19 信仰
許の北門を出ると、風は氷の刃のようであった。堀の水は半ば凍り、橋板には霜が張り、踏むたびに細かな音を立てる。往来には人夫が材木を担ぎ、女は薪を抱え、流民は菜の切れ端を求めて市の端を歩く。声はどれも短く、甲の音だけが鋭く耳に刺さった。
張機は吏舎で札を確かめ、北郊の兵営へ向かった。今日の務めは青州兵の巡診である。青州兵はもとは黄巾の残り火、飢えと死をくぐって曹操の旗下に入った者たちであった。人は極に追われると、口にする言葉が祈りへ変わる。彼らは生き延びるために祈りを覚え、仲間を失って祈りを強くした。火の側では符が焼かれ、水に灰が溶かされ、病者はそれを口に含んで天に唱えると聞く。張機の胸には、その噂をただ迷信として片づけきれぬものがあった。脈の早さに並んで、怖れもまた人を傷つける。
野は白く低く、枯蘆が風に打たれて身を伏せている。土塁の内には旗が少なくはためき、粗末な柵の内側にはいくつもの焚火が点々と並んでいた。近づくにつれ、焦げた黍餅と湿った革の匂いが鼻をかすめ、外れの一隅では布の上に符を並べる男が声を張っている。
「天にすがれ、災いは退く」
「黄の符は身を守る。寒と疫を遠ざける」
声は切実で、誰も笑ってはいない。切実な声ほど、野ではよく通る。兵営の入口で、番兵が槍を横にした。
「医師殿、話は聞いております。青州の連中は気が荒い。お気を付けなされ」
張機は小さく会釈する。
「荒い者ほど、身の痛みは隠せぬ。まずは脈を見よう」
番兵は口元を緩め、柵を開いた。焚火の輪の中、濁った椀に灰が渦を巻き、兵らはそれを口に含んでは額を叩いている。寒さに抗う熱の輪が、祈りの輪にも重なっていた。
「天よ、我らを守れ」
「この水で熱を退け」
張機は輪に入り、ひとりの若い兵に目を留めた。頬は紅く、眼は乾き、脈は速い。咳をこらえ、脇を押さえてうずくまっている。仲間が符水の椀を押し当てた。
「飲め。これで楽になる」
張機は手を伸ばし、椀をそっと押し返す。
「待て。胸に熱がこもっている。水では退かぬ」
若い兵は不安げに眼を上げた。
「天に祈らねば助からぬと、郷里の長に教えられました」
張機は静かに言う。
「天に祈ることは心を支える。だが熱を退けるのは草の力だ。祈りは胸に置いてよい。今は草を口にしなさい」
張機は医箱を開き、乾姜と半夏を少し、陳皮をひとつまみ、黄連をわずかに取り出した。秤で重みを確かめ、火にかけた鍋へ落とす。湯が色を変え、香りが立つ。兵たちは目を細め、ざわついた。
「苦いだけだ」
「こんなものが効くのか」
張機は煎じ薬を椀に注ぎ、息を吹いて熱をやわらげ、兵の口元へ運んだ。少しずつ飲ませると、額に汗が浅く浮かび、肩から力が抜ける。呼吸は落ち着き、脈は幾分ゆるんだ。仲間が声をひそめる。
「符も使わずに」
「草だけで」
張機は答えず、指先で兵の眼の湿りと舌の色を確かめた。眼は先刻の乾きを離れ、舌は血の色を取り戻している。椀を置くころ、若い兵は自ら帯の内側から紙片を取り出し、胸に軽く当てた。
「天は胸に置いておく。草は飲む」
張機は小さくうなずいた。
「それでよい。心は胸に、草は腹に」
焚火の上に湯気が重なり、輪の空気が一息だけ和らぐ。そこへ、柵の外から甲の列が近づき、土塁の上の旗がいっせいに伏した。兵らは姿勢を正し、輪は凍るように静まる。黒い氅を肩にかけた将が馬首を進め、焚火を遠目に一望した。
司空・曹公、すなわち曹操孟徳。献帝を許に奉じ、実権を握る男。その眼は兵も符も一度に射抜いていた。
曹操は馬上から群れを見渡し、符を握る手と、椀を持つ手とを順に追う。
「符か。持っていたければ持っていろ。心を慰めるならそれもよい。だが、それで熱は下がらぬ。飢えも退かぬ。兵を支えるのは草と粥だ」
兵の中から小さなざわめきが起こり、一人が椀を押し返した。曹操は鋭く指を伸ばす。
「お前、立て」
兵は顔を伏せたまま動かぬ。曹操は声を強めた。
「蒼白だな。符を握っても震えは止まらぬ。だが粥を口にすれば声が出る。声が出れば伍は揃う」
兵は観念したように椀を受け取り、すすった。輪の端から小さな安堵が広がる。曹操はその揺れを押さえるように、視線を張機へ戻した。
「お前は個を救う。俺は群を動かす。だが群も一人の集まりにすぎぬ。だからお前の筆録は必要だ。今日の草、明日の恐れを記せ。十年後、百年後、理は旗にも勝る」
張機は深く頭を垂れる。曹操は再び兵に向き直り、馬上から声を張った。
「符を胸に押さえるのは勝手だ。だが草を拒むな。腹を満たし、声を揃えよ。軍は声で立ち、声で進む」
兵たちは互いに顔を見合わせ、符を胸に押さえつつ椀を取り始めた。焚火の周囲にどよめきが広がり、湯気の向こうに秩序が形を取り戻していく。曹操はそれを見届け、最後に張機へ一言残した。
「医師よ、務めを果たせ。俺は務めを果たす」
黒い氅が風に翻り、甲の列が土塁の外へ去っていった。
やがて、輪の中に人の温みが戻った。先ほどの若い兵が毛布を肩に掛け、椀を両手で抱えながら近づく。
「医師どの、俺は符を捨てられぬ。だが、草も飲む。両方あってようやく前に出られる」
張機はうなずいた。
「人は二つで歩く。足と足、心と身。片方だけでは倒れる」
年配の兵が口を挟む。
「符が湿るのが怖い。濡れた符は破ける」
張機は符を指で示し、焚火と湯気から距離をとる場所を教えた。
「符が濡れれば心も弱る。棚を作れ。風の回りが弱い場所だ。火からも湯気からも遠くに」
脇で符売りの男が黙って聞き、立ち上がる。
「棚は私が拵える。符は任せろ。喉ばかり使って生きてきたが、手も使える」
正午を少し過ぎると、薄い雲が裂け、旗に冷たい陽が落ちた。日差しは弱いが、火の輪に集う背を押すには足りる。張機は兵の間を歩き、脈をとり、舌を見、眼を覗いた。咳の者には喉を潤す草を、腹の冷えた者には火を遠ざけるよう言い、傷の浅い者には麻布を薄く巻かせる。言は短く、手は早い。兵は最初こそ眼を光らせたが、やがて口数を減らし、動きは素直になった。椀が回るほど、余計な声は鎮まってゆく。
夜が深まると、書吏が帳を抱えてやってきた。焚火の明かりで目を細め、筆を支える指がかじかんでいる。
「先生、記すべきことを」
張機は板の上に帳を広げ、簡潔に言った。
「症、草、火の加減。祈る声、恐れる声、笑う声。符の乾き。椀の数。棚の位置。旗と鼓の合図。兵の表情の変わり目」
書吏は目を瞬き、筆を走らせた。
「ずいぶん多い」
「理は見えぬ。見えぬものを、見える印に置き換えるのだ」
遠い方角で鼓が鳴り、二度、三度、間を置いて鳴り、兵の目が緊張した。張機は鍋の火を少し弱め、湯の表を静める。
「騒ぐな。湯は驚くと味が変わる」
兵の口元に小さな笑いが戻った。鼓はやがて遠のき、風の中へ入る。
夜半が近づくと、土塁の陰影はさらに濃くなり、星は針のように冷たく光った。火の輪の外で、孤独な足音が一つ二つ、行き過ぎる。符売りの男は棚の前で紙を指で弾き、乾きを確かめていた。
「喉は休んだか」
張機が声をかけると、男はうなずいた。
「休んだ。火があれば、喉は静かになる」
男が張機に向かって深く礼をする。
「明朝、棚をもう一つ。符が足りぬと、人の心がまた揺れる」
「よい手だ。棚があれば、声は落ち着く」
書吏が帳を持って戻った。
「先生、仕上げます」
張機は膝の上で帳を受け、行間を確かめるように目を通した。文字は揺れず、必要だけが並んでいる。
「最後に輪を記せ」
書吏は小さく笑いながら筆先を置いた。
「輪、とは」
「人が寄って生まれる丸だ。火が真ん中にあり、椀が回り、声が柔らぐ。その丸が一つあれば、寒さは薄くなる」
明け方が近づくにつれ、東の空の黒はわずかに薄くなり、淡い光が滲んだ。交代の兵が肩を回し、槍の穂先が白く光る。張機は鍋の湯を一度強く沸かし、残った草を慎ましく取り分けた。朝の冷えは夜の冷えと違い、骨の内へ静かに入る。湯は骨に先回りして道をつける。
「朝は湯を先に。草は少なめ、火は強め」
兵がうなずき、椀が順に渡った。
鼓がひとつ鳴り、朝の交代が始まる。柵の外では荷車の音が増え、凍った轍に車輪が固い跡を刻む。棚の下には椀が逆さに三つ、良く乾いて並び、棚の上では符が湿りを離れて軽く揺れていた。輪の内では声が低く、昨日よりもいくらか柔らかい。
張機は吏舎へ戻る道を歩いた。空は白く、畑の霜が一息だけ光る。門の影は長く、屋根の煙は細い。守門の兵が槍を引き、印の札を求める。張機は懐から奏案を出し、書吏に渡した。
「症、草、火、湯、布、声、紙、椀、棚、輪。十だな」
書吏は笑いを堪え、筆を取る。
「十もあれば、明日の準備が整います」
「数は明日を呼ぶ。言は今日を忘れさせぬ」
吏舎の一室に入ると、夜の冷えがまだ壁に残っていた。几上に灯を置き、帳を開く。筆先は柔らかく、墨は静かに書簡へ吸い込まれた。張機は文字を置く。
『青州兵の営。祈り強し。符は胸に置いて心を慰む。草は腹に入れて身を癒す。兵は形を欲す。形は恐れをやわらげ、前へ踏み出させる。理は見えぬ。見えぬ理を見える印へ移し、印を借りて理を運ぶべし。火を輪に、椀を一つに、符は棚へ。旗と鼓は声をそろえ、人を散らせぬ。』
筆を置くと、窓の外で風が走り、帷が小さく鳴った。張機は灯を細め、医箱の留め金を確かめて扉を開く。外気はまだ鋭かったが、胸の奥には昨夜の火が残っていた。理は見えぬが、湯気は見える。湯気に理を乗せ、輪の中へ運べば、身はそれを受け入れる。そう信じて、今日もまた歩み出すよりほかはない。




