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いつか、どこかで君と出会った  作者: 鷺岡 拳太郎
第12章

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40/99

第40話

 

 人間は、このように一日の記憶だけがすっぽりと消えることなんてありえるのだろうか……。

 由貴は自分の箸が完全に止まっていることに気づき、皿の上のじゃがいもをつまんで口にいれる。じゃがいもを咀嚼しながら、思考は先ほどの続きから再び流れ始める。

 自分の記憶に何か重大なことが起こっているのは間違いない気がする。だけどそれが何なのかがどうしても分からない。そんなもどかしさが、由貴の胸の中で蠢いていた。

 人間の記憶……。

 由貴は唐突に、以前見た映画のことを思い出す。

 その映画を見たのは、数年前だった。

 映画の公開はそれよりもっと前だった。公開当時も映画は話題にはなっていたが見る機会もなく、その映画のタイトルだけが由貴の頭の中に残っていた。そして数年前、その映画が某局のロードショーで放映されることを知り、テレビで見た。

 主人公の男は妻を何者かに殺される。そのときに主人公も犯人に襲われ頭部を殴打される。それによって脳にダメージを負ってしまい、新しい記憶を数分しか保持できない記憶障害を患ってしまう。自分の身に何が起こったのかを記憶することができない。そのため彼は脳に外傷を負ってから、失われていく自分の過去を記録するために自分の身に起こった出来事をメモに書くようになる。しかし、その書いた内容のことも数分経つと忘れてしまう。主人公は自分自身が書いた、記憶にないメモを見ながら妻を殺した犯人を追っていく。

 人間の記憶をモチーフにした不思議な映画だった。

 これは映画なのでもちろんフィクションだったのだが、同じような記憶障害を負った女性のことも、以前、ドキュメンタリー番組で見たことがある。彼女も事故で脳に外傷を負い、それ以降、記憶が数分しか保持できなくなった。数分前のことしか覚えていない。それ以前の記憶は、事故に遭う前の記憶だけを残してすぐに闇の中に消えていく。

 その番組を見たときの由貴は、実際にこのような障害が存在するのだということに驚いた。映画の主人公とは違い、ドキュメンタリー番組に映し出されたその女性は、れっきとした一人の人間として存在していた。そのような記憶障害が起こり得るということを一つの現実として考えたとき、由貴はそのことに何か薄ら寒い思いすら抱いていた。記憶とはその人をその人たらしめるものであり、それが失われていく毎日とは、どのような毎日なのだろう。その時の由貴にはその毎日を想像することすらできなかった。

 由貴は夕食を食べることも忘れ、考え続ける。

 目の前の皿に載せられたウインナーとじゃがいもからはすでに湯気は消えており、すっかり冷めてしまっている。

 それでも考えずにはいられなかった。

 もし、自分もあの映画の主人公やドキュメンタリー番組で見た女性のように脳に何らかの外傷を負い、それによって記憶障害が起こっているのだとしたら……。

 四月十七日は、由貴はいつも通り過ごし、いつも通り会社でも働いていたと思われる。もし会社への通勤途中や会社の中で何かしらの事故に遭っているのだとしたら、十七日の夜に松浦に悠長にミューズへのプレゼンについてのメールを送るとも思えない。おそらく、十七日の夜、ライトメディアを退社するまでは自分の身には何も起こらなかった。そして十七日に家に帰った後、例えば浴室で転んで頭を打つなどして脳にダメージを負ってしまい、それで記憶障害が発生した。

 しかしそれだと、以前に見た二人と由貴とでは明らかな違いがある。

 それは、二人は脳に外傷を負い、それによってそれ以降の新しい記憶を数分しか保持できなくなったが、一方で自分は、十七日の夜に脳に外傷を負ったとして、その前の十七日そのものの記憶がなくなったことになる。二人は未来の記憶を失い、由貴は過去の記憶を失っている。もし自分もその二人と同じ症状なのだとしたら、失われるのは事故の前の十七日ではなく、事故の後の十八日、つまり今日の記憶であるはずだ。それなのに、今の由貴の頭に十八日の記憶も明確に残っているし、それに十六日の記憶もはっきりと思い出すことができる。そんな都合よく十七日の記憶だけが失われるなんてことがあるのだろうか。由貴は何か釈然としない思いを抱えながら、目の前のすっかり冷めきった料理を見つめていた。

 いや……まてよ……。

 由貴の頭に一つの仮説が思い浮かぶ。

 もしかしたら、もともとの前提が間違っているのではないか。

 自分の身に事故が起こった日、それが十七日の夜ではなく、十六日の夜だったとしたら……。

 十六日の夜、仕事から帰った後の家で、例えば誤って転んでしまって頭を打ってしまった。しかしその時の由貴はそのことをあまり重大には考えずに、次の日、つまり十七日にいつものように会社に出社した。そのときまでは由貴には何も異常は発生していなかった。しかし実は脳にはダメージを負ってしまっていた。

 映画やドキュメンタリーで見た二人は、新しい記憶を数分しか保持することができなかった。しかし記憶のメカニズムは非常に複雑だと以前聞いたことがある。その「数分」が人によっては「一日」の場合もあるのではないのか。つまり、由貴はそのダメージによって「一日」の記憶しか保持できなくなってしまった。それであれば、十八日になって、十七日の一日の記憶だけを失っていることにも辻褄が合う。十六日の夜に転んで頭を打ったことと一緒に十七日のことも忘れてしまった。

 ただし、この仮説には一つの重要な前提条件がある。

 それは、十六日の夜に由貴が脳にダメージを負ってしまうくらいの外傷を負っているということだ。そのような外傷を負っているのだとしたら、今の由貴の頭にもその痕跡が残っているはずだ。

 由貴は右手に持っていた箸を静かに茶碗の上に置く。そして恐る恐る両手で自分の頭を触った。

 しかし、頭のどこを触っても痛みを感じるようなところはなかったし、瘤のように腫れている箇所もなかった。



挿絵(By みてみん)


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