第9話 風のいたずら――小さな来訪者
次の日の朝。
イエレナがゆっくりと瞼を開けると、そこは自室のベッドの上だった。
掛け布団の上には――見覚えのある深瑠璃色の上着がそっと置かれている。
指先で触れた途端、
ふわりとセレストの魔力の余韻が、まだそこに残っていた。
(……ここまで、運んでくれたの?)
胸の奥に、申し訳なさと照れが同時に広がる。
(……セスに、悪いことしたな……)
頬をほんのり染めながら身支度を整え、
意を決してダイニングへ向かった。
扉を開けた瞬間――
窓から差し込む朝の光の中、
セレストが紅茶を片手に書類へ目を落としていた。
夜とは違う、静かな集中の気配。
その横顔に声をかけようとした――まさにそのとき。
ぱちり、と視界を横切る小さな光。
よく見ると、それは庭で見かける精霊たちだ。
だが今日に限って、彼らは屋敷の中にまで入り込み、
天井や棚の上をくるくる飛び回っている。
「……ど、どうして……?」
思わず漏れた呟きに、セレストが気づいて顔を上げた。
瑠璃の瞳がふわりと和らぎ、
穏やかな微笑みが花のように浮かぶ。
「……イェナ、おはよう」
「あっ……セス、おはよう……」
言い返してから、一拍遅れて昨夜の記憶が胸に甦り――
イエレナは視線を揺らしながら、小さく続けた。
「……昨日は、ごめんね?」
セレストは驚いたように瞬き、すぐに首を横に振る。
「謝る必要なんてないよ。
……ぐっすり眠れたみたいで、安心した」
あまりにも柔らかい声音に、
イエレナの胸の奥がじんわり熱を帯びた。
「……ありがとう、セス。」
素直にこぼれた一言。
それを聞いたセレストの瞳が、かすかに緩んで――
微笑みは、さらに深く、優しくなった。
精霊たちは、そんな二人のあいだを
舞うようにゆっくり通り抜けていく。
その光景はまるで――
ふたりの距離がまたひとつ近づいたことを
祝福するかのようだった。
◇ ◇ ◇
朝食を済ませたあと、イエレナは庭へ出た。
澄んだ風が頬を撫で、草木の香りがふわりと漂う。
けれど――その瞬間、背筋がぞくりと震えた。
(……今の風、なに?)
ただの風ではない。
胸の奥にそっと触れてくるような、
どこか懐かしい感覚を伴っている。
イエレナは思わず振り返った。
すると――耳をかすめるように、
かすかな音が響いた。
笑い声のようで、
鈴の音のようで、
霧の向こうから手招きされるような不思議な響き。
「……誰?」
小さく呟いた瞬間、空気がふわりと揺れた。
風が一点に集まるように渦を描き、
日差しがきらきらと乱反射する。
その中心で、光の粒がひとつ――
ぱち、と弾けた。
イエレナは思わず目を見開く。
光の粒はそのまま形を変え、
小さな翅を生やし、ふわりと宙に浮いた。
――まるで、絵本に描かれる妖精のような。
けれど、その存在は決して“幻想”ではなかった。
薄紫の髪が風に揺れ、
金色の瞳がきらりと輝く。
身長は十五センチほど。
透けるような羽根をぱたぱた揺らして、
イエレナのほうへ小さく傾いた。
「やっと見つけた! 君が噂の“祝福者”か!」
高く澄んだ声が風に乗って届いた。
小さな身体が宙を舞い、嬉しそうにくるくる回る。
イエレナは思わず目を瞬かせた。
まるで幻のよう――けれど、確かに“そこにいる”。
「……こ、こんにちは……?」
恐る恐る声をかけると、精霊はぱちんっと目を見開いた。
「えっ!? ボクのこと、ほんとに見えてるのっ!?」
金色の瞳がまん丸にひらき、
慌てふためくように宙で跳ね回る。
羽ばたくたびに、光の粒がぱらぱら弾けて、
足元の草花が淡い輝きを帯びた。
「じゃあっ!さっき葉っぱの裏で羽根乾かしてたのも、
台所の蜜菓子なめてたのも……全部見えてた!?」
「い、いえ……それは、見てない……」
イエレナが戸惑いながら首を振ると、
精霊は胸を撫で下ろしてふうっと息をつく。
「……よかったぁ~!」
胸をなでおろしたのも束の間、
次の瞬間、ぱあっと表情が花みたいに咲いた。
「それで、声は聞こえてるんだ!?」
「うん。ちゃんと、聞こえてるよ」
その返事に、精霊は嬉しさのあまり空中でくるくると一回転した。
ぱたぱた揺れる羽音が風を起こし、イエレナの髪がふわりと揺れる。
「すごい!聞こえてる!ほんとに聞こえてる!
やっぱりキミ、祝福者なんだね!」
歓喜そのままにもう一度回転し、
光の粒をぱらぱらと撒き散らす。
「ボクはリリュエル! 風の精霊だよ!
祝福者に姿を見せられるのなんて、ほんっと久しぶりなんだ!」
「あ……イエレナです。初めまして」
名乗ると、リリュエルの金色の瞳がさらに輝いた。
「イエレナ!わぁ、名前まで綺麗!
ねぇねぇ、イェナって呼んでいい??」
間近でキラキラ見つめられ、
イエレナは思わず後ずさりしながらも、
「う、うん……」
と、小さく頷いてしまった。
「やったぁ!!イェナよろしくね!
今日からボク、ここに住むから!」
「えっ……す、住むの……?」
戸惑うイエレナの声などお構いなしに、
リリュエルは両手を広げて庭を楽しそうに飛び回る。
羽ばたきのあとに細かな光が舞い落ち、
草花が風をうけて嬉しそうに揺れ、緑がいっそう鮮やかに見えた。
「この風、すっごく気持ちいいんだ!
たぶんね、イェナの祝福が呼んでるんだよ~!」
「しゅ、祝福が……?」
実感のないまま足元の草花を見ると、
葉が生き物みたいにぴんと伸び、花びらがふるふる揺れている。
リリュエルは子犬のようにイエレナのまわりを飛び回り、
何度も何度も名前を呼んだ。
「イェナ!イェナ!イェナ~~っ!!」
あまりの勢いに戸惑いながらも――
気づけばイエレナの頬には、ふわりと柔らかい笑みが浮かんでいた。
(……なんだか、かわいい……)
風と光の小さな精霊との出会いは、
思いがけず――やさしい温度を胸に落としていた。
物語の合間を綴った短編もございます。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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