第29話
電車の中も、同じような顔をしたスーツの群れで一杯だった。
空いている吊り革を見つけ、由貴はその群れの列の中に紛れ込む。目の前の座席に座っている男を見ると、スマホを横にして由貴の知らないアニメ動画を見ていた。由貴はすぐにその男に興味を無くして、黒い闇に覆われた電車の窓に視線を移した。
体に微かな重力を感じるのと同期して、その窓の奥の光景もゆっくりと横に流れていく。寂しく立っている街灯たちが、その暗い闇に立ち向かおうとしているのが見えた。街灯たちは朝になるまで、闇と戦い続ける。その戦いは終わることなく永遠に繰り返される。街灯が夜の闇を駆逐することはできないし、夜の闇も、街に広がるその街灯を消し去ることはできない。
由貴はその両者の虚しい戦いを電車という箱のなかで傍観しながら、吊り革に体重を預けていた。
昨日の夜も、このI線の電車の中で同じような空想に耽っていたような気がする。
その終わりのない戦いに由貴もいつの間にか巻き込まれている。
朝になったら起きてこの電車に乗る。そして一日中、心をすり潰すようにして働き、夜になるとまたこの電車に乗って家に帰る。このようなことをひたすら繰り返している。
自分は、一体何と戦っているのだろう……。
由貴には分からなかった。
ライトメディアという会社となのか、あるいは自分自身となのか。それともこの世界そのものとなのか。何と戦わされているのかも分からずに、戦い続けている。戦わせられ続けている。
そして同じような一日を同じように繰り返している。
今日が何日なのかも分からなくなりそうになる。
きっと自分は、昨日と今日が全く同じ一日だったとしても、そのことすらも気づかずに、昨日と同じ「今日」を真面目くさった顔で過ごすのだろう。
こんな毎日の先に、何が待っているのだろう……。
由貴は、窓の外の暗闇に目を凝らす。
だけどその闇のどこにも答えなんて見つからなかった。
ただ、どうしようもない徒労感だけが由貴の心と身体を覆い尽くしていた。
「まもなく、Kです。出口は右側です」
機械で作られたような自動音声が車内に流れる。その冷たい女性の声に、由貴の思考は妨げられた。
目の前の座席でスマホを横にしてアニメを見ていた中年の男性が、スマホをスーツのポケットにしまう。そして電車を降りる仕草を始めた。
この人も私と同じ駅で降りるんだ……。
何度も同じ電車に、同じ時間帯に乗っているはずなのに由貴にはその男性の顔を以前に見たという記憶は無い。おそらく今まで同じ電車に乗り合わせたことは一度くらいはあったはずなのに。それなのに人々は全くの他人として由貴の脇をすり抜けていく。それが東京という街なのだ。
スーツの群れは電車の中ではあんなにも疲れ切った顔をしていたのに、ここでようやく生気を取り戻したかのように早足で電車を降りていく。電車から吐き出されたスーツの群れは、そこで蜘蛛の子を散らすように夜の街に消えていく。おそらく彼らには、彼らを待ってくれている家があって、その家には彼らを「おかえり」と言って迎えてくれる家族がいるのだろう。
だけど由貴には、家で自分を待ってくれる人は誰もいない。
空っぽの家に、ただ寝るだけに帰る。
K駅は駅前周辺は店も色々あり一見栄えているのだが、少し歩くと住宅街に姿を変える。その住宅街の一角に由貴の住むマンションはあった。
由貴は駅から出ると、そのまま駅前のスーパーに入った。
惣菜コーナーに行って、夕食のためのおかずを買い物かごの中に入れる。ご飯はまとめて炊いて、小分けにして冷凍したものが冷凍庫の中に入っている。あとはちょっとしたおかずがあれば、由貴には十分だった。
一人暮らしを始めた当初は頑張って自炊をしたりもしていたのだけど、日々の長時間残業の中で、いつしかスーパーで生の食材を手にすることも無くなっていた。その代わり惣菜コーナーに行って、そのまま手をかけずに食べられるものを選ぶようになった。最近いつ包丁を握ったのかも覚えていない。
どうせ、家は寝るためだけに帰るようなものなのだ。
それなら、家の中ではできるだけ何もせずに過ごしたかった。




