第32話
「本当に申し訳ありませんでした」
由貴は深々と頭を下げる。
前回、野村ゆかりにプレゼンをしたミューズ本社の会議室と全く同じ部屋に由貴はいた。由貴の前には野村ゆかりが座り、そして彼女の隣に若い男性社員が座っているのも同じだった。だけど野村ゆかりの表情は一週間前はひどくにこやかだったのに、今はどこか冷たい表情で由貴のことを見ていた。
「まあ、過ぎたことは、仕方がないので……」
野村ゆかりはその顔に、ビジネス用の微かな作り物の笑みを浮かべる。しかしすぐに冷たい顔に戻って、「次回からは気をつけてください」と由貴を突き放すように硬い口調で言った。
「はい、分かりました。このようなことはもう二度とないようにいたします。……本当に申し訳ありませんでした」
由貴は再び頭を下げる。今の由貴にはひたすら謝ることしかできなかった。
会議室は静寂に包まれる。
そのような中で、野村ゆかりの隣に座った男性社員が、ノートパソコンのキーボードを叩くカタカタという耳障りな音だけが、部屋の中を漂っていた。前回も野村ゆかりの隣に座ってノートパソコンのキーボードを叩いて打ち合わせの議事録をとっていた男性社員は、今も同じように横に座り、機械のような無表情を顔に貼り付けてキーボードを叩いている。
そのパソコンに何を打ち込んでいるのだろう。
この謝罪の議事録をとっているのだろうか。今、自分が口にした「本当に申し訳ありませんでした」の言葉も議事録の一部としてノートパソコンに打ち込まれているのだろうか。
そんな考えが由貴の胸をかすめ、そのままどこかに消えていった。
朝、利奈に今日が四月十八日だと言われたとき、由貴はその言葉が信じられなかった。
由貴にとって今日は四月十七日以外の何物でもなかった。だけどスマホ、パソコンの時刻表示、ネットニュースの日付、それら全てが今日が「四月十八日」であることを由貴に告げていた。もうこれ以上、「今日は四月十七日なんだ」などと言っていられなかった。「本当は今日は四月十七日であって、自分の記憶の方が正しいんだ。この世界の方が間違っているんだ」などと言っている訳にはいかなかった。
由貴は自分の机の上の小さな置時計を見る。
ミューズへの二回目のプレゼン。その約束の時間である午前十時はもう五分後に迫っていた。
由貴は頭の中が真っ白になる。
そのような状態の中でも、無意識に由貴の右手は机の上に置かれた仕事用の携帯電話を手に取る。
自分がこれから何をしようとしているのか、由貴自身にも分からなかった。自分の指が携帯電話に登録してあるアドレス帳からミューズの野村ゆかりを選んでいるのを見て、そしてその指が発信ボタンを押したのを見て、ようやく自分が野村ゆかりに電話をかけようとしていることに気づいた。そんな自分の様子をどこか別の世界の出来事のように見ていた。
そうか……どう考えても今から五分で新宿にあるミューズ本社になんて間に合うわけがないんだ……。だから私は、約束の時間にいけないことを野村ゆかりに謝らなければならないんだ……。
「はい。ミューズスキンラボの野村です」
受話器から野村ゆかりの落ち着いた声が聞こえる。
「お忙しいところすみません。ライトメディアの杉原です」
「ああ、杉原さん。今日のプレゼンはよろしくね。約束の十時までもう少しだけど、どうかしましたか?」
「そのプレゼンについてなのですが……」
由貴の口はそこで固まる。
何と言って謝ればいいのだろうか……。
時間に間に合わないことを詫びるにしても、その理由も言わなければならない。要領の良い社会人なら「電車が遅れた」などと悪意のない嘘をつくのだろうが、由貴の口からはそのような嘘は出てきてはくれなかった。
四月十六日の次が、十七日ではなく十八日になっていた。
どこかにその一日が消えてしまった。
由貴の中ではそれが真実なのだとしても、そんなことを野村ゆかりに言えるわけがなかった。
「プレゼンが、何ですか?」
突然口をつぐんだ由貴をフォローするように、野村ゆかりが言葉をつなぐ。
「……申し訳ありません、約束の十時にはいけません」
「え? なぜ?」
「はい……実は……」
気づけば、次のような言葉が由貴の口をついて出ていた。
「今日は四月十七日だと思っていました。ですが十八日でした。すみません、私が一日勘違いをしていました」
これ以外に言いようがなかった。




