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私に帰る場所なんてない、と身勝手な不幸にしばし浸っていたが、人のよさそうな兄さんに、
「ヒカリちゃん、どっちぃ去ぬん? 送っちゃるけえ」
などと言われたら、あ、あっちです、と素直に答えざるを得ない。
自分の拠り所が全部、なくなってしまったような気がしたけど、いまお世話になっている人たちのところを、私の帰る場所と言ってしまっていいのだろうか。でも他に、頼れる人なんていないのだ。なんだか打算的で、自分でも嫌になる。
「ほんじゃあ私、宿に去ぬるわ。縁がありゃあ、また会えるじゃろ」
閣下の屋敷前で門兵さんに私を預け、兄さんはあっさり去ってしまった。後ろ姿のまま振られる手に、束の間私も振り返す。ちょっとの間だったけど、ここに来て初めて、もう少し話していたかったと思った。
それは、兄さんが特別だったわけじゃなくて、単に私は、自分の置かれている状況から逃げ出したかっただけなのだろう。
――でも、ここに帰るということは、もう逃げることはできないということだ。
玄関から広間に入ると、みんなが勢ぞろいしていてちょっとびっくりした。数時間行方知れずになって、夜になってしまい、しかも当事者が子供(と思われてるだけだけど)ともなれば、おおごとになるのも仕方ないかもしれない。
門兵さんが兄さんから聞いた保護時の状況を説明していると次第に、聞いている熊さんの眉間に、険悪そうな縦皺が刻まれていった。
熊さんは、ざっとこちらに首を廻らすと、靴底を床に打ち付ける音を響かせながらこちらにやってきて、威圧感たっぷりに私を見下ろした。次の瞬間、
「――この、馬鹿野郎が!」
ビシッ、と険しい音がして、私の左頬が熱くなった。
――平手で張られたのだ。
その衝撃に驚いて、私はしばらく茫然と突っ立っていた。反応した閣下が、「そこまでせずとも……!」と慌てて擁護してくれていたが、熊さんの態度は冷たかった。
「なにを考えている、路地裏は危険だと言っておいたろうが。そんなに死にてえのかおまえは」憤りつつ、熊さんは短く息を吐く。「やむを得ず巻き込まれたんじゃなくて、回避しなかっただけなんだろ。最近のおまえ見てりゃわかるがな、俺はそういう投げやりな馬鹿が一番腹立たしいんだよ!」
熊さんの怒声がびりびりと空気を震わせたが、なぜか恐怖はまったく感じなかった。
ゆっくりと、張られた頬を指でなぞると少し熱を持っていた。あとから遅れたようにじわじわと鈍痛がやってきて、そのときにやっと、私は叱られたのだということに気がついた。
社会人になってからは、他人に叱られることなどない。仕事上のそれはあるだろうが、大抵の人はわざわざ、他人の性格や人生を矯正してやろうなどとは考えない。ましてや、たとえしつけであっても物理的に手を出されることから遠く位置していた挙句、他人よりも近しい関係の友人も恋人も作らなかった私にとって、こういったやり方で叱られるということは、想像の範囲すら及ばない出来事だった。
あまりの不意打ちに、私は、驚愕していたのだ。
自覚した途端、頬が震え、叩かれていない側の頬まで熱くなった。
気づいたときにはもう、私は両方の目からぼたぼたと大粒の涙を零しており、それを止めようもなかった。よくわからないけど、なんだかもう、壊れたように涙が流れるままにするほかなかった。
突然泣き出した私にぎょっとして、熊さんは追及の手を止めたが、どちらにせよほとんど変わりはなかったろう。
熊さんが放った投げやりという言葉が、ほんとに槍みたいに、私の心臓に刺さってしまっていた。
――見抜かれていた。熊さんには見えていたのだ。外にも出ず、人の名前をろくに覚えようともせず、投げやりに日々をやり過ごそうとしていた私が。
私は、怖かった。この世界になじもうとすることは、元の世界を捨てようとすることではないのかと。そうなんだとしたら、私は自分が帰りたくないということを認めることになってしまう。そんなことは許されなかった。
なじまぬよう取り込まれぬよう、私はこの世界から目をそらした。世界と向き合うことは怖かった。
自分の足元を確かめろと言った熊さんの言葉、これを見抜いて言っていたのだとすれば。
――いま私は、恥かき度マックスということではないのか。
そう思ったら急に、いたたまれなくなった。いろんな思いでぐちゃぐちゃになった頭と、いろんな意味で赤く染まった顔を持て余したまま、私はその場からダッシュで逃げ去った。
いろんな人も表情もみんな置き去りにしたまま。
あてどもなく駆けていた足は、結局、無意識に私に与えられた自室へと向かっていた。
部屋に駆け込み、私は上着を振り棄て、靴を脱いだ。
バルコニーへ続く窓を開けると、夜風がびゅうと吹き込んで、火照った頬を冷やした。私は、上がった息を整えようと、せわしなく呼吸を繰り返す。
――私を叱ってくれるのは、ママやパパじゃなくてもよかった。
私を見てくれるのは、私を認めてくれるのは、ママやパパじゃなくてもいい。
たったそれだけの単純な事実を、私はいま初めて知った。
私は、裸足のままバルコニーに足を踏み出した。今夜は風が強く、冷え込みがきつかった。足の裏からちくちくと、冷たさが私を襲う。冷たさは、痛みと同意だった。
私は、こんな重大なことを、ぬくぬくとした快適な環境で考えてはいけない、という自分の自虐的な思い込みに従った。
もしも帰れるのなら、私は小さな希望にいつまでもすがったことだろう。でも、もう私は帰れないのだ。もう会えないのだ。
――私は、ママやパパを諦めてもいいんだ。
そうと思うことは、ひどくつらかった。同時に、それは私の中のなにかを楽にした。自分の中にこごっていたものが、涙とともに融けて流れていった。
泣き疲れて息を吐くと、身体の力が抜けてしまって、私はそのまま石の床の上に横になった。
氷のような冷たさすらいまは心地よかった。
まどろみの中どんどん目蓋が重くなり、意識を手放す寸前に、私は「仕方ねえなあ」という聞きなれた声を聞いた。
目が覚めるとベッドの中だった。
まだうまく働かない頭は鈍くなっているが、決して重くはない。眠りに落ちる前のことをおぼろげに思い返しながら、あることに気づいて私ははっとした。
――く、熊さんが運んでくれたのではないでしょうか。
まどろみの中で聞いたのは熊さんの声だ。叱られて泣きだして逃げだした私を、追ってきた熊さんが運んで、ベッドに入れたのだろう。
うわあ、と思って私は両手で頭を抱えた。
どれだけ迷惑をかけたら気が済むんだ私。
私はいままで、他人に懐疑的で、頑なに生きてきた。どこか一線引いていて肝心なところで心を開かない私を、友人も恋人も受け入れられなくてすぐに去っていった。それは、相手の我が侭でもあるし、私の我が侭でもあった。
それが、この世界に落ちてきて出会った熊さんにはどこか違っていた。それは、熊さんが特別に思えたからじゃない。突然の出来事に混乱し、私は不安と無気力の狭間にいた。だから私は自分を取り繕う余裕がなかったし、熊さんとの出会いがひどすぎたから、自分を好意的に見せようという努力を放棄したのだ。
この人にはどう思われてもいいや。そんな思いから始まっていたけど、私は、熊さんに八つ当たりもしたし彼を振り回しもした。相手に興味のない態度をとっておいて、小さな要求は押しとおしたりして。
我が侭だった。
――それはもしかして、甘えていた、と言っていいんだろうか。
私の頬はすでに、羞恥で熱く火照っていた。ベッドの上で、無駄に身もだえしそうになる。
……起きたくないな、と思った。
しかし、いつまでもベッドで過ごしているわけにもいかない。軽く顔を洗って服を着替えた私は、ゆっくり階下へと降りていった。
「おはよう、寝ぼすけさん」
食堂にはすでに先客がいた。ティーカップを軽く持ち上げて挨拶したのは王子様だった。
「おっ、おはようございます」
私は慌てて挨拶を返す。いるとは思わなかった。実は結構、王子様はこの屋敷に寄ってるから意味なんかないのかもしれないけど、でも、心配してくれたのかな、と思った。自惚れに溺れたくはないけど、もしかしてそうかな、と思うことは楽しかった。
私はいままで、相手の好意を推し量ることすら、ほとんどしたことがなかったのだ。
「ヒカリちゃん、まだ頬、赤うなりよるの。女の子が顔に傷こさえたらいけんのー」
「えっ、あれ、えええっと……?」
びっくりした。王子様の向かいに、路地裏で会った兄さんが座っている。
「ああ、私、アレックが他国に遠征に出ようたときに知り合うたんじゃ。この国にはなんどか来ちょっての、ヴィクター王子とも顔見知りじゃけ」
つい怪訝な顔をした私に、察した兄さんは親切に、ここに居る理由の説明をする。
そのとき、私は一瞬引っかかった会話の中身に気づいて、王子様を振り返った。
「えっ、あれ――知って、いらっしゃる……みたいですね」
「まあね」
王子様は涼しげな顔だ。兄さんは普通に、私を女の子とみなした会話をしていた。王子様はそれに、格段に反応しなかった。おそらく、昨夜のことで、宰相閣下がご注進にでも上がったのだろう。自分が預かっている子が女なのに、男と思われてほいほい殴られては堪らないと思ったんだろうな。監督の立場上、王子様の耳に入れておかないといけない情報だったわけだ。
そこで給仕の人が遅い朝食を持って現れて、私は礼を言いながらトレイごと受け取った。
さっさと食べちゃわないと片付かないよね。そう思って席をとった途端、扉が開いて熊さんが顔を出した。
私は思わず、椅子から飛び上がりそうになる。その様子を見て熊さんは顔をしかめ、手首から先を軽く前後に振った。
「いい、食ってろ」
私の口は、薄く開いたまま言葉は出なかった。
だって、なにを、なんて、言ったらいいの。羞恥やら自己嫌悪やらが頭の中を駆け巡る。
言葉ない私を見て、熊さんからのお説教はなかった。熊さんはただ、気まずそうに視線を逸らし、顔を斜めに向ける。
もしかして、殴ったのはやりすぎた、って思ったのかな。勝手な解釈で私はそう思った。熊さんは間違ったことはしていないし、自分でもそれを知っている。だから、熊さんの方から謝るようなことはしない。たとえ目の前に、うっすら腫れの痕を残している私が居ても。でも若干の罪悪感があって、それが熊さんを気まずくさせているのだろう。
私は、気づかれないように、ちょっとだけ笑った。
私はそれで自己完結したつもりでいたが、そうは問屋が卸さなかった。というより、王子様と兄さんが。
「やあ、アレクセイ。ヒカリに対しては、ちょっとやりすぎた、とか反省したりはしていないのかな」
「ほうじゃ、あっこまでやる必要はなかったじゃろ」
それを聞いて私はぎょっとする。そもそも兄さんは殴る現場にはいなかったでしょうが。まあ、王子様とか他の人から聞いたんだろうけど。
「少しは考えた方がいいかもしれないよ。なにしろヒカリは――」
「うわああああ! 私が悪かったんですごめんなさい謝ります! それは言わないでくださいぃい!」
思わず、身を乗り出すようにして私は王子様の腕をつかんだ。絶対この人、いま、私が女だって言おうとした。
熊さんは意外と、女子供には優しい人だ。子供と思っているだけでも後味悪いだろうに、このタイミングで私の性別を明かされると、罪悪感と謝れないことのジレンマに陥ってしまうだろう。
と、王子様と兄さんの目元がふと緩んだ。じゃあ、言わずにおこうかな、と王子様はことを収めてしまう。
もしかして、私と熊さんが気まずくならないように気をまわしてくれたのかな。まあ、私をからかいたいだけだった、っていう線もなくはないけど。
ふうと息を吐いて、私は食事を再開した。まだ熊さんの目を見ることはできなかったけど、そこはさすがに相手も突っ込んでこない。
食べているのは私だけだったけど、信頼できる人たちと同席している食事風景に、思わず涙がにじみそうになった。
性別のことは折をみて明かそうと思う。どうせほとんど知られちゃってるし。
でも、年齢のことはもう少し伏せててもいいかな、と思った。
いま、私は、子供時代を取り戻してるところなんだって、そう思ったから。




