第14話 曖昧な境界線
軒先に並んで、イエレナとリリュエルは雨音を聞いていた。
降り始めはぽつぽつと控えめだった雫も、いつの間にか本降りに変わり、
石畳に落ちた水滴が、ぽちゃん、ぽちゃんと小さな波紋を広げていく。
「思ったより降っちゃったね」
イエレナはそっと額の髪を払った。
買い物袋は胸に抱えているものの、外套の裾は少し湿っている。
「なかなか止まないね~。早くパン食べたいのに~」
頬をふくらませるリリュエルに、イエレナは小さく笑った。
「ふふっ。帰ったらすぐ食べようね」
そんな他愛のないやり取りを交わした、そのとき――
「イェナ」
背中に落ちてきた声に、イエレナは思わず肩を揺らして振り返った。
霧のような雨の帳の向こう。
銀白の髪を隠さずに外套を羽織ったセレストが、こちらを見つける。
――次の瞬間、
外套の裾を揺らしながら、小走りで駆けてきた。
雨粒が髪に弾き、
差し出された傘の下から覗く瑠璃色の瞳が、まっすぐイエレナを捉えている。
「こんなところにいた」
息が切れるほどではない。
けれど、ほんの少し早まった呼吸が、
彼が急いで来たことを、何より雄弁に語っていた。
歩みはいつも静かなはずなのに。
それでも彼が近づくにつれ、胸の奥が不思議と落ち着いていく。
――迷わなくても、探さなくても。
この人だと、すぐにわかる。
「……セス」
名前を呼ぶより早く、
彼はそっと距離を詰め、イエレナの頭上へ傘を差し出した。
「雨が降りそうだったから」
近づいた分だけ、
瑠璃色の瞳がやわらかくほどける。
「気になって、様子を見に来たんだ」
あまりにも自然なその言葉。
まるで――迎えに来るのが当然だと言うみたいで。
その“当たり前”が、
胸の奥に、じんわりと温かな灯を落とした。
「……ありがとう、セス」
嬉しさを含んだ声は、
自分でも驚くほど、素直にこぼれていた。
――と、その空気を壊すように。
「ふふーん、やっぱり来ると思った!」
肩の上でリリュエルが得意げにくるくると宙を舞う。
「セスが来たから、ぬれずに帰れるね!」
「うん、本当だね……」
イエレナが笑うと、リリュエルも嬉しそうに跳ねる。
「セス、ありがとう!」
「セス、ありがとうだね!」
わざと調子を合わせるように言うと、
セレストは一瞬きょとんと目を瞬かせ、すぐに口元をゆっくりゆがめた。
その笑みは、やけに甘くて、少しだけ意地悪で――
「……へぇ。からかうんだ?」
「えっ、べ、べつにそんなつもりは──」
言い訳を口にするより早く、
セレストが一歩踏み込み、そっとイエレナの手を取る。
「──っ!? ちょ、セス!?」
気づけば、傘の内側へぐいっと引き寄せられていた。
肩が触れる。腕が触れる。繋がれた手はそのまま。
近い、近い、近い……!
息が止まりそう。胸が跳ねすぎて苦しい。
「……じゃあ、帰ろうか」
耳元に落ちてくる低い声に、
イエレナの心臓が跳ね上がる。
そのままセレストは、繋いだ手をくいっと持ち上げ、
自分の頬の近くへそっと寄せた。
「……っ!」
視界いっぱいに映るセレストの横顔。
そのすぐ手前では、自分の指先が震えている。
……っ、わ、わざとだ。
なんでそんな顔で、そんな近さで――見つめてくるの……!
「あ〜イェナ、顔まっか〜!」
どこか楽しげなリリュエルの声が、遠くから聞こえてくる。
セレストは何も言わず、ただじっとイエレナの反応を見つめて――
ふっと、目尻をやわらかくゆるめた。
優しくて、どこか満足げなその表情に、
胸の奥を、きゅうっと甘く掻き乱してくる。
指先に伝わる体温。
絡められた手は、最後まで――離されることはなかった。
雨はまだ、静かに降り続いていたけれど。
その音よりもずっと強く、はっきりと――
繋がれた手の温もりだけが、
心に深く、残り続けていた。
◇ ◇ ◇
玄関の扉が開いた瞬間、
冷たく湿った空気が一気に室内へ流れ込んだ。
しとしとと音を立てていた雨は、扉の向こうでまだ止む気配もない。
「ギウン、拭くものを」
濡れた銀髪を手の甲で払いつつ告げるセレストの声は、
いつもよりほんの少しだけ低く、落ち着いていた。
「殿下っ!」
奥から駆け寄ってきたギウンが、私たちの姿を目にして思わず声を上げる。
その後ろから現れたアウルも、同じように目を丸くした。
「わ、わっ……びしょ濡れじゃないですか! 傘は……?」
「……風に煽られてね」
セレストの言葉に合わせるように、
イエレナは手にしていた――もはや骨組みだけになった傘を、少し持ち上げてみせる。
ぽたり、と。
雫が玄関の床に落ち、静かな音を立てた。
「ひどい雨だった〜! ボク、羽がぐしょぐしょ〜!」
肩の上で、リリュエルがぶるぶると羽を震わせる。
飛び散った水しぶきが、私の頬にまでかかった。
「ちょ、リリュエル……!」
「ボク、乾かしてくるねっ!」
そう言うや否や、リリュエルはきらきらと光の粒を散らしながら、
屋敷の奥へと飛び去っていった。
賑やかな気配が遠ざかるのと同時に、
アウルははっとしたように踵を返す。
「す、すぐにお風呂を沸かします!
ギウン、タオルをっ!」
「はい、こちら!」
ギウンが分厚いタオルを二枚抱えて戻ってくる。
一枚をセレストへ、もう一枚をイエレナへ差し出した。
「着替えも、すぐにご用意します……!」
慌ただしく響く声を背に、
イエレナはタオルを受け取って小さく頭を下げる。
けれど――
雨に冷やされた体は思った以上に冷えきっていて、
指先はまだ、言うことをきかないほど強張っていた。
その様子に気づいたのだろう。
ふいに、セレストの視線がこちらへ向けられる。
「……貸して?」
柔らかく、けれど迷いのない声。
拒む間もなく、差し出しかけたタオルがそっと彼の手に取られた。
次の瞬間――
ふわりと、温もりを含んだ布がイエレナの頭に触れる。
「……っ」
思わず息を詰める。
その手つきは驚くほど優しくて、
まるで壊れものに触れるみたいに、タオル越しに髪を撫でていく。
水気を逃がすように、丁寧に。
「濡れたままだと……風邪をひいちゃうからね」
低く落ち着いた声が、すぐ近くで響く。
頭を包む布の温もりと、
その手の気配が、冷えた体の奥までじんわりと染み込んでいった。
タオルが揺れるたび、
指先が髪に触れるたび――
落ちていく水滴よりも早く、胸の奥が、きゅ、と締めつけられる。
どれくらい、そうしてくれていたのだろう。
ふいに、空気が変わった。
近い。
息づかいも、指先の温度も――
触れていないはずなのに、触れ合っているみたいな距離。
そっと目を開けると、
セレストの顔が、ほんの数センチ先にあった。
「っ……」
あまりにも近くて、
視線が絡んだ瞬間、呼吸が喉に引っかかる。
慌てて視線を逸らすと、
セレストは小さく笑い――ほんの少しだけ、顔を寄せた。
「……イェナ、今すごく無防備だね」
囁く声が、耳の奥をやさしく揺らす。
「気づいてないのかもしれないけど……」
言葉の意味を考えるより先に――
セレストの指先が、そっとイエレナの唇に触れた。
「——っ!」
「……っ」
逃げなきゃ、と思うのに。
怖くはなくて、
胸の奥が熱くて、苦しいほどで。
ゆっくりと離れていく指先が、
触れた場所に、淡い余韻だけを残していく。
そして――
静かに、確かめるように落とされた声。
「正式な婚約は結んでるから……」
ほんの一拍、間を置いて。
「――こういうことも、許されてるんだよ?」
耳元で落とされたその声は、
ゆっくりと胸の奥へ沈み込むように響いた。
頭では、意味を理解している。
立場も、関係も、すべて。
それなのに――
心臓だけが勝手に跳ねて、
触れられた唇の余韻は、まだ熱を残したままだった。
「……っ、したいの?」
自分でも驚くほど自然に、言葉が零れる。
なにを言っているのか、考える前に。
頭の中が、真っ白になる。
セレストの瞳が、わずかに揺れた。
驚きでも、呆れでもない。
抑えていたものが、ほんの少しだけ滲み出るような熱。
「……していい?」
返ってきたのは、静かで、真っ直ぐな問いだった。
命令でも、冗談でもない。
拒める余地を残したまま、それでも逃がさない視線。
その瞳に見つめられると――
逃げ場なんて、どこにもなくて。
胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。
そのときだった。
「姫様! 早く来てくださいっ!
身体が冷えちゃいますよ!」
アウルの声が、張りつめていた静けさを破って飛び込んだ。
世界が、ぱん、と音を立てて
一気に現実へ引き戻される。
「――っ!! い、今行く!」
跳ねるように距離を取ろうとした、その瞬間――
「えっ、姫さん!? 顔、真っ赤じゃないっすか!
……やば、冷えすぎたんですか? 熱出てません?」
タイミング悪く、今度はすぐ背後から
ギウンの声が追いかけてくる。
「だっ、だいじょうぶっ!!」
声が裏返るほど慌てて叫び、
タオルを頭にかぶせたまま、イエレナはその場を逃げ出すように――
お風呂場へ一直線に駆け込んだ。
足音が遠ざかり、
残された空気が、ゆっくりと緩む。
その背後で――
くすくす、と。
呆れたようでいて、
それでいてどこか楽しげな、
セレストの低い笑い声が、
静かに廊下へ溶けていった。
物語の合間を綴った短編もございます。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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