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「どうした。ぶすっとした顔して」
「元からブスですから」
「何だ。本当に不機嫌だな」
「別に何でも無いです」
カシスオレンジのグラスを引き寄せて、和奏はむすっとした顔のまま口をつけた。
今日の斗真は車での出勤ではなかった。そして帰りが電車なら存分に酒も飲めるという事で、二人は個室のある居酒屋へとやってきていた。ほの暗い照明の洒落た店は、若いカップルや女子会などでの使用が多いらしい。
そんな店の個室に腰を落ち着けた二人は、今回の顛末について振り返りながら、今後の方向性を話す事にした。
「都子の件は解決したが、まだしばらく契約は履行する」
斗真の言葉に和奏は頷く。
「まあ……そうだろうと思ってましたし、いいですよ。これでいきなり別れたなんて話になったら、私も都子さんに申し訳が立ちません」
あの少女をあれだけ傷付けたのだ。付き合っていると嘘をついて遠ざけて、その後あっさり別れでもしたら、あの少女は果たして何と思うだろうか。
過ぎてしまった事は仕方の無い事だ。それ以上考えてもどうしようもなるまい。
それよりも、和奏の不機嫌の理由は別にあった。
「……って言うか、訊いてもいいですか」
一口二口しか飲んでいないのに、和奏の目は既に据わっていた。酔った訳ではなく、素面の状態でそういう顔をして上司を睨みつけている事は明白だ。
「どうして、もっと早く教えてくれなかったんですか」
「何をだ」
「都子さんの事、きっぱり振ってたって話をですよ!」
斗真には既に振られている、と。
都子がそう言わなければ、もしかすると和奏はその話を一生知らなかったかも知れない。
そしてそれを知っていたのなら、和奏もあそこまで罪悪感に苛まれずに済んだかも知れなかったのだ。嘘をついて騙して曖昧なまま遠ざけるのではなく、きちんと斗真の口から「都子とは結婚出来ない」と発言したのだから。どちらにせよ、断る理由が「和奏と付き合っているから」という偽物の理由であったにしても、適当にかわそうとするのではないだけ、まだマシだ。
和奏の言葉に、斗真はまるで悪びれた様子を見せずにサラリと、
「話そうとは思ったんだがな。機を逃した」
と言った。
「機を逃したって……結構大切な事だと思うんですけど」
「悪かった」
淡々とした口調でそう言われても、まるで誠意が感じられない。はぁっと溜息をつく和奏の隣で、斗真はビールのジョッキに口をつける。和奏はまだビールの味が分からないが、彼ぐらいの年齢になれば美味しいと思う日も来るのだろうか、などと的外れな事まで考えてしまう。
「何にせよ、ずっとあのままでいる訳にもいかなかったからな。今回の事はお前に大分助けられた」
「はあ……。ああでもそれなら、立川さんも労ってあげてくださいよ」
「立川くんか?」
「ええ。あの人も大分色々と頑張ってらしたみたいですよ。良く分かりませんけど」
我儘なお嬢様の言う事を聞きながら、あの青年も上手い事動いていたように思う。和奏の言葉に斗真はふっと笑い「そうだな」と返した。
◆ ◇ ◆
その後、仕事の話なども交わしつつ、気付くと二人がこの店に来てから既に二時間が経過していた。
そろそろデザートでも、と甘味を注文し、やがて和奏の注文したプディングと斗真の注文したシャーベットが届く。斗真は柚子シャーベットを一口食べるとふっと表情を和らげた。今日は酒も入っているせいか大分リラックスしている様子だが、甘い物を食べて顔を柔らかくする所を見ると、やはり彼は本当に甘味が好きなのだろうと思う。
「斗真さん、これ一口食べます?」
プディングを生クリームと共に掬い、和奏はスプーンを手前に差し出す。
「ん、ああ。じゃあ一口」
頷いた斗真は、そのままの体勢で待機した。和奏はスプーンを斗真に手渡すつもりだったのだが、彼はそうではなかったらしい。
「……あの、斗真さん、スプーン取ってください」
「何だ、食べさせてくれるんじゃないのか?」
「えっ」
――この男はこういう事を言うタイプだったろうか?
予想外の彼の言葉に、和奏は大袈裟なほどに目を円くし、それから顔を背けながらスプーンを更に前へと差し出した。個室だから誰も見ていないと分かってはいるが、何だか無性に恥ずかしい気がした。
そういえば前にも車の中で、パウンドケーキを彼が手ずから食べさせてくれた事があった。あの時も和奏ばかりが恥ずかしかったような記憶がある。
「……ど、どうぞ」
「可愛げのない奴だな」
ふぅ、と溜息混じりに呟いた斗真の手が、不意に優しく和奏の手を包み込む。
「え、ちょっ」
ぎょっとする和奏をよそに、スプーンを持つ手をそのまま引き寄せるようにして、彼はプディングに食らいついた。「うん、美味い」と小さく感想を漏らしてから、斗真はレンズの奥の瞳を細めて笑った。
「しかしお前、最初に借金抱えたって分かった時はキャバ嬢になるとか言ってた癖に。この程度も満足に出来ないのか」
「それはっ、その、あれですよ。仕事ならちゃんとしますけど」
「今は?」
「え?」
「契約恋人の仕事って事にするのなら、これだって仕事じゃないのか?」
「それは……」
仕事だと言われれば確かに仕事なのだ。最初に映画を見てパフェを食べた時だって、和奏はあれを間違いなく仕事だと思って遂行していた。その関係性はあの時と今と何も変わらない筈なのに。
けれど、和奏の心は変わっていた。仕事だけだと思えない。そんな風に割り切れない。怖いと思っていた筈の上司を、彼を、いつの間にか特別だと思うようになってしまったから。
「と、斗真さん」
「何だ」
「あの……放して……」
斗真の手は先程からずっと和奏の手を捕まえたままだった。スプーンを持った小さな手が、彼の大きな手の中で微かな羞恥に震えている。
ああそうだった、と呟いてからようやく手を離した上司を見て、和奏は少し困ったように訊ねた。
「……もしかして、酔ってます?」
「そうかもな」
あっさりと認められ、和奏は拍子抜けする。しかし本当に酔っているのかそうでないのか分からないが、斗真は酒を飲んでもあまり顔には出ないようだ。
都子の話では、斗真は過去に『遊び』で何人かの女と付き合っていた事があるようだった。斗真も良い年齢だし、この見た目で周りの女が放っておくとは思えない。だからその話も、和奏は割とすんなり受け入れていた。
そもそも都子の話は、恐らく斗真が若い頃の話だと思われた。少なくとも和奏が入社してからの三年間、和奏の知る限りでは彼に女の影が見えた事は無い。言い寄る女は多数居たが、彼がそれらを相手にしているようには見えなかった。
しかし、これは。
あくまでも契約上の――ビジネスとしての恋人、という扱いの和奏に、斗真は何故このような事をするのだろうか。分からない。女に慣れているから、こうして触れる事にもあまり抵抗が無いのだろうか。過去はともかく、今現在の彼はそういうタイプには見えないのだが。
「和奏」
不意に名前を呼ばれ、和奏はハッとする。
「えっ、あ、はい?」
「ついてる」
そう言うと同時に、斗真の長い指が和奏の顔へと伸ばされた。彼の人差し指が和奏の唇の端をそっと拭う。プディングに乗っていた生クリームが、和奏の唇に残っていたのだ。
斗真は極自然な動作で、拭ったそれを舐め取った。そんな彼の行動が妙に恥ずかしく感じられて、和奏はつい俯いてしまった。