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呪いが結ぶ明日

 朝の目覚めは、匂いから始まる。


 露をたっぷり含んだ葉が太陽の光を浴び、しっとりとした甘い香りを放つ。

 むせるような土の匂い、少しひんやりとした風の匂い。


 うつぶせ寝からそっと身を起こして、ぐっと伸びをする。

 もう少しのんびりしていたいところだが、空腹が急き立ててくるためしぶしぶ住処(すみか)を這い出た。


 このところ、大したものを食べていないから今日はいつもより足を伸ばしてみようか。


 けもの道を大股で歩きだす。

 私はここにいる、というのを示していかないと、獣に襲われる恐れがあった。

 ついこの間も何の気なしに歩いていて、子連れの熊に遭遇したときは肝を冷やしたものだ。


 ざっくざっく、わっさわっさ、と存在を主張しながら歩いていくと、いくらも行かないうちに見慣れないものが視界に入った。


「……?」


 そろり、そろりと距離をつめていくと、それは襤褸を纏い横たわった一人の人。


 恐ろしく見目の良い若い男だった。


 そっと近づいてのぞきこんでみるが、男は大の字に仰向けになったままぴくりとも動かない。胸の辺りに目をやれば微かに上下しているので、息はしているようだ。

 頭から爪先までじっくりと眺めてみたが、どこにも怪我をした様子もない。


 それにしても。


「いい男……」

 ぽつりと呟いてしまってから、思わず頬に手をあてる。

 なんてはしたない。一応私だって乙女なのだ。独り言にしても恥ずかしい。


 ――でも。


「こんなところに放っておいたら、熊に食べられちゃうよね」


 この辺りはわりと人里近いとはいえ、まだ春が浅いこの時期。冬眠から明けた獣たちは腹をすかせてうろついているのだ。


 そうだよね、そうだよね、と誰にともなく言い訳をして、そっと男を抱える。

 身体は丈夫だし力にも自信はあったが、さすがは男の人。加えて意識がないということもあり、なかなか苦戦するはめになったが、何とか住処まで運び込んだ。


 どこにも怪我がなさそうな男だったが、よく見れば前髪に覆われた額がぱっくりと避けていた。

 表面の血は乾きはじめているようだが、真新しい肉が赤く口を開けている。


「獣の……爪痕かしら?」

 前髪を払うためそっと手を触れると、呻き声とともに男が身動ぎする。


 眠っているというよりは、気を失っている方なのかも。

 とりあえずは手当てをした方がいいだろう。


「……包帯、あったかな」

 ごそごそと行李を探れば、一度も使ったことのない新品の包帯が見つかった。


 自他共に認める不器用さでなんとか包帯を巻ききったところで、ぐう、と腹の虫が主張する。


「やだ。早くごはん探しに行かないと」


 こんな素敵な男の人の目覚めが腹の虫だなんて、どうにも救われない。

 住処の入り口をいつも以上に覆い隠して、再び私は森へ出かけた。


 ◇◆◇◆◇


 果物に茸。小ぶりだがよく肥った魚を籠いっぱいに持って帰ると、変わらず男性は眠っていた。


「うーん……。熱はなさそうだし、このまま寝かせておいて大丈夫かしら」


 首筋に触れると、ぴくりと男性が身動ぐ。軽く肩を揺さぶれば、呻き声が上がった。


「……うっ、こ、ここは……」

「……!気がついたんですね。水は飲めますか?」


 男性の声は思ったよりも低く、なぜか腹の底がぞくりとした。恐怖を感じているわけでもないのに、何なんだろう。


 私が巻いたへたれた包帯のせいで、男性の視界はほとんどふさがれてしまっているようだ。

 巻き直した方がいいのかもしれないが、多分似たようなことにしかならないだろう。


 覚束ない様子で手を出してくる男性に水の椀を渡せば、咽ぶように飲み干した。


「そんなに焦らないで……まだありますから」

「……ありがとう」


 頭から目元までぐるぐる巻きにされていても、目眩を覚えるほどに美麗な微笑みに、私が恋をしたのも無理もない。


 ◇◆◇◆◇◆


 (ウー)と名乗った男性は、なかなか動けるようにならなかった。

 怪我自体はほとんどなかったが、長く山の中をさ迷い歩き、まともな食事をしていなかったことが彼の体力を奪っていたようだ。


 私の作る食事も粥のようなものをすすったり、小さく切った果物を口に含むだけで精一杯だ。


「ありがとう、(シュエ)

 温かな低い声に、きゅっと胸が痛くなる。

 もっとその唇で名を呼んでほしい。その髪を、その肩をかき抱いて、誰にも渡したくない。


「ううん、(ウー)。早く良くなってね」

 どうか、一日も早く。

 こんな女から、早く逃げて。

 そう思う一方で、このまま動けなかったらいいのに、と願う私がいる。


 ……もう、逃がしてあげられないかも知れない。


 ◆◇◆◇◆◇


 彼はこの大陸の生まれではなく、すぐ隣の島国で生まれ育ったらしい。

 かなり良い家の生まれのようで、見聞を広げるためにこの大陸へ来たという。


 見たこともない異国の話、聞いたこともない食べ物の話、海に浮かぶ船という乗り物の話……。

 次々せがむ私に、(ウー)は長いこと語ってくれた。


「……そういえば、ご家族もきっと心配してるよね」

「いや、気楽な次男坊だからな。家は兄が継ぐし、大して期待もされていない。どこぞでの垂れ死んでいると思われているだろうさ」


 自嘲するように(ウー)が言う。

 額の傷がまだ癒えていないため瞳の色は見えないが、声色には悲しみがあった。


「……そんな言い方しないで。きっと(ウー)を心配してるわ」

「優しいな、(シュエ)は」


 薄く形の良い唇が弧を描けば、私の胸は甘く痛む。

 その声で愛を囁かれたら、どんな気持ちになるだろう。

 その逞しい腕で抱かれたら、どんな気持ちになるだろう。


 たまらず私は篭を持って立ち上がる。


「……どうした?」

「ううん、何でもない。ちょっと食べ物を探してくる」


 住処を出て、大股で歩く。

 心臓が耳元にあるかのように、どくどくと鼓動がうるさい。


 いっそ(ウー)がうまく動けないうちに、無理やり手込めにしてしまえばいいのではないか。

 どこにも行けないように、誰のことも思い出さないように。

 そこまで考えて、私は自分の腕を見下ろす。

 山で鍛えられた太い腕、厳しい冬を越えられる肉付きの良い身体。


「……だめ。どうやっても、無理」

 そもそも、手込めってどうやるんだろう。服を脱がせたらどうにかなるのだろうか?

 今まで(ウー)の身体を拭く手伝いは何度もしたが、何ともならなかったのは、何がいけないのだろう?


 そのとき、がさり、と茂みが揺れて、ハッとした。

 足音を消してゆっくりと茂みに近づく。

 葉陰でひこひこと忙しなく動くのは二本の耳。

 ―――兎だ。

 あれがあれば、(ウー)にもっと体力をつけてもらえる。果物や魚ばかりでは力がでないだろう。


 息を殺してさらに距離をつめる。

 そのときの私は、(ウー)と食べる兎汁のことしか考えていなかった。

 悲しい別れがすぐそこまで迫っていることなど、知るよしもなかったのだ。


 ◇◆◇◆◇


 見事兎を捕らえてほくほく気分で住処へ戻れば、入口近くに(ウー)がいた。

 かがみこんで野草でも摘んでいるのだろうか?


(ウー)、ただいま!」

 声をかければ、立ち上がった(ウー)がこちらを振り返った。

 夜闇のように黒い瞳が私を映している。

 初めて見るそれは、とろけるように美しく、私の胸を高鳴らせた。

「あれ、(ウー)、包帯はずし…」

「うわぁあぁっ!ば、化け物!」


 私の問いかけは、(ウー)の叫び声で最後まで言うことはできなかった。

 耳朶を打つことばに呆然と立ち尽くすと、ガツッと右腕に痛みが走る。

 足元を見れば拳大の石が転がっている。

 何が、と(ウー)を見ると、さらに石が飛んできた。とっさに顔を庇った腕に当たり、ごろりと地に落ちる。


「あっちへ、行け!この!けだもの!!」

「…………っ、ど、どうして」


 どうして、(ウー)は私に石を投げるの。

 どうして、そんな目で私を見るの。


 わけがわからず、悲しくて悲しくて、石が当たったところよりも胸が痛い。


「ね、やめ……」

「来るなっ!この!」


 (ウー)が私を拒絶している。

 その事実に目の前が真っ暗になり、あんなに大好きだった(ウー)という名前も、呼びかけることができない。


 ―――誰か助けて。

 がっくりと両手を地面についたとき、頭上で雷鳴が轟いた。



 ◇◆◇◆◇


「気がついたかぇ?(シュエ)

 心地の良い微睡みから身を起こせば、虎の尾を持つ美女が私の傍らに座っていた。


 このお山を守り、育て、導いてくださる、女神さま。


「お母さま……」

「まったく、ほんに恩知らずな男じゃの。命の恩人をけだもの呼ばわりし、石を投げるとは。どちらがけだものじゃ」


 憎々しげに母が言う先を見れば、(ウー)がうつぶせで倒れていた。


「悟……」

「触るでない」


 ぴしゃりと言われれば、私の両足は地に縫い止められる。母の言うことは絶対なのだ。


「よいか、(シュエ)。おぬしはわらわの創る箱庭の愛しい子。人の身でわらわの庭に迷い入っただけでなく、愛しいおぬしに刃を向けるのは大罪じゃ」

「で、でも、何かわけがあったんじゃ……」


 慌てて言いつのろうとするが、母は眉をつり上げる。


「わけなどあるか。この男はおぬしの見た目だけでおぬしをけだものだと判断した。おぬしの心に惹かれていたにも関わらず、真の姿を見抜けなかっただけじゃ」

「…………」


 無理もないとは思う。

 私は元々ただの貧乏農家の娘だった。

 飢えて痩せ細り、泥の中で死んだところ、哀れに思った母さまが拾い上げて今の身体を与えてくださったのだ。

 元の人間の身体には似ても似つかないけれど、丈夫で、我ながら気に入っていた今の身体。


「母さま、私は人と似ても似つかないものです。(ウー)が驚き忌避するのも、仕方がないと思います」

「はん。ならばなぜ、目を覆っていたときはそなたに優しくした」


 それは、見えなかったから。

 私のこの白黒の身体が。太い手足が。大きな口が。

 私が大熊猫(パンダ)だなんて、思っていなかったから。


「もし、もっと時間があったら……(ウー)だって……。私のことを受け入れてくれたかもしれない」


 きっといきなりで驚いただけだ。

 目の前の大熊猫(パンダ)(シュエ)だとわかれば、石を投げたりなんてしなかったはずだ。


(シュエ)よ、わらわは憤っておるのじゃ。目に映るものに惑わされ、大事なわらわの子を傷つけた。報いは受けてもらわねばならぬ」


 ふわり、と母さまが扇を振れば、薄衣のような煙が(ウー)を包む。


「何を……!」

「呪いじゃ。この男の血を引く男子は皆、真実想うおなごの目には、(シュエ)の姿で映ろう。じゃが……もしもおぬしが言うように、時間をかけて真実の愛を育めたなら……」


 そのときは呪いは解いてやろう。


 優しく言い残して、母さまと(ウー)は消えた。

 あるのは住み慣れた私の住処、まだ温かい兎、私を打った石……。

 ほろりと涙がこぼれる。


「私……汚い」


 (ウー)が好きになる女の人には、(ウー)大熊猫(パンダ)に見える。


 ―――ざまあみろ。

 私のものにならないから。私に石を投げたりするから。

 ―――ざまあみろ。

 本当に愛する人とは結ばれるわけもない。


 なのに。


「……ど、して。涙が出るの」


 わけもわからないまま、私は泣き続けた。




 ◇◆◇◆◇


「……って、何泣いてるの?!」

「あ、明日美ちゃん……。僕は今、自分が恥ずかしいよ……」


 二人が付き合いだしてちょうど一ヶ月。

 健吾の祖父の強い希望もあり、明日美を家に連れてきた帰り道だった。


 夕焼けの堤防を歩きながら、健吾の頬は涙に濡れている。


「命を……っ、助けてもらったのに……!見た目で判断されることがどんなにつらいか……」

「いや。だって勝手に私が考えただけだし」


 健吾の祖父から聞いたのは、『六代前の藤原家の男子が、雌パンダの怒りを買った』ということだけだ。

 雌パンダの怒りを買うということは、色恋かな、と少し想像を膨らませて語っただけなのだが……。


「ねえ、藤原くん。そんなに泣かないでよ」

「うぅ……ううっ……」

 綺麗にアイロンがかけられたハンカチで健吾が涙を拭う。

 単に想像を膨らませてした話でここまで泣くなんて。

 仕方がないなぁ、と息を吐いた明日美が、健吾の腕にそっと腕をからめた。


「……っ!」

「あのね、もし藤原くんが普通の男の子に見えたら、多分こんなことにはなってなかったと思う。私の好みは藤原くんとは全然違うし」


 一瞬舞い上がりかけた健吾が、微妙な顔で眉を下げる。

 少し前までは直視するのが恥ずかしかったその顔が、今は情けなくて頼りなくて……でもとても好きだと明日美は思う。


 まだそれをそのままことばにするのは、恥ずかしいけれど。


「私だけのパンダでいてくれて、ありがと」


 頬をかすめた柔らかな唇に、塩辛い涙が吸い込まれていった。

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