第87話 交流大使ってなんですか篇2㉛ 立ちはだかる真紅の女
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「ううう、うううう〜……!」
純礼は身を引き裂かれるような痛みに呻いた。
違う、痛みでない。これは空腹感だ。
まるで腹にポッカリと穴が開いたような、その内側を剣山で擦られているような激烈な空腹感だった。
あのあと、純礼は家探しをした。
どうやらここは夫婦が住んでいる家らしく、純礼は適当な婦人服を見繕い、さらにタンスの中を漁り、冬物のコートと手袋を見つけて着用する。
そして食事。
冷蔵庫の中には余った惣菜があったが、食べた瞬間吐き出した。
不味い。まるで排泄物のような匂いと味に感じられた。
その代わり、パック詰めされた生肉はそこそこ食べられた。
だが鮮度が悪いのか、臭みも強かった。
昨夜食べた兄たちの脳や臓物はプディングのように柔らかく甘かったというのに。
「耐えろ……もう少し、もう少しだ……!」
夜になれば自分も動ける。
そうしたらマクマティカーズのライブ会場に行く。
得意げに歌っている少女たちのステージに乱入し、嫌がる彼女たちを押さえつけ、その綺麗な顔からバリバリと貪り食ってやる。
そして一皮むけば誰でも同じなのだと誇示するように、会場の観客たちにその軀を叩きつけてやる。
そう考えていたところで、純礼は気を失った。
目を覚ましたのは窓から差し込む陽光が傾き始めた時分だった。
まだ早い……もう少し……。
と、不意にヒトの気配を感じて純礼は振り返った。
「ヒッ、だ、誰……!? 泥棒……!」
不味い。家の者が帰ってきてしまった。
純礼は一目散に勝手口へと走ると、ドアを蹴破って外に出る。
多少肌が痛かったが、昼間よりはマシだ。
それにまたヒトでなくなりかけているのか、身の丈ほどもある家の塀もなんなく飛び越えることができた。
「北とぴあ王寺……ほくとぴあ王JI……ほ苦戸ぴあOUじ……」
再び民家の屋根の上に飛び上がり、屋根伝いに王寺町を目指す。
十王寺のすぐ隣の街。
そこに行けばこの空腹感を満たせる。
薄れていくヒトとしての記憶の中、純礼は本能の赴くまま、目的地を目指した。
*
「入場の待機列はこちらになりまーす!」
「会場入りの際は手荷物検査にご協力くださーい!」
「お手元にチケットのご用意をお願いしまーす!」
北とぴあ王寺の正面入場口はとんでもない騒ぎになっていた。
今回はつつじホールという小規模会場でのライブらしいが、それを凌駕する人々が詰めかけている。
「申し訳ありません、当日券の販売はございませーん!」
スタッフと思わしき同じTシャツを着た男性が何度も同じことを言い、繰り返し頭を下げている。あれは……誰だったか。見覚えがある。でも思い出せない。
――いい加減にしてくれ!
「う――う卯ぅ……!」
物陰に隠れながら様子を伺っていた純礼は、頭痛に襲われてその場にしゃがみ込む。ダメだ……ヒトであった頃の記憶を探ろうとすると頭が割れそうになる。
もういい。もう自分はヒトではないのだから、思い出すだけ無駄だ。
それよりも早く目的を達成してしまおう……。
「お待たせしました、入場開始です! 落ち着いて、ゆっくりと中へお進みください――!」
正面玄関には警備員もいる。
多くのスタッフたちもいるし、バレずに中に入るのは無理だ。
ならば裏口に回ろう。
線路側の自転車置場などがある通路に行けば、関係者用の出入り口があるはず。少しくらい高い塀や植木があっても、今の純礼なら難なく飛び越えられる。
「もうすぐ……も卯す愚……」
純礼は身を引き裂くほどの空腹感と頭痛を抱えながら、最後の理性を振り絞って移動する。
「はあ、は亞、歯ア、派亞……!」
ビキビキっと、身体の節々が変形していく音がする。日はすっかり暮れ、街中の人工灯が極彩の光を放ち、辺りに降り注いでいる。
季節外れの冬物コートの下、背中側が蠢いている。鉤爪のような固くて鋭いアレが純礼の肉を食い破り、服を突き破ろうとしているのだ。
――早く、早く殺して食べなければ。
日本のために異世界人を――いや。
「きれ井な……尾んな……」
憎い。憎い憎い憎い。
私からあのヒトを奪った美しい女が憎い。
それなのに、どうして自分の住んでいる地域は異世界なんかの玄関口になってしまったのか。
異世界は相対的に地球よりも美形が多いという。
許せない。最初の交流大使たちも、たまに商店街に来て治療行為をする犬の治癒魔法師も、二年前から住み着いたあの子沢山な羊女も、赤ん坊を大事そうに抱えて買い物をしている蒼髪のメイドも。
みんなみんな食い殺してやる。
まず手始めにあの少女たちだ――
「こんばんは。今日は随分と蒸し暑い夜ですわね」
「――ッ!?」
聞き覚えのある声がした。
顔を上げれば、行く手を遮るよう、一人の女性が仁王立ちしている。
薄桃色のゴールドブロンド。
長身で細身。モデルのような引き締まったプロポーション。
カーミラ・カーネーションが妖しく笑いながら待ち構えていた。




