第31話
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由貴が居室の入口にIDカードをかざすと、ドアは音もなく左右に開いた。
朝のライトメディアの居室は、再び活気を取り戻していた。
すでにあちこちで社員同士が会話をしながら仕事の打ち合わせをしている。それらの雑音に迎えられるようにして、由貴は居室の中に入っていった。
前日の夜も遅くまで会社に残って仕事をしていた。それもあって、体からまだ疲れが抜けきっていない。いや、肉体から、というよりもむしろ心から疲れが抜けていない気がする。
ミューズへの二回目のプレゼンは明日に迫っていた。
昨日一日は、その資料作成に追われていた。だけど昨日一日頑張ったおかげで、昨日までにある程度形はできている。今日一日かけて資料の最終調整をして、明日のプレゼン本番に備えるつもりだった。
由貴の机の横、利奈がすでに出社していてキーボードに何やら打ち込みながら仕事をしているのが見えた。
ライトメディアは裁量労働制を採用していて、始業時間というものが明確に決まっているわけではない。与えられた仕事をきちんとこなしてさえいれば、何時に出社しても上司から何かを言われることはなかった。由貴は夜の居室の静かな環境でできるだけ仕事をしたいという思いもあって、多少出社時間を遅くしていた。その日も居室に着いたときには午前十時になろうとしていた。
由貴は自分の机の隅に、肩から下げたショルダーバッグを置く。机の前に置かれた椅子を手前側に引きながら、隣の席に座った利奈に「おはよう」と言葉をかける。
利奈はいつもの習慣で、ディスプレイから視線を外し由貴の方を見ながら、「おはようございます」と挨拶を返そうとする。しかし、その挨拶は、「おはようございま」で途切れた。なんだろうと思い利奈の方を見ると、利奈はひどく驚いた顔で由貴の方を見ている。
「杉原さん、どうしてここにいるんですか?」
「どうしてって、仕事をしに来たんだけど……」
「あ、いや、今日は十時からミューズでプレゼンだから、朝はここには出社せずにミューズに直接行くのではなかったんですか?」
一瞬、利奈の言葉の意味が分からず、由貴は戸惑う。
ミューズでのプレゼンは明日の四月十八日だ。今日は四月十七日なのだから、今日ではない。だから昨日は遅くまで社内に残って資料作成をしていて、あと少しの修正で完成するというところまでもっていったのだ。
利奈はその驚いた表情のまま、黙って由貴の顔を見ている。
まさか、利奈はいたずらで自分を担ごうとしているのだろうか。ただ、エイプリルフールはとっくに過ぎている。それに、もしいたずらだとしても、あまりにもたちの悪いいたずらだ。
「何を言っているの、長谷川さん。ミューズのプレゼンは四月十八日でしょ。今日は四月十七日。だからプレゼンは明日よ」
「え? 杉原さんこそ何を言って……。今日は、四月十八日ですよ」
由貴は利奈の顔をまじまじと見つめる。
利奈の顔がいたずらを詫びる笑顔に変わることはなく、いつまでも真剣な目で由貴を見ていた。
由貴の胸の中で、何かが小さくざわめき始める。
まさか……。
由貴は慌てて自分のスマホをショルダーバッグの中から取り出す。そしてホームボタンを押して画面を表示させる。そこには『4月18日(金)』と表示されていた。
そんな……馬鹿な……。
必死に昨日のことを思い出そうとする。
朝のニュース。仕事の打ち合わせ。様々な記憶が頭の中に流れ込む。だけどいくら思い出そうとしても、やはり由貴にとっては昨日は四月十六日でしかなかった。まさか、自分が一日勘違いをしていて、昨日は本当は四月十七日だったのに、四月十六日だと思い込んでいたのか。そんなことありえるのだろうか。
由貴は胸の中のざわめきを押し殺そうとするかのように、自分のパソコンの電源を入れ、ローカルディスクに保存しておいたミューズのプレゼン資料を開く。昨日、あと少しの手直しで完成というところまで作っていた資料だ。震える手で、そのプレゼン資料のページを捲っていく。
今日修正をしようと思っていたところが全て、完璧に修正されていた。
由貴がその修正を行った記憶はなかった。
だけどこの資料は由貴のパソコンのローカルディスクに保存されていた資料なのだ。
この修正を行ったのは、由貴以外に考えられなかった。




