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13 銭医

 汝南の春は、土の匂いを失っていた。畦は割れ、風は灰を運び、井戸の水さえ痩せている。その村に、医師がいた。薬籠は豊かで、舌の厳しい医師だ。


 「診はする。先に銭だ」


 そう言って欠けた銅銭を盆に落とす音を、病の訴えよりも先に数える。


 「理は誰にでも平等ではない。金なき者に薬を分ければ、理が損なわれる」


 彼は静かにそう言い放ち、貧しき者の床から背を向けることを恥じなかった。ある母が幼子を胸に抱いて、医の裾を掴む。


 「この子が……夜となく昼となく熱を繰り返し、汗が出たり止まったり」


 母の懐から出るのは、こすれて薄くなった銅銭が数枚。医はそれを掌で撫で、乾いた笑いを一つ。


 「足らぬ」


 そして、盆に弾き返す。その様子を村人は遠巻きに見ていた。


 「ここは汝南、名門も役も近くにある。揉め事は御免だ」


 ちょうどその折である。旅塵の外衣、肩に薬箱、まなじりに疲れと静けさを宿す若き男が辻へ現れた。張機である。


 彼は母子の前に膝を折ると、幼子の手首に指を添えた。脈は浮き、速いが、芯は絶えていない。胸に耳を寄せれば、息は短く、熱は浅く出入りしている。額に手を当てると、汗は細かく、肌は乾きかけてはまた湿る。


 「陰陽が争い、肌の門が定まらぬ」


 張機は低く言った。


 「衣を重ねてはいけない。汗は出すが、寒は招くな。濡れた布は替えること」


 母はうなずき、震える手で布を持ち直す。傍らの医が、鼻先で笑った。


 「見立ては悪くない。だが、薬を惜しむほどの者に、薬理は無駄だ。温めと粥で治るなら医は要らぬ。銭のない者は運が尽いたと知れ」


 声は抑えていたが、眼は冷たい。張機は答えず、薬箱の包みを解いた。桂枝、芍薬、生姜、甘草、大棗たいそう。乾いた香が立ちのぼり、母の肩の震えが少し収まった。


 「麻黄は要らぬな。強すぎる。桂枝で和し、汗を調える」


 古鍋を借り、井戸の水を張る。水は浅い。


 「一度沈めて、澄むのを待て」


 枯枝を折り、火を起こす。煮え立たせず、湯気の向きを掌で読む。


 「急くな。静かに気を引き出す」


 やがて椀に移し、唇を冷ましながら滴らせる。幼子の喉がごくりと鳴った。ほどなく額に細かな汗が浮き、肩のこわばりが解けた。母が押し殺した声をもらし、子の髪を撫でた。


 傍の医は、黙って見ていた。やがて、冷たい声で言う。


 「今は鎮まったように見える。だが、根は深い。銭がないなら、結局ここで尽きる」


 張機は首を横に振った。


 「根を断つは薬だけではない。看と食だ」


 彼は言葉を継ぐ。


 「汗が過ぎれば拭い、乾いた布を薄く掛ける。水は少しずつ、粥は薄くして、温のまま。夜半、汗が止まって寒がったら、生姜を加えた湯を少量。強く求めず、弱く絶やすな」


 医は眉をひそめた。


 「理を知るなら、施す先は選べ。薬を惜しまず与えれば、明日も列ができる。銭を持つ者の命を先に繋ぐのが、世の理だ」


 張機は静かに目を上げる。


 「それは世の勝手。医の理は別だ」


 声は荒らさず、ただよく通った。村人が一斉に張機と医とを見比べ、息を呑む音が聞こえる。母の腕の中で、幼子の呼吸が深くなる。医は視線を外し、衣の袖を整えた。


 「好きにするがよい。私は私の診を行う」


 そう言い残し、群れの外へ歩きだした。罵りもなく、敗走でもなく、ただ居座る理を失った者の足取りである。


 やがて日が傾き、風は冷たくなった。張機は床の藁を入れ替え、濡れた布を火の傍で干させる。


 「重ねるな。薄くして、汗を逃がせ」


 母はうなずき、布を裂いて二枚にした。裂け目から糸がほつれ、幼子の口元に笑みがかすかに戻る。


 夜半、幼子はふたたび熱に浮かされた。汗があまりに細かく、呼吸が浅い。張機は脈に指を添え、火を少し落とし、配合をわずかに改めた。桂枝と芍薬をひかえ、甘草を少し増す。


 「求めて走らず、退いて整える」


 椀を口元に傾けると、やがて額の汗が粒になり、息がゆったりと落ちた。見守る母は、掌を合わせた。


 「銭は明日、なんとかします。畑を売ってでも」


 張機は首を振る。


 「銭は要らない。明日は粟を少し手に入れ、薄い粥を。食は薬の根、薬は食の影。二つで一つだ」


 母は言葉を失い、ただ深く頭を下げた。誰かが小声で言った。


 「理は人を選ぶのか」

 「医は選ばぬ」


 張機は短く返し、幼子の額に布を当て直した。


 母子の呼吸が安らぎ、村のざわめきもようやく静まる。夜も更け、火は小さくなっていた。鍋の底におりが沈み、張機はそれを掬って布に包む。


 「無駄にするな。種火は細くとも、次の火を呼ぶ」


 張機は母子の寝息を確かめ、薬箱の紐を締めた。胸の奥に、言葉にならぬ熱がひとつ灯っていた。彼はそれを押しとどめず、低く独り言のように言った。


 「言葉は風に散る。されど書は残る。この理を記せば、銭なき者も、遠き者も、自らの手で命を繋げるやもしれない」


 夜気が幕を揺らし、火の赤がちらつく。張機は静かに息を吐き、目を閉じた。外では星が冴え、村は久しぶりに長い眠りに入っている。


 夜が明けた。霜の降りた畦は白く、村の井戸は薄氷を張っている。母子の小屋からは、弱い泣き声と、それに応える母の子守唄が聞こえた。昨夜のうわごとは消え、幼子の頬には赤みが戻っていた。


 張機は戸口に腰をかけ、薬箱を膝に置く。母が戸を開け、深く頭を下げる。


 「命を繋いでいただきました」


 声はまだ震えていたが、そこには昨日の絶望ではなく、安堵の影があった。張機は首を横に振る。


 「救ったのは粥と布と、母の手だ。薬は道を示したに過ぎぬ」


 幼子の額に手を当て、額の汗を拭った。脈は穏やかで、呼吸も静かであった。


 夜の静けさを越えて朝が来ると、村はまた動き出した。霜を踏む足音とともに、人々は母子の小屋へと集まっていく。村人たちは、遠巻きに様子を窺っていた。昨夜、舌の厳しい医が背を向けて去ったことを、皆覚えている。


 「銭のない者に理はない」


 そう言い放った声は、まだ耳に残っている。ひとりの老人が張機に近寄り、恐る恐る口を開いた。


 「先生、我らは銭を持たぬ。けれど、この村の命はみな、今日明日をどう生きるかに懸かっております。薬を乞うことも出来ぬなら、どうすればよいのですか」


 張機はしばらく黙して、畦の裂け目に目を落とす。


 「土は痩せても、種を残せば芽は出る。命も同じ。理を記せば、誰でも読んで道を探せる」


 老人は目を丸くし、やがて深くうなずいた。


 一方その頃、村の外を行く影があった。昨夜、銭なき者を切り捨てた医は、ひとり街道を歩いていた。彼は理を知っている。薬の配合も、熱の理も。だが銭を選ぶことを恥じてはいなかった。銭なき者を救えば、銭ある者が遠ざかる。それが彼の理であった。


 村人は彼の背を追わず、ただ遠くに小さくなる姿を見送る。やがてその名を口にする者はいなくなった。代わりに残ったのは、母子の静かな寝息と、薬を煎じる香りである。


 こうして村に残ったのは、安らいだ寝息と静かな焔であった。日が高くなると、人々は自然と張機のもとに集まってきた。昼下がり、張機は村人を集め、小さな火の傍で語った。


 「熱には陰陽の違いがある。汗が出るもの、出ぬもの。見分けを誤れば、薬も毒になる。だが、布の重ね方、水の与え方だけでも、命を救えることがある」


 彼は掌に線を描き、脈の浅深を示す。農夫も老母も耳を傾け、やがて互いにうなずきあった。


 「これを覚えよ。銭を持たずとも、命を守る術はある」


 母は幼子を膝に抱き、張機の言葉を涙を拭いながら聞いている。


 夕刻、村を離れる時、張機は薬箱の紐を固く結んだ。西の空は赤く、畦には冷たい影が伸びている。母子が戸口に立ち、幼子は小さな手を振った。張機は振り返らず、ただ歩を進めた。


 「言葉は風に散る。されど書は残る。この理を記せば、遠き村々も、自ら命を繋ぐことが出来る」


 胸の奥で繰り返し、その思いを刻んだ。その決意は、まだ名もない一巻の書簡に、静かな文字を刻み始めていた。


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