とある手記
暗く湿った地下空間。火の灯りがなければ伸ばした手も見えなくなるだろう程暗いそこに、アンクたちは詰め込まれていた。
わずかに寒さを感じて身震いする。アンクは眉を寄せて分隊長を見た。
「寒くね?」
「……ああ、はい」
それを受けた分隊長は少し思案した後、何か思いついたように上着を脱いでアンクに差し出した。
「いやちげぇよ。いくら俺でも寒いからって部下から服奪わねぇよ」
アンクはそれを押し返してため息を吐く。鉄格子の向こう側を見て小さくうなった。
「もうさー本当、この状況意味わかんねぇんだけど。出ていいのか?勝手に出ていいのか?」
「大人しくしていましょうよ。何かしら意図があるみたいですし」
「お前も知ってるだろ?俺、じっとしてるの嫌いなんだよ」
言いながら鉄格子の扉をつつく。それだけで、扉は高い音を上げながら開いた。
元勇者が入っている牢舎以外のすべて、鍵が開いていた。
「マオだけ思いっきり隔離されたし、彼女に話があるんだろうけどな」
「お知り合い…という感じでもありませんでしたね」
「つーか魔法使うやつはみんな隠し事が好きなのか?察しろよみたいな?…あーもう、何なんだろうなーマオって」
魔王はこの状況をどうしようかと考えていた。
彼女がいるのも当然牢の中だった。薄暗いそこには魔王以外にももう一人いた。
魔王は向かい合ったその人物を見る。俯いたまま正座で座るその人物。白い装束を着たまま震える、イルヴィアだった。
決して魔王が強要して一緒にいるわけではない。むしろ彼女は強要された方だった。
ブーツのまま正座なんて座りずらいだろうに。などと余計なことを考えられるほどには時間が経っている。こうして向かい合っている以上何か話すことがあるのだろうと待ってはいるのだが、一向に魔王を見ようとさえしない。
とうとう待つ事にも飽き、魔王が口を開いた。
「なぁ、私に話があるから引き留めたのではないのか?」
「ひゃぁぁぁすみませんっ!!」
声には怒気も何も含まれてはいなかった。ただ素直な疑問を投げかけただけだというのに、イルヴィアは大げさなほど肩をはねさせた。
「…おい」
「はぅぁあっっごめんなさいぃぃ!!」
またもや肩を撥ねさせるイルヴィア。瞠目して彼女を見ていた魔王だったが、直後に口からは笑い声が漏れ始めた。
「お前、さっきまでの威勢はどうした」
笑いを堪えるようにしながら問う。イルヴィアは若干涙目になりながらも、おどおどと返答した。
「あ、あの時はっ、私がすることは絶対に正しいと思えましたからっ。た、正しいことをするのに、戸惑う必要はな、ないでしょう」
「それはまた、わかりやすく極論だな」
「放って、おいてください」
言い終わるや否やイルヴィアは「そうではなくて」と頭を振る。この姿を町民が見たらはたして嘆くのか可愛がるのか。と、魔王は思った。
イルヴィアは幾度か深呼吸をして、ようやく魔王を見た。
「あなたに少々尋ねたいことがあったのでお引止めしたのです」
言いつつイルヴィアは懐から小さなガラス玉を取り出した。ビー玉ほどの大きさのそれを手のひらに乗せ、もう一方の手とで挟むようにする。するとそれは瞬く間に一冊の本になった。その表紙を魔王に向ける。
「これは私の縁者が記した手記です。貴女にお尋ねしたいのは、これに書かれている一部についてです」
魔王は突き出された本を見ながらわずかに首を傾げる。尋ねるも何も、こんなものは今までに見たことがなかった。
そんな彼女を尻目に、イルヴィアは本を開く。幾度もページを繰り、目当ての場所が見つかったのかぴたりと手を止めて声を発した。
「自らを魔王と名乗る女に会った。黒く長い髪をなびかせ、黒紫の目をこちらに向けたそいつは、苦も無く宙に浮いていた。俺だってわずかの間飛ぶのに精一杯だというのに、そいつの魔力量には恐れ入る。魔の王だというのも納得してしまった」
容姿は確かに魔王のそれと同じだった。イルヴィアの声を聴きながら、魔王も自らの記憶を探っていた。
「…女は俺と目が合うと、笑みを浮かべた。そしてこちらに手を差し伸べてきて言った。そんなところでは生き辛いだろう、私と来ないか。と」
そこで魔王は閃いたようにイルヴィアを見た。
「思い出したぞ。確かタールシィヴィスとかいう村にいた魔力持ちの男だ。あの頃は魔力持ちの人間など珍しかったからな、会いに行ったんだ」
言えばイルヴィアは驚いた顔を一瞬見せ、再び手記に目を戻す。
「…はい、この頃は魔法使いは異端者、あるいは化け物、魔物なんて呼ばれていたそうです。私はあなたに言われたセリフと、ここに書かれている「お前は人に恵まれているんだな」と言うセリフが同じだったことでこれを思い出したんです。ここに書かれている容姿とあなたの容姿は同じですし、あなたの今の発言からも、これはあなただと思って良いのですか?」
魔王は一瞬思案した。はたして正直に答えていいのか。正直に答えたところで、彼女は自分をどうするつもりなのか。
ちらりと視線をイルヴィアに向ければ、彼女は手記を開いたままの形で魔王を見ていた。その表情には緊張がありありと出ている。
それを見て取って、魔王はふむ、と腕を組む。
「…たとえば私がそれに“応”と答えた場合、私は魔王であるということになるのだが、その時お前はどうするのだ?」
問いを返されるとは思っていなかったのか、イルヴィアはきょとんとした後、言葉をのみ終えたようにはっとして落ち着かなく手を振った。
「いっいえ、別にあなたが魔王だからと言って変なことをするつもりは…!ただ、この人は魔王に恩を感じているようなので、何かお礼みたいなものができればと…」
魔王は驚愕した。確かにこれを書いたらしい人物とは会ったし、話しもした。けれど話したといってもほんのわずかな時間だけであったし、感謝されるようなことはしていないし話してもいない。彼は魔王の誘いも断ってその村にい続けたのだ。
「そいつは何に対して恩を感じたんだ?」
問えば、イルヴィアは手記に目を戻して口を開く。
「彼は、魔王のこの言葉によって自分の周りを見直し、自分の人生はそれほど酷なものではないと思えたのだそうです。この変化のおかげで彼は村民との接し方を変え、村を発展させ、今のこの町があるのです。ですから私もお礼を言えればいいのですけれど…」
魔王は唖然とするばかりである。何の気なしに口をついて出た言葉が変化のきっかけになったらしい。
魔王は気の抜けた顔のまま笑顔を浮かべた。
「感謝など、する必要は全くないじゃないか」
イルヴィアは一瞬見入ってしまった。相手の反応からするに、魔王であると思って間違いないのだろう。魔王と言えば、恐ろしい魔物たちをまとめ上げるさらに恐ろしい存在である。きっとひどく残忍で、傍若無人なのだと思っていた。
けれど目の前にいる人物はどうだろう。
目の前で綺麗に笑うその人は、気遣いも謙遜もできる優しい人ではないか。
「あなた…魔王、なんですよね」
気づけばそう呟いていた。それは問いかけではなく確認だった。
魔王は再び、にっこりと笑った。