第28話
ある取引先の担当者に面会のアポイントメントを取るためのメールを作成していると、画面の右下に、メールの着信を知らせるポップアップが浮かび上がった。
由貴はメールを作成するのを中断し、機械的にメールソフトの受信フォルダを開く。先ほど松浦に送付したメールに対して、一通の返信が届いていた。松浦自身からの返信だった。なんだろうと思い、そのメールを開く。そこには次のように書かれていた。
『素早い報告、ありがとうございます。次回のプレゼンに期待しています』
それだけが書かれていた。
松浦らしい、装飾を削ぎ落としたシンプルなメールだった。
由貴はその松浦のメールに対して、返信の文章を打ち込む。
『わざわざメールありがとうございます。次回プレゼンは一週間後なので、そこに向けて提案の練り直しを長谷川さんと一緒にやっていこうと思います。次回はミューズからOKが出るように頑張ります』
打ち込んだ文章をざっと見直す。
向上心のある、やる気に溢れた社員。
そのような社員が書くような文章になっているだろうか。
由貴はその一点だけに気を配って文章を見直す。特に問題はなさそうだった。由貴は送信ボタンを押す。そして先ほどまで取り掛かっていた、取引先の担当者にアポイントメントを取るメールに戻った。
一つの仕事が一段落し、画面右下の時刻表示に疲れた視線を移すと、そこには「21時05分」と表示されている。
「もう、こんな時間……」
由貴は両手を組んで上に持ち上げ、体の凝りをほぐすようにそのまま上に伸ばす。その際に由貴の視界に居室の様子が映ったが、さすがにこの時間にもなると昼間と比べて居室にいる人の数は少なくなっていた。それでもまだ少なくない人たちが、死んだ魚のような目をパソコン画面に向けながら仕事をしていた。
昼間と違って、居室の中はしんと静まり返っていた。皆、さばききれないほど抱え込んだ、あるいは抱え込まされている仕事を何とか終わらせようと黙々と作業をしている。この時間になると、居室の中は昼間とは全く違った顔を見せる。もはや、社長である瀬戸井の「社員同士の自由なコミュニケーションが社員のアイデアを生み出す」という信念にかまっていられる余裕を無くしていた。
利奈はとっくに帰っている。
由貴も、今日片付けようと考えていた仕事があらかた終わったことを確認して、家に帰ろうと思った。
パソコンの電源をオフし、机の上を簡単に整理する。そして、まだ残って働いている同僚に、「お先に失礼します」と言葉をかけた。彼らは、もう家に帰ることのできる由貴に微かに羨望の眼差しを向けて、小さく無言で頷いただけだった。
由貴の家は、渋谷駅からI線で一本で行けるK駅にある。
大学生のときはまだ実家に住んでおり、実家から大学に通っていたが、ライトメディアに就職すると同時に上京して一人暮らしを始めた。ライトメディアで働いているOBからはライトメディアでの仕事は激務で長時間残業も当たり前だと聞いていたので、できるだけ勤務地のある渋谷駅の近くに住みたかった。少しでも通勤時間を短くしないと、そのような場所で働き続けることは難しいだろうと思った。だけど都心に近ければ近いほど家賃は高くなる。渋谷駅まで出るにあたってかかる通勤時間と家賃とのバランスを天秤にかけて、I線で少し都心から外れた位置にあるK駅が最寄り駅となるマンションに、今は住んでいた。
夜も深くなりかけているI線の渋谷駅ホームは、仕事を終えて家に帰る多くのスーツの群れで溢れていた。この時間にもなると、私服を着た大学生たちの姿は少なくなる。
次の電車を待つスーツの後ろに由貴は並んだ。スーツの上に乗っかっている彼らの顔は皆、疲れ切った顔をしていた。
自分も彼らと同じような顔をしているのだろうか……。
一人ぼんやりとそんなことを考えていると、ホームに一本の電車がキーという甲高いブレーキ音を立てながら滑り込んできた。




