02◆月夜の失態
イゼルと別れた後、広間から少し離れたバルコニーのテラスに来た。
いままで後ろをついてきていたユンが、小走りに隣に駆け寄ってくる。
「お嬢様、これを。そんな薄着で外に居たら、風邪をひいてしまいます」
ユンはとがめるようにそう言うなり、脇に抱えた鞄から白いショールを取り出した。
「ありがとう、ユン」
「お嬢様のお世話と護衛がわたくしのつとめですもの。お礼なんてめっそうもない」
少し照れた様子で居るユンは、小さいころから相変わらずだ。
ユンが私専属のメイドになったのは、7歳の頃だった。それから10年間ずっと真摯に仕えてくれている。
貴族としては間違いかもしれないけど、同い年ということもあり、一介の従者を超えた関係だ。
友達のようであり、姉妹のようでもある。
「!…お嬢様。今日は一段と月がきれいに見えませんか」
ショールを肩にかけてくれたユンが、なにげなく夜空を見上げて言った。
「…そうね…」
元の世界となにもかも違う世界だけれど、月だけは地球と一緒だ。満月が、暗い空で控えめな淡い光を放っている。
地上を優しく照らすその姿に、普段は感じない寂しさが胸にこみあげた。
すぅっと夜の澄んだ空気を肺にとりこんで、思わず口笛を吹く。
元の世界での"私"は、行方不明か、死んだことになっているのだろうな、とふと思ったから、ちょっと状況は違うけど元の世界で流行っていた「十の風になって」を選んで吹いてみた。
死んだ人が、残された者に贈る慰めの歌。縁起でもない歌だけれど、今の状況にかぶるところもある気がして。
世界こそ違うけど、私はここで頑張って生きているんだよ――と、いろいろな想いをのせて音を作る。
口笛を吹いている間は、一瞬だけ元の世界が視えるような気がするから不思議だ。
元の世界でよく吹いていたからだろうか。
貴族として暮らしている今、口笛なんてはしたない行為はするべきじゃないのに、ついつい吹きたくなる時がある。今日はまさにそういう日だった。
「…」
目を閉じて聴いていたユンが、一通り演奏が終わったのを聞き届けてゆっくり目を開けた。
「わたくし、この曲が一番好きですわ。悲しいけれど暖かいような…不思議と優しい旋律ですもの」
「私もなんとなく好きな曲なんだよね。ユン、いつものことだけど、このことは誰にも言わないでもらえる?」
「もちろん。言いふらすなんてもったいないこと、しません。…この素敵な音色を独り占めできるなんて、わたくしは幸せ者ですわ。他の皆様に自慢できないのは少しだけ残念ですれど」
「もう。お世辞なんて言わなくてもいいのに」
「お世辞ではありません。わたくしは本気で…」
そう微笑みながら話すユンの目には、うっすらと涙の膜がゆらめいていた。
こちらの世界はあまり音楽が発展していないから、あちらの楽曲が新鮮に聴こえるのかもしれない。
ユンとたわいもない話をしながら、しばらく余韻に浸って空を見上げて――
「…そろそろ火照りも引いたのではありませんか?会場に戻りましょう」
ユンの言葉でリジー・アイルトリムとしての自覚を取り戻す。
「ええ、そろそろ食事を終えてダンスに移る時間だものね。切り替えなくっちゃ」
数回深呼吸し、ゆるみきった気分を引き締めなおしてから、イゼルの待つ広間に戻った。
「――イゼル様、さきほどは失礼いたしました。そろそろダンスの時間ですわ。一緒に行きましょう」
「…、…」
「…?あの、イゼル様?どうかなさいました?」
「…!あ、ああ。リジーか。少し私も酔ってしまっていたようだ」
明らかに上の空だと分かる表情に驚く。
酔っているようには見えないが、常にまじめなイゼルにしては珍しい腑抜け顔だった。
イケメンだから惚けている顔もさまになっていた、という事実は悔しいので忘れることにする。
いろいろと気にはなるが、今はダンスが大事だ。
「もうそろそろダンスの時間、ですけれど…いかがなさいますか」
「大丈夫だ、踊るのに支障はない。心配させてすまない」
食事の片付けが終わった頃合いを見て、招待楽団の演奏者たちが広間の隅に楽器を運び始めていた。
ヴァイオリン・チェロ・コントラバス風の弦楽器と、打楽器らしきもの、構造がシンプルなラッパ、暗い音のフルートっぽい楽器、弦の少ない小型のハープ、ピアノ。
トロンボーンやホルン、クラリネット、ピッコロ、オルガンなんかはまだ無いのだろう。こちらの世界の音楽といったら、基本的には弦楽器とピアノがメインで、それ以外はおまけみたいな扱いだった。
まあ、優雅といえば優雅だけれど、元の世界のクラシックのような華やかさはないので少し寂しい。
私とイゼルは、楽団の準備が終わったのを見てから、広間の中央へと進み出た。手をつないだ後に軽く一礼。ダンスパーティー開始の合図だ。
軽やかなワルツが演奏され始めた。
私たちが踊り始めたのを見て、他の貴族も各々の相手と組んでダンスを踊り始める。
右半旋回、左2歩、前3歩、後ろに下がって右1歩、少し待って2回ターン…。
練習してきたステップを間違えないように気を張りながら踊る。
どんな複雑なステップを踏むときでも、天井から1本の糸でひっぱられているように見える綺麗な姿勢を維持しないといけない。
1曲目を無事に踊り終えた時に、今日は調子がいい、と思った。口笛を吹いたおかげか、心と体がとても軽く感じる。
これならすべて完璧に踊りこなせる――と思っていたのだけど…。
「っ…?!」
3曲目の中盤で、急に重い衝撃とともに視界が真っ暗になった。
とっさに何が起きたのかと考えて、派手に転倒したことに気付く。
私がやらかした?
…いや、私じゃない。私のダンスは完璧だった。
信じられないことに、あのイゼルが、ステップを間違えて私とぶつかったらしい。
素早く、でも下品には見えない程度の速度で立ち上がる。イゼルも同時に立ち上がった。
「…」
「…」
当然、目が合う。
イゼルは普段通りの余裕のある態度をなんとか取り繕っていたが、目を見れば明らかに動揺しているのが伝わってきた。
音楽は演奏され続けているものの、私とイゼルの間にとてつもなく気まずい空気が流れる。
近くで踊っていた数名の貴族も私たちの転倒に気づいたらしく、驚いた顔でこちらを見ていた。
その一方で、まだ転倒に気づかずに踊り続けている貴族は少なくない。
今のうちに手早く解決しないと面倒なことになる、と直感的に確信する。
「イゼル様、わたくしのせいで…ごめんなさい…」
「…リジー?」
「すこし体調がすぐれなくって…。本当にごめんなさい。受け止めてくださって、ありがとうございます」
「…いや…」
ぎりぎり周囲にも聞こえる程度の声量で釈明する。私がイゼルを押し倒す形で倒れたので、これが一番マシな言い訳だろう。
一人前の貴族男子が夜会で派手に転倒するなんて、かなりの失態だ。「社交界の白薔薇」なんて大仰な通り名で呼ばれているイゼルならなおさらのこと。
この場は、私の失態と言うことにして切り抜けた方がいい。
会場の隅に控えていたユンが、私の思惑を察してゆっくりと歩み寄ってくる。
「お嬢様、やはり顔色が悪いようですわ。誕生日だからといって無理はいけません。薬湯を用意いたしますので、自室に戻りましょう」
「いいえ、私は大丈夫よ」
「これだけ体調が悪い状態で踊るなんて…もうすこしお体を気にしてください。また倒れてケガでもなさったらと思うと、わたくし心配でなりません」
ユンが血の気の引いた青ざめた表情で、私の手を優しく握りながら言う。手と声が少しだけ震えているのは、気のせいではない。
あまりにも迫真の演技をするものだから、言い出した私まで本気で体調不良だったように思えてきた。
「…」
「さあ、わたくしとお部屋の方に戻りましょう」
「…分かったわ。――イゼル様、皆様。せっかく集まっていただいたのに、申し訳ありません。今日はもう休ませていただきますわ」
ふらつきながら一礼して、ユンに支えてもらいつつ、さりげなく様子をうかがった。
私たちの話に聞き耳をたてていただろう貴族達も、怪しんでいる様子はなく、むしろ気遣わしげな表情になっていて驚いた。
予想以上の反応だ。ユンの演技が上手すぎて、私まで気分が引っ張られたのは大きい。
一瞬、私でさえ本当に気分が悪いような錯覚に陥っていたんだから、周囲の貴族達にも体調が悪く見えたに違いない。
子供だましな嘘だけど、何もしないよりかはマシだろう、と思う。
「そうか…体調が悪いのに私のために無理を押して踊ってくれたのだな。すまなかった。今日は君に会えて良かったよ、リジー。…ありがとう」
イゼルも、申し訳なさそうな顔で私の演技に合わせた言葉を返す。最後の言葉だけは本当の感謝だと分かった。
かわいそうに。完璧主義者だから、今日の失態は内心かなり引きずるだろう。周囲こそ誤魔化せたけど、転んだという事実は決してなかったことにできない。
別れ際、私の手の甲に口づけを落とす様は、まさに白薔薇の君と呼ばれるにふさわしい秀麗さだった。
芝居なんてしなくても、あのイゼルがダンス中に転倒したなんて噂、広まるわけがない――冷静にそう思い至ったのは部屋に戻ってからだった。
イゼルの場合、たとえ転倒が事実だったとしても、実際に見た者でもない限り嘘だと思って信じないだろう。
結果的にうまくいったからよかったけれど、さすがに慌てすぎていた。
自室の寝台に倒れ込んだとき、ふと、イゼルの申し訳なさそうな顔が目の前に浮かんだ。
隙のないひとでも、ああいう表情をすることがあるんだな――。
寝具の中でうつらうつらと考えごとをしていたが、やがて眠気に負けて目を閉じる。今日は、普段より疲れた。もう寝てしまおう。