21 論議
更鼓が鳴った。許の街は夜を抱えたまま、司空府の一室だけが紙の擦れる音と筆の走る音を止めなかった。几上には書簡が幾重にも積まれ、灯火は白く紙面を洗っている。報は北から南から、野の匂いを帯びて押し寄せていた。曹操は筆を置き、指でこめかみを押さえる。糸のような痛みが脈に合わせて締めつけてくる。
「曹公」
荀彧が声をかけた。痩せた指が書簡の端をそっと押さえる。
「少し目を休めては。灯をひとつ落としましょう」
「灯を落としたところで、報が減るわけではない」
曹操はかすかに笑い、また書簡へ目を落とした。背後には夏侯惇が無言で立ち、片目の下の古傷が灯に淡く浮く。許褚は柱の影に控え、大きな胸が静かな呼吸で上下していた。部屋の空気は張りつめ、夜気の冷たさだけが細く出入りしている。
曹操はもう一度額を押さえ、短く言った。
「医を呼べ。いや、仲景を呼べ」
使いが走った。更鼓の余韻が廊に流れ、遠い履の音が石に散る。
やがて戸が開き、張機が入った。礼を尽くすと、曹操は椅子の背にもたれ、片方の掌でこめかみを押さえたまま笑みを見せる。
「帝の汗を導いたのを、この目で見た。今度は、司空の頭の痛みだ」
張機はひと目で几の高さと灯の位置、曹操の顔色を量り、袖を正し、手首に指を置いた。
「寒でも熱でもない。労が積み、怒が胸に鬱して上へ昇っています。胸の塞がりをほどけば、頭の火はおのずと引きます」
「労と怒とな」
曹操は息を吐く。
「国を担ぐ者に、避けろと言うのは難しい話だ」
「避けよとは申しません。導けと申し上げます。目をしばし閉じ、息を深く」
曹操は目を閉じた。静けさが降りる。外で夜警の足音が渡り、灯の芯が小さく鳴った。張機は掌を肩甲の下へそっと置き、もう一方の指先でこめかみの鼓みを測る。
「強く押せば悪く、弱く撫でれば散ります。茶を少し、熱は軽く。生姜を一切、薄く」
許褚が一歩出て小椀を受け取り、控えの卓へ運んだ。荀彧はその様子に眉をひそめる。曹操が目を開けた。灯が二つに揺れ、すぐまた一つに戻る。
「仲景」
「はい」
「俺は、国もまた人の身と同じだと見てきた。上下の気が通わねば病を発す。目が濁れば足がつまずき、心が乱れれば手が震える。治国の理と治病の理は同じだ」
張機は即座に首を振らず、わずかな間を置いて静かに返す。
「似てはおります。が、同じではございません。人の身はひとつの命。国は多くの命の集まりです。指を切って頭を保つという論は、身には時に通じましょうが、国には危うい」
曹操の口端に笑みが走った。
「危うい、か。戦場で兵ひとりを惜しんで全軍を危うくすることがある。俺はその危うさを引き受けねばならぬ立場だ」
張機は短く息を継ぐ。
「兵ひとりの病を侮れば、やがて群れが倒れます。粥が一匙足りず、夜半の湯が一杯少なくて、朝に十が倒れる場を見てきました」
荀彧がわずかに目を上げる。曹操は椅子に身を起こし、几の角に指を置いた。
「だからこそ粟を配り、湯の次第を定めるのが俺だ。符に頼る者にも、俺は符を禁じぬ。持つがよいとさえ言う。だが、それで薬を拒むなら叱る。人心は理だけでは動かん。仲景も知っていよう」
張機の眼に、微かな笑みがかすめる。
「承知しております。符は心を静め、心は脈に影を落とします。人心を軽んじれば医は立たない。ですが、符は棚の上に、薬は掌に。順を違えれば、救える命も遠のきます」
曹操は指先で几を二度、軽く叩いた。
「順、か。国にも順がある。麦・兵・法。どれが欠けても立たぬ。時に、麦のために兵を動かし、兵のために法を曲げる。順を違えるのではない。順を入れ替えて全体を持たせるのだ」
張機は肯き、言を継ぐ。
「全体を持たせるために順を入れ替える。それは政の術。医の術は、順を一つずつ合わせて身を整えること。似ているが、違います」
その時、控えで息を殺していた夏侯惇が片目を細め、鋭い視線を送った。荀彧はそれに気づき、静かに目を伏せる。灯が一つはぜ、火は芯を取り直した。曹操が椀を口に含み、目を細める。生姜の香が喉を通り、胸がわずかに広がった。
「仲景。青州の兵を診るお前の姿を思い出す。彼らは強い。だが、ときに群れで心が傾く」
張機はうなずく。
「太平の教えに慰めを得る人々です。火の前に符を置けば落ち着く。落ち着けば体は温み、温みは病を退く。それ自体は悪くありません。ただ、符だけで粥を忘れると、朝には倒れます」
「粥を忘れる、か」
曹操は短く笑い、すぐ真顔に戻る。
「私は彼らの心の置き場を奪わぬようにしている。だが、置き場が符のままでは、遠い野まで進めぬことも知っている」
「ゆえに、符を捨てよとは申さぬのです」
張機は静かに言った。
「帯の内に置き、胸の上へは乗せぬ。薬は口に、粥は腹に、湯は夜半に。この順だけは乱さぬよう」
曹操は椀を卓に置き、片手でこめかみを押しながら問う。
「仲景。お前は個の身を救う。俺は群を進める。どちらも理だ。だが俺は立場ゆえに割らねばならん。時に、痛むところを押してでも進む」
張機は言葉を選んだ。
「押すこと自体は否ではありません。押すなら、息を合わせて押すべきです。息の合わぬ押しは、関節を外します。外れたものは、戦のたびに疼き、雨ごとに腫れる」
曹操の唇に、愉快とも苦いともつかぬ弧が浮かぶ。
「雨の日の古傷、か。国にもあるな。では問おう。国という身の頭痛をどう癒す」
張機は少しだけ目を細めた。
「頭を直に押さえるより、足の冷えを退け、腹の空きを満たし、肩のこわばりをほどきます。すると頭は自ら静まります。国のことを軽々には申せませんが」
「言え」
曹操は掌で促した。
「人の心の置き場を、一つに急いで束ねようとしないこと。置き場は人の数だけあり、それを一度に掴もうとすれば、掌の隙からこぼれ落ちます。こぼれた心は符の裏に隠れ、湯の椀を遠ざける」
「それでも、まとめねば進まぬ時がある」
曹操の声は低いが、よく通る。
「戦の前、戦の後。命の束を束のまま動かす。それが頭の役目だ」
「承知しています」
張機は頭を垂れた。
「だから私の務めは別にあります。束の中の一本一本の息が通っているかを見る者が要る。束ねる手が強ければ強いほど、一本の息は細くなる。細くなる前に、湯と粥を置く者が」
荀彧が顔を上げる。曹操はしばし黙し、窓の外の闇へ視線をやった。
「仲景。お前が群を見て言うのか、個を見て言うのか、時に判じ難い」
「個を見て申しております」
張機は迷いなく答える。
「個の息が集まって群となり、群が道をつくる。個の理を捨てて群の理を立てれば、群はしばらく進めても、足元から崩れます」
曹操は椅子から身を離し、立ち上がった。痛みは幾分か薄れ、こめかみの糸はほどけている。
「お前が群の中の一本を見てくれるなら、俺は群全体を動かす手を強くできる。だが、お前は俺の下には入らぬ」
張機は礼をとった。
「官に在りながらも、私は医の場に留まります。人のそばで、息を確かめ、湯の温を測る。それが私の道です」
曹操は目を細めた。灯がその瞳に二つ揺れ、やがて一つに収まる。
「惜しい男だ」
その言は、帝の御前で洩らした言の、さらに奥から出た。荀彧は静かに頭を垂れ、許褚が歩み出て小椀を受け取り、卓へ戻す。
「だが、お前の道は確かだ」
曹操はわずかに笑み、夜半の湯の刻を改めよと荀彧に命じた。
「灯はひとつ落とせ。奏案は明日でいい」
「承知しました」
荀彧の声は落ち着いていた。
張機は医箱の留め金を確かめ、深く礼をして退いた。回廊の夜気は鋭く、息は白く立つ。足音が石に吸われ、遠くで鼓がひとつ鳴った。歩きながら胸中で言を整える。個の息、群の歩。どちらも誤りではない。違うのは務めと置き場。
役舎に戻ると、張機は書簡をひらき、短く記した。
『頭痛。労怒の積。息を導き、熱は軽く。夜半に湯。政は群を束ね、医は息を保つ。順、違うべからず。』
墨が書簡に沁み、灯が細く揺れた。この夜に交わした理は、やがて遠い戦の前に、互いの胸でふたたび疼くであろう。河に霧の立つ朝、篝火の煙の向こうで、誰かが今日の言を思い出す。その時どこで何が欠け、何が満たされていたのか。答えはまだ湯気の中に隠れている。




