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11 黄巾

 中平元年、霊帝の世も末に近い春であった。


 南陽の空は晴れてなお薄翳うすかげを含み、吹く風は骨に沁み、田にはひびが走る。昨年より続いた旱に、麦の穂は痩せ、粟は実らず、牛馬は肋を浮かせて立ち尽くした。鍬を振るう者はあるが、土は眠ったまま応えず、耕すほどに希望は細ってゆく。


 道には人が倒れていた。息はある。力尽きて、眠る他なくなったのだ。幼子が母の裾を掴んで、腹が鳴ると言えば、母は笑ってみせる。笑うほか術がない。老人は井戸の縁に腰をかけ、欠けた碗に注いだ水をひと啜り口に含み、残りを孫に分けた。水面には灰が浮き、遠くでは野火の煙が細く立つ。


 この頃から、耳に妙なる言葉が入るようになった。


「蒼天すでに死す。黄天まさに立つべし」


 初めは流民の口から、やがては村の若者の口から、とうとう祠の前で声を張り上げる者まで現れた。太平道と称する張角の教え、符を焼いて水に混ぜ、これを病に飲ませれば、たちどころに癒ゆるという。飢えと恐れに押されるほど、民の耳は救いの音にのみ鋭くなる。


 ある村で、ひとりの若い女が小さな器を両手で抱いていた。器の水はかすかに黄色く、焦げた紙の匂いがした。女はそれを幼子の唇に当て、これで楽になると囁く。幼子は熱に浮かされ、瞼を半ば閉じている。側には、すすけた祠。祠の神は黙したまま、紙片の灰だけが風に舞った。


 張機は、その風の中に立っていた。麻の衣に薄い外衣、肩には布の薬箱。彼は井戸を覗き、水を掬って匂いを嗅ぐ。女の傍らに膝を折ると、幼子の手首に指を添え、脈を計った。胸に耳を寄せれば、息は熱く短い。額に触れれば、汗は冷え、肌は乾く。


 「寒と飢えが、内に火を孕ませた」


 張機は静かに言う。女は器を引き寄せ、怯えた眼差しで医師を見た。


 「師は言いました。これを飲めば、たちまち天が病を祓ってくださると」

 「天は人の願いを聞きはしよう。されど、病を下げるは理だ」


 張機は薬箱を開き、包を解いた。麻黄、桂枝、甘草、杏仁。古い鍋に井戸水を張り、枯枝を折って火を起こす。女はためらい、器を抱きしめたまま動かない。


 「符の水は飲ませてもよい。ただし、薬を先にしなさい」


 湯気の向きを掌で読み、沸に合わせて火を弱める。手は迷わぬ。


 薬を煎じ終えると、小椀に移し、冷まし、少しずつ幼子の口へ運ぶ。ひと口、ふた口。幼子の喉がごくりと鳴り、荒かった息が長く落ちた。女の目に涙が満ち、器を抱く手が震える。


 「ほんに、楽になったようで」

 「熱はまた上がる。陽と陰が争っている。ここで眠らせ、汗を待つと良い。汗が出たら、すぐに拭って冷えないようにしなさい。布は重ねすぎるな。水は少しずつ。空腹でも、粥以外は食べさせてはいけない」


 張機は言い置き、立ち上がった。祠の前には、符を焼いた跡が灰となって輪を描き、足跡が幾筋も交わっている。灰を手に取り、さらりと指先から落とす。


 「人は救いを求めて、どこへでも歩く。祠にも、吏舎にも、医にも。歩みが迷えば、命が迷う」


 村は音を立てずに壊れていく。納屋の戸は片蝶番でぶら下がり、鶏の声も絶え、風だけが藁を撫でる。遠くの道には黄布を巻いた一団の影が動き、旗の先がひらめいた。誰かが駆け込み、来るぞと叫ぶ。母は子を抱き、老人は杖を探し、男は何も持たずに立ち尽くす。


 その日、張機は五つの家を回り、七つの脈を取り、三つの鍋に火を入れた。違いは微妙で、その差が命取りとなる。


 「同じ熱でも、これほど違うものか」


 夕刻、村は西日を受けて焼け跡を赤くした。張機は戸口に立ち、女から安堵の笑みを受けた。女は符の器を祠の脇に静かに置いた。もう抱いてはいない。


 「医師さま、明日も来てくださいますか」

 「明日は別の村へ行く。夜に戻ることが出来れば、灯があるうちにもう一度脈を見よう」

 「灯は油も尽きかけております」

 「ならば、月に頼るまで」


 外へ出ると空には薄月。黄巾の旗はまだ遠いが、風の匂いは変わった。鉄と汗と、焦げ。張機は息をひとつ深く入れ、言葉を落とす。


 「戦は、剣で人を斬るばかりではない。飢えが斬り、寒が斬り、病が斬る」


 その思いは、彼の心に静かな火を点した。燃え盛る炎ではない。きの火である。


 夜、祠の影に若い男が二人、符を焼いていた。彼らは張機を見て鼻で笑う。


 「符で治る病を、わざわざ草で治すとは、手間よの」

 「符で治るなら、世に医者はいらぬ」


 張機はそれだけを言って通り過ぎた。言葉を費やすより、脈を取るほうが早い。救いは、ときに沈黙の中にある。


 村はやがて背に遠のいた。道は月に白く、草は冷たい露を宿す。張機は歩きながら、今日触れた幾つもの脈を指先に呼び返す。


 翌朝、南陽の野には黄の旗が翻り、足音が迫った。街道を東より押し寄せるのは黄布の群れである。叫びは地を揺らし、火は屋根を伝って空を染めた。


 村の者は裏手の森へ逃げ込もうとした。待て、待てと老人が杖を引きずるが、誰も振り返らぬ。逃げ惑う声はやて悲鳴に変わり、悲鳴は炎に呑まれた。


 張機は丘の上よりその有様を見ていた。


 「戦は、まず民の喉を奪う」


 炎の中、ひとりの若者が矢を受け、道端に倒れた。血は滲んでいたが、致命ではない。張機は駆け寄り、衣を裂いて傷口を縛り、乾いた薬草を押し当てる。


 「立てるか」


 若者は呻き、張機の腕を掴んだ。


 「生きる道があるのか」

 「生きよ。病にも戦にも、まだ抗う術がある」


 張機は若者を背に負い、火を避けて森の縁まで運ぶ。母子や老父が寄り合い、怪我人がうずくまる。森は呻きで満ち、地は涙で湿った。薬箱の中は心許なく、渡せるは一握り。張機は脈を取り、熱を確かめ、手元の薬を分け与える。


 「誰に先を与えるべきか」


 問いは胸を裂く。泣き叫ぶ母の前で、張機は静かに言う。


 「子にこそ先を」


 老人は微笑み、わしは後でよいと首を振った。


 夜が落ち、森は疲弊の沈黙に沈む。張機は火の残りを囲む人々の脈をとり終えると、灰を掬い、掌に載せては散らした。


 「灰のように、人は散る。しかし残る火はある」


 森を出れば、また別の村が待っていた。そこでは祠を囲む群れが符を焚き、水に混ぜて天の力を乞うている。


 「これを飲めば、病は去る」


 張機が見つめる前で、符水を口にした老父が咳き込み、やがて崩れた。張機は膝を折り、老父の脈を取り、薬包を解く。


 「符水にて病が癒えるなら、この世に医は要らぬ」


 麻黄を刻み、桂枝を混ぜ、甘草を添え、鍋を借り受けた。火を熾し、湯気の立つのを待つ。


 「これこそ符に代わる理の火だ」


 煎じた湯を老父に含ませると、ほどなく胸の動きが整い、顔の赤は和らいだ。人々は息を呑み、互いを見た。


 「鬼神にすがらずとも、病は鎮まるのか」


 張機は答えず、煎じ汁を注ぎ分ける。


 「これは余りだ。弱き者に与えなさい」


 それよりの日々、張機は薬箱を背に村々を巡った。


 「鬼神を恐れるのはよい。けれど病を治すのは医だ」


 幾度も繰り返すその言葉は、やがて人々の口から口へと渡っていく。


 夜の道を歩きながら、張機は今日触れた脈を指先に呼び返す。浮き、沈み、虚、実。それらは乱世の縮図であり、ひとつひとつが命の灯である。森の奥から呻きが聞こえ、駆け寄ると、徴発された農夫が幾人も倒れていた。額は赤く、汗は止まらず、息は荒い。


 「これはただの疲れではない。兵の間に病が広がっている」


 張機は胸に冷たいものを覚えた。炎と剣は人を斬る。だが戦の影に潜む病は、さらに多くの命を奪う。乱世にこそ、医を要す。その思いを抱き、張機は夜空を仰いだ。星は冴え、冷たく輝いていた。



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