第48話
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「小林様、小林様」
制服姿の女性が広い待合室に声を掛ける。その女性は、上に「外来受付」と表記のある受付に座っていた。六十歳くらいの男性が「はい」と小さな声で答えて、椅子から立ち上がって少し足を引きずるようにしてその受付の前に歩いていく。
由貴は膝の上に乗せたショルダーバッグからスマホを取り出して、画面を表示させる。時刻は午前九時五分だった。この白い長椅子に座ってから二十分が過ぎている。待合室には長椅子が三列にわたって並んでおり、その八割がたが埋まっていた。座っているのは見たところ六十歳や七十歳といった老齢の人が多い。中には八十歳を超えているのではないのかという人もいた。若者は、由貴以外には三十代くらいの男性が待合室の隅に居心地が悪そうに座っているだけだった。
由貴はすでに書き終えてある手元の問診票に視線を落とす。
外来受付で診察の申込みを行った際に、この問診票を、「お名前をお呼びするまで、この問診票を書いてお待ち下さい」と受付の女性に人工的な笑顔とともに渡されたのだ。
問診票には住所氏名とともに、症状について書く欄がある。
そこには、四月十七日、四月二十七日の記憶が欠落してしまっていることが簡潔に書かれていた。その記載欄の下には「受診する診療科の選択欄に『◯』を記入してください」という一文とともに、表の中に多くの診療科の名前がずらりと並んでいた。一番左側の「脳神経内科」の欄に「◯」が付いている。
由貴は、K中央病院の待合室にいた。
K中央病院は、由貴の住むK駅から電車とバスを乗り継いで一時間ほどの距離にある総合病院だ。
二十八日の夜、病院に行こうと決めて家に帰ってきた由貴だったが、自身の身に起こった記憶の欠落を病院で診てもらうにあたって、どの診療科に行けばいいのかについての知識は全く持っていなかった。
うつ病などの精神疾患は精神科や心療内科に行けばいいのだろう、くらいは漠然と知ってはいたので、まずは家の近くにある個人経営の心療内科に行ってみようかと考えていた。ただ、うつ病などの精神疾患と今の自分の「記憶の欠落」という症状は少し違う気もする。
家に帰ってからネットで色々調べてみると、認知症は脳が物理的に萎縮してしまう疾患でもあるので、脳神経内科や脳神経外科が該当するようだった。家から通える位置にあるということと、脳神経内科を持っているという条件でもう少し範囲を広げて調べてみると、家から一時間くらいの距離にあって十分通うこともできるK中央病院という総合病院を見つけた。
総合病院であれば脳神経内科以外にも病院内に様々な診療科を持っているので、もし自分の症状が脳神経内科で取り扱うものと違っていたとしても、病院内の適切な診療科を紹介してもらえるだろうという打算もあった。K中央病院のホームページには、紹介状を持っていなければ初診料として七千七百円の費用が別途かかることも書かれていたが、「自分の体に関わることだ。七千七百円をけちっても仕方ない」と考え、由貴はK中央病院に行ってみようと思った。同じK中央病院のホームページで脳神経内科の診療日を調べると、初診は火曜、水曜、木曜、金曜の四日間のみで、時間は八時半から十一時半までとなっている。
由貴はできるだけ早くに病院に行って、自分の身体を診てもらいたかった。
パソコンでスケジュールソフトを開き、自分の仕事のスケジュールを確認する。あいにく明日の火曜日にはクライアントとの打ち合わせが入っていた。さすがに明日、病院に行くのは難しそうだ。それなら次の日はどうだろう、と視線を右側の欄に移す、水曜日は社内の打ち合わせが二つ入っていたが、これは調整すれば日時を変更することができそうだ。由貴は三十八日の水曜日に休みを取って、K中央病院に行くことに決めた。
三十日の朝、由貴は八時前に家を出た。
初診の外来は午前中しか受け付けていなかったし、受付で待たされることも考えられたのでなるべく早めに行こうと思った。もし脳神経内科から別の診療科に行かなければならなくなったとしても、朝早くに病院に行っておけば、別の診療科で診てもらうための時間も確保できるだろうと考えていた。
Y駅で地下鉄を降り、長い階段を登って地上に上がる。
駅のすぐ近くにバスの停留所があって、そこから「K中央病院経由」のバスに乗った。平日の朝のバスは老齢の人が何人か座席に座っているだけで空いていた。由貴も空いている座席に座り、バスに十分ほど揺らされていると、車内に「次は、K中央病院、K中央病院」というアナウンスが流れた。由貴が停車用のボタンを押そうとしたら、他の乗客がそれよりも早く別のボタンを押したのだろう、ビーという音とともにそのボタンが赤く点灯した。
K中央病院のバス停では、バスの中にいたほとんどの乗客がバスを降りていく。由貴は彼らの背中の後ろに付き従い、一番最後にバスを降りた。
バス停のすぐ近くに「K中央病院」と白地に緑色の文字で書かれた案内板が掲げられているゲートのような場所があった。バスを降りた老人たちは黙ってそのゲートの中に吸い込まれていく。おそらくここがK中央病院の入口なのだろう。由貴は再び彼らの背中に付き従い、緑で囲まれた敷地の中へ入っていった。




