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第41話

 

 何か外傷を負ったというわけでもなさそうだ。それなのに自分の中で昨日の記憶だけが欠落している。

 そもそも、同じような症状の人は過去にいないのだろうか。

 もし同じ症状を抱えた人がこの世界のどこかにいるのなら、彼、あるいは彼女について知ることが、自分が陥っているこの状況を説明してくれる一つの手がかりになるのではないのか。この広い世界だ、一人くらいは居る気がした。

 由貴はネットで調べてみようと思った。

 一度このことを考えると、もう居ても立ってもいられなかった。まだ夕食の途中だったが、食べかけの皿と茶碗を作業机の隅に寄せる。代わりに、机の奥に置いてあったプライベート用のノートパソコンを手前に引き寄せた。ディスプレイを開くとモニターが光り、パソコンが起動する。指紋認証用のタブに右手の人差し指を押し当ててログインする。ディスプレイには、背景として設定している無地の青い画面が現れた。そのままウェブブラウザのショートカットをクリックし、ブラウザを立ち上げる。画面にはブラウザの初期画面に設定している某サイトの検索窓が表示された。

 その窓の中にどのような言葉を入れるか。少し考えた末に、由貴の両手は窓の中に次のような文字を打ち込んでいった。

『20代 記憶障害 原因』

 エンターキーを押すと一瞬で検索結果が表示される。由貴はとりあえず、一番先頭に表示されたサイトを開いてみた。サイトのタイトルには「20代でも『数秒前に考えていたことを忘れる』原因は? すぐにできる改善法を紹介します」と書かれていた。サイトの冒頭は、次のような文章で始まっている。


『「物忘れ」と聞くと加齢とともに現れる症状のイメージですが、20代の方でも「物忘れ」することは誰にでもよくあります。気にしなくてもよい物忘れもあるし、ひどい場合は記憶障害の可能性もあるかもしれません』


 下には記憶障害が発生する原因が四つ記載されていた。

 由貴は黙って上から順に目を通していく。

 一つ目は「外傷性健忘」となっていた。

 交通事故やスポーツで頭部に強い衝撃を受けると、新しいことを覚えるのが苦手になったり、時間や人、場所などの認識が難しくなることがみられる。このような記憶障害以外にも、注意障害、遂行機能障害、失読失書といった高次脳機能障害が見られる場合もあるらしい。注意障害とは集中力が低下して、注意が散漫になること、遂行機能障害とは計画を立てることが難しくなること、そして失読失書とは読み書きが障害されることだと説明されていた。

 映画の主人公の男性や、ドキュメンタリー番組で紹介されていた女性はこれに該当するのだろう。由貴自身もこれを疑ったのだけど、少なくとも今の由貴の頭に、原因として疑われる外傷の痕跡は見つけることが出来なかった。それに、今日のことを振り返ってみても特に問題なく一日を過ごしており、十七日の記憶が無い事以外は特に由貴の身に異常は発生していない。やはり違うのだろうか。

 由貴は先を読み進める。

 二つ目の原因は「解離性健忘」となっていた。

 そこには次のように書かれている。


『解離性健忘とは、解離性障害の一つで、過去の経験や感情を思い出せなくなる精神障害です。

 脳の直接的な損傷はなく、心的外傷や精神的ストレスによって引き起こされます。一般的な出来事や社会常識などの記憶は覚えているにもかかわらず、自分が誰か、自分がその時どう思ったかなど、自分に関わる情報が分からなくなる特徴があります。

 特徴的な症状は、特定の期間に関する記憶が「思い出せない」または「部分的にしか残っていない」ということです。解離性健忘は「新しいことを覚えられない」といったタイプの記憶障害ではありません』


 いわゆるトラウマによる記憶の喪失のことだろう。

 これについては由貴も以前に耳にしたことがある。大きな災害や事故に遭ったとき、それがトラウマになってその災害や事故について忘れてしまった人のことを何かで聞いたことがあった。

 しかし由貴には、自分の身にそれに該当するような出来事に心当たりはなかった。まさかミューズへの二回目のプレゼンが大きなストレスになって十四日の記憶が喪失した、ということもないだろう。由貴の目はその下の項目に移る。

 健忘症の三つ目の原因は「薬剤性健忘」と書かれていた。

 どうやら睡眠薬や抗不安薬を服用すると、健忘症を引き起こすことがあるらしい。アルコールと併用した場合はそのリスクが高まるとも書かれている。しかし由貴には現在服用している薬は無かったし、アルコールもここのところ口にしていない。さすがにこれは関係ないだろう。

 次は……。

 由貴はマウスのスクロールを回して、画面を下に移動させる。

 その文字は唐突に由貴の視界の中に飛び込んできた。

 健忘症の四つ目の原因。そこには次のような文字が並んでいた。由貴は無意識のうちに、その文字を声に出して呟く。

「若年性……認知症……」

 その声はひどくかすれていた。



挿絵(By みてみん)


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