時、拒絶はされなかった」
その事実が、かえって心を揺らし、
自分のブレーキを遅らせた。
頭を壁に預け、浅く息を吐く。
――守るつもりで、あれをしたのか?
「……守るつもりでいて、あんなことをして……意味がない」
自嘲気味に零れた声は、ひどく弱かった。
彼女が熱で震えていたと分かっても、
その小さな反応を、思わず“拒絶”だと受け取ってしまった。
「……イェナに、怖い思いをさせるくらいなら……」
そこまで言って、言葉が喉の奥でつかえる。
本当は、この先に続く言葉があった。
――離れる覚悟だ。
でも、それを口にする勇気が出なかった。
(……離れたほうが、いいのかもしれない)
そう思った瞬間、
胸が、きつく締めつけられる。
距離を置きたいわけじゃない。
触れたい。抱きしめたい。
名前を呼んでほしい――
そんな願いが、昨日からずっと消えない。
けれど。
彼女が震えた、あの一瞬を思い出すたび、
その願いはすべて、罪のように胸を刺した。
ゆっくりと目を閉じる。
指先が、また微かに震える。
(僕のせいで、不安にさせた)
彼女は、ただ苦しかっただけなのに。
それを理解していながら、
それでも自分の中で
「拒まれた」と思ってしまった――
その弱さが、
どうしようもなく、嫌だった。
「……本当に、僕は……」
独りごとのような声が、
冷たい廊下に溶けて消える。
守りたい。
それなのに、傷つけてしまった。
――守りたい気持ちと、
抱きしめたい衝動の境界線が、
あの日を境に、曖昧になってしまった。
制御できない、この感情が。
(……今の僕じゃ、彼女を不安にさせるだけだ)
そう思うほどに、胸が痛む。
ゆっくりと目を開け、深く息を吐く。
その吐息に混じったのは、
自分でも気づかぬほど小さく、弱い――
「……イェナに、嫌われたくない」
という、切実な本音だった。
物語の合間を綴った短編もございます。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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