地上へ
帰り道は、長く感じた。
第六層から第五、第四……。
来た時よりもずっと時間がかかっているのは、俺の足が鈍いせいだ。
肩が熱い。 打ち付けた場所が、心臓の鼓動に合わせてジンジンと脈打つ。
「……遅くて、すまない」
「急ぎません。あなたのペースで歩いてください」
桜花が俺の隣から離れなかった。
いつもより、ずっと近い。
肩が触れそうなくらいの距離。
「……近くないか?」
「近いです」
「分かってて歩いてるのか」
「はい。またあなたが吹き飛んだら、私が困るので」
真顔で、とんでもないことを言う。
だが今の俺には、それを否定する気力も、突き放す理由もなかった。
第三層。
来るときよりもモンスターの気配が増えていた。
深層のボスが消えたことで、生態系が乱れ、逃げ出してきた連中だろうか。
「……数が増えていますね。秀馬、肩は」
「……動く。戦うのは無理だが、逃げるくらいなら」
「では、私が対処します。秀馬は――」
「ああ、隣にいるよ」
桜花がわずかに目を見開いた後、小さく「はい」と答えた。
彼女の踏み込みは、鋭くそして、丁寧。
一体一体を、確実に、そして俺に余波が来ないように。
自分の消耗を抑えつつ、俺を導くような戦い方。
それは、ただの護衛ではない。
「相棒」としての、気遣いそのものだった。
第二層、第一層とついに、視界の先に「出口の光」が見えた。
「……見えたな」
「はい」
桜花の声が、少しだけ弾んだ気がした。
俺たちの足取りが、自然と速くなる。
並んで、現実の世界へと飛び出した。
ゲートをくぐると、冷たい外気が肺に入ってきた。
朝と同じ、川沿いの風。
なのに、朝よりもずっと綺麗に感じるのはなぜだろうか。
桜花が立ち止まり、空を見上げたまま動かなくなった。
「……桜花?」
「少し、待ってください。空が、……綺麗です」
橙から紫へと溶けていく、燃えるような夕焼け。
「そうだな」
「地上に戻るたび、こう思います。……当たり前のことなど、何一つないと」
夕日に照らされた彼女の横顔を見る。
二百年地下室の闇にいた彼女にとって、この夕暮れはどれほどの価値があるのだろう。
何か気の利いたことを言いたかったが、言葉は見つからなかった。
「無事か、石浜!」
黒沢さんが駆け寄ってきた。
「肩を少し打っただけです。桜花は問題ありません」
「医療班を呼べ! ……しかし、本当に、あの深層の主を撃破したのか?」
「はい。第六層の霧も、もう晴れているはずです」
黒沢さんはしばらく絶句し、それから桜花を見た。
「……信じられん。Fランクが、深層の未確認体を……」
「型式は、旧世代戦闘特化型ですから」
桜花が凛として答える。
黒沢さんは参ったというように苦笑いした。 「……そうだったな。全く、石浜家の人間は」
医療班に湿布を貼られ、「二、三日は鍛錬禁止」と言い渡された。
「控えます」
「俺が答える前に言うなよ」
「私が管理します。当然です」
医療班の人が「仲がいいね」と笑っていたが、俺は笑えなかった。
管理される側の身にもなってほしい。
帰る間際、黒沢さんに呼び止められた。
「石浜。今日の内容は、上(協会本部)に報告する。また国が動くかもしれない」
「……またですか」
「来るだろうな。だが――」
黒沢さんが夕日に目を細める。
「石浜家の英雄は、二百年前にも同じことを言ったと記録にある。……『石浜の剣は、石浜のものだ』とな」
桜花の肩が、ピクリと揺れた。
「……そうです」
その声は、いつもよりずっと深かった。
「源之助様は、自由を愛する方でした。……私も、それを引き継ぎます」
「邪魔はさせないさ。……今日はありがとう、助かったよ」
黒沢さんの背中に頭を下げて、俺たちはその場を後にした。
商店街の灯りがつく頃。 コンビニの前で、桜花がピタリと足を止めた。
「秀馬」
「分かってる。約束のクリームパンだろ」
「‥三個」
「はいはい」
店に入ると、桜花は迷わず三個手に取った。
それから少し考えて、もう一個をカゴに入れた。
「……四個じゃないか」
「これは秀馬の分です」
「俺は別にいいよ」
「食べてください。……今日、あなたは頑張りましたから」
レジに向かう彼女の背中を見ながら、俺は何も言わずに財布を出した。
外のベンチで、並んでパンをかじる。
冷たい夜風が、火照った体に心地いい。
「……美味いな」
「はい。……格別です」
桜花が夜空を見上げた。
街の灯りの向こうに、いくつかの星が瞬いている。
「秀馬」
「なんだ?」
「今日、……ありがとうございました」
「俺は囮だっただけだろ」
「……あなたがいてくれなければ、勝てませんでした。本当です」
桜花はパンを一口食べ、少しだけ視線を下げた。
「……帰ったら、言ってくれると約束しました」
「……ああ。お疲れ様、桜花。よくやったな」
「はい。……秀馬も」
川の音が聞こえる。
ベンチから伸びる二つの影は、朝よりもずっと近く、寄り添っていた。
「帰るか」
「はい」
立ち上がった俺たちの手には、空になったパンの袋。
それは、俺たちが今日を生き抜いた、何よりの証だった。




