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デビル・スキャンダル  作者: たっくん


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episode1 契約の夜

 雨だった。


 ソウルの夜景は、濡れたガラス越しに滲んでいる。


 漢江沿いを走る黒い車列。


 高層ビルの大型ビジョン。


 そこに映し出されているのは、一人の女だった。


『韓国芸能界最大のスキャンダル——女優ユン・セア、ついに芸能界追放か』


 画面の中で、記者達のフラッシュが弾ける。


 だが、その中心にいる女は笑っていなかった。


 マスク越しでも分かるほど、その顔は死んでいた。


『違法薬物使用疑惑』

『財閥との不適切な関係』

『スポンサー接待疑惑』

『人気俳優との不倫』


 SNSには悪意が溢れていた。


 国民の初恋。


 韓国で最も愛された女。


 それが今では、

“韓国で最も嫌われている女”

になっている。


 スマホの画面が震える。


 また通知。


 また罵倒。


『消えろ』

『気持ち悪い』

『整形モンスター』

『死ね』


 ユン・セアは無言でスマホを握り潰した。


 限界だった。


 もう、全部。


 疲れた。


 芸能界も。


 人間も。


 愛されることも。


 憎まれることも。


 何もかも。


 黒いフードを深く被り、彼女は山道を歩く。


 ソウル郊外。


 人のいない森。


 冷たい雨が肩を叩く。


 靴は泥だらけだった。


 途中で何度も転んだ。


 けれど、どうでもよかった。


 死ぬ人間に、

 綺麗な歩き方なんて必要ない。


「……はぁ……っ」


 息が白い。


 寒い。


 でも、それすら心地よかった。


 ここには誰もいない。


 カメラもない。


 記者もいない。


 マネージャーも。


 偽物の笑顔も。


 もう必要ない。


 彼女は崖の前で立ち止まった。


 下には濁った川。


 雨で増水している。


 ここから飛べば、

 多分すぐ終わる。


 そう思った。


 そう思ったのに。


「……そんな顔をしていると、本当に喰われるよ」


 声がした。


 ユン・セアの肩が跳ねる。


 振り返る。


 霧の奥。


 誰かが立っていた。


 老婆だった。


 黒い韓服。


 片腕しかない。


 深く刻まれた皺。


 白く濁った瞳。


 だが——。


 笑っていた。


 気味が悪いほど、

 静かに。


「誰……」


「死ぬ顔じゃないねぇ」


 老婆はゆっくり近づいてくる。


 雨の中なのに、

 足音がしない。


「本当に死ぬ人間は、もっと空っぽな目をする」


 老婆の視線が、

 ユン・セアの顔を舐めるように動く。


「お前さんは違う」


「……」


「まだ諦めてない顔だ」


 ユン・セアは笑った。


 乾いた笑いだった。


「諦めてない?」


 声が震える。


「全部終わったのよ」


 怒りだった。


「私が何したって言うの?」


 涙が混ざる。


「男と寝た?」

「スポンサーと会った?」

「財閥と食事した?」


 叫ぶ。


「そんなの、この世界じゃ普通よ!!」


 森に声が響いた。


「なのに……どうして私だけ……」


 呼吸が乱れる。


「私はただ、生き残りたかっただけなのに……」


 老婆は静かに聞いていた。


 そして。


「——やり直したいかい?」


 その言葉に、

 ユン・セアの動きが止まる。


「……え?」


「人生を」


 老婆は笑う。


「やり直したいかって聞いてるんだよ」


 雨が強くなる。


 沈黙。


 ユン・セアは俯いた。


 笑うしかなかった。


「やり直せるなら、とっくにやってる」


「方法があると言ったら?」


「……は?」


「力だよ」


 老婆の声が低くなる。


「人を操る力」

「愛される力」

「支配する力」


 濁った瞳が、

 真っ直ぐ彼女を見つめた。


「お前さんが欲しかったもの、全部手に入る」


 ユン・セアは眉を顰める。


「宗教?」


「違うねぇ」


「詐欺?」


「それも違う」


 老婆は笑う。


「契約だよ」


 その瞬間だった。


 老婆が、

 懐から錆びたナタを取り出した。


「……っ!?」


 ユン・セアが後退る。


 だが老婆は迷わない。


 次の瞬間。


 自らの左腕を——。


 斬り落とした。


 肉が裂ける音。


 骨が砕ける音。


 大量の血。


 地面へ転がる腕。


 ユン・セアの悲鳴が森に響いた。


「きゃああああっ!!」


 だが。


 老婆は笑っていた。


 あり得ない。


 普通じゃない。


 切断面から流れ落ちる血は、

 黒かった。


 闇みたいな色。


 ドロドロと蠢いている。


「飲みな」


 老婆が言う。


 血を差し出しながら。


「……何よ、それ……」


「願いの代償だ」


 ユン・セアの全身が震える。


 本能が叫んでいた。


 逃げろ。


 関わるな。


 これは人間じゃない。


 でも。


 老婆の言葉が頭から離れない。


『やり直したいかい?』


 やり直したい。


 もう一度。


 もう一度だけ。


 あの場所へ戻りたい。


 ライトを浴びたい。


 世界に愛されたい。


 惨めなまま終わりたくない。


 ユン・セアの瞳に、

 狂気が滲む。


「……本当に」


 声が掠れる。


「全部、手に入るの?」


「手に入る」


「……また、上に立てる?」


 老婆は微笑む。


 まるで母親みたいに。


「ああ」


 その笑顔が、

 酷く優しかった。


「お前さんは、また世界に愛される」


 ユン・セアは震える手で、

 黒い血を受け取った。


 生暖かい。


 鉄みたいな臭い。


 吐き気がする。


 なのに。


 何故か、美味そうに見えた。


「飲めば、戻れる」


 老婆が囁く。


「お前さんの人生は、ここから始まる」


 ユン・セアは目を閉じた。


 そして——。


 黒い血を、

 一気に飲み干した。


 瞬間。


 全身の血管が焼けた。


「あ゛ぁぁぁぁぁああああっ!!」


 地面へ倒れる。


 心臓が暴れる。


 視界が黒く染まる。


 耳鳴り。


 悲鳴。


 知らない声。


 大量の囁き。


『愛されたい』

『もっと』

『もっと』

『もっと』


 頭の中で、

 誰かが笑っている。


 熱い。


 苦しい。


 怖い。


 なのに——。


 気持ちいい。


 ユン・セアの瞳が、

 ゆっくり黒く染まっていく。


 老婆はそれを見下ろしながら、

 静かに笑った。


「……見つけた」


 その声は。


 まるで長年探していた宝物を、

 ようやく手に入れたみたいだった。

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