序章
「お兄ちゃん、いる?」
「いる」
「今夜はね、あたしの十四歳最後の夜なんだよ」
「知ってる」
「じゃあ、十四歳のあたしに何か言っておくことない? 最後のチャンスだよ」
「夜の薬、飲んだか?」
「……それが遺言?」
「いなくなるのは十四歳のおまえで、僕じゃない。僕はこの先も生きるんだよ」
「飲みましたー」
うさぎのスタンプが来た。うさぎが地面に膝をついて、両手で何かを頭の上に捧げ持っている。何を捧げているのかは潰れていてわからない。うちのスタンプには説明書がないので、解読は臨床経験に頼る。経験によれば、このうさぎは「下がってよし」という意味だ。
夜の十一時二十六分。送り主は壁の向こうで寝ている。壁は石膏ボードで、布団の中で寝返りを打つ音まで聞こえる薄さだ。
それでも彼女はLINEを使う。
*
朝の七時二分、母さんからメッセージが来た。
「引き継ぎです。遥、誕生日おめでとう。朔、ケーキ代は電子レンジの中。温めないこと」
電子レンジを開けると、本当に封筒が入っていた。うちの大人は一人しか残っていなくて、しかも夜勤だから、伝言は昼間に絶対開けられない場所を選ぶ必要がある。冷蔵庫はだめだ。遥は一日に二十回冷蔵庫を開ける。電子レンジを使うのは僕だけだ。この家の通信プロトコルは、家電の使用頻度で決まっている。
封筒のお金はケーキより千円多かった。余分な千円は、母さんから僕への信頼であり、テストでもある。僕は封筒をレンジに戻して、扉を閉めた。
遥が部屋から出てきた。もう制服を着ている。汐見高校の制服を初めて着たのが三日前で、今日が四日目だ。玄関の鏡の前で、シャツのいちばん上のボタンを留めて、その上からリボンを押さえる。四月になって、通学路ではもう襟元を開けている人もいるけれど、彼女のボタンは一年中いちばん上まで留まっている。
「誕生日おめでとう」と僕は言った。
「ありがと。で、プレゼントは?」
「夜に渡す」
「自分で選んだやつ? それともネットで『十五歳 女子 プレゼント 外さない』って検索したやつ?」
「『十五歳 女子 プレゼント 怒られない』で検索した」
「それ、怒られるやつじゃん」彼女はリュックを背中に放り上げた。リュックにぶら下がったスライムが揺れる。「行こ。今日は二回まで怒っていいんだよ。誕生日だから」
僕は靴箱の上のトートバッグを持ち上げた。
深緑で、洗いざらしで色が抜けている。二年使っている。中身は遥の昼の薬、予備の丸一日分の薬、マスク、カイロ、充電ケーブル、ビスケットが一袋、それに彼女の診察券番号と主治医の名前を書いたカード。カイロは彼女の手のためだ。彼女の手足は一年中冷たい。四月でも同じだ。
このバッグの正式名称は「携帯用救急箱」だと思う。でも、救急箱を背負って登校する男子高校生というのは、なんだか悲惨な話に聞こえる。悲惨な話は読む人が疲れるし、僕も疲れる。だからトートバッグと呼んでいる。
*
汐見高校は城山の上にある。
小田原駅の西口を出て、道を一本渡ると、学校へ続く石段がある。このあたりの人はそれを百段坂と呼んでいる。実際は百三十段以上あって、途中に休める踊り場が二つある。百三十段以上ある階段を「百段」と呼んで、誰も気にしない。それが小田原が新入生に教える最初の授業だ。看板に書いてある数字は、だいたいでしかない。
朝の七時四十分、百段坂は同じ制服で埋まる。運動部は一歩で二段、遅刻しそうなやつも一歩で二段、悪態をつきながら。一年生は端っこを歩いて、何段か上るたびに振り返る。石段の上で振り返ると、海が見えるからだ。新入生が海を見るのはだいたい一週間で、そのあとは息を切らすので精一杯になる。
遥はいちばん手すりに近い側を歩く。左手で手すりをつかんで。
もし百段坂で彼女とすれ違っても、何か違うとは思わないだろう。一年生の女子で、ショートカットで、新しい制服で、リュックにゲームのスライムをぶら下げている。顔色は人より少し白いけれど、四月の朝なんて誰だって血色はよくない。
違うのは一つだけだ。上るのが遅い。みんなは一歩で一段、彼女も一歩で一段。ただ、一段ごとに半拍止まる。誰かの許可を待つみたいに。
許可を出しているのは、彼女の心臓だ。彼女の心臓は心室が一つしか働いていない。本人いわく「ひとり会社。社長兼社員、残業代なし」。四歳までに三回手術を受けて、最後の一回はフォンタンという名前で、全身の血管の道筋を変えて、その一つの心室で体ぜんぶを支えられるようにした。
手術は成功した。学校に行けるし、ケーキも食べられるし、僕と喧嘩もできる。ただ、走れない、泳げない、風邪をひけない、階段はゆっくり、薬は一生。
だから毎朝、彼女は人の倍の時間をかけて、この百三十段あまりを上る。
僕は彼女の後ろ、二段下を、トートバッグを提げて歩く。
二段下、というのはネットで調べた。人が後ろに倒れたとき、二段下にいる人間がちょうど胸で受け止められる。調べたページのタイトルは『酔った上司を安全に家まで送り届ける方法』だった。出典は遥に話していない。
二十何段目で、遥は立ち止まって、手すりにつかまって息を整えた。そばにいた、ボールバッグを担いだ男子が足をゆるめて、彼女の顔色を見て、ごく自然に手を伸ばした。
「大丈夫? 上まで引っぱろうか?」
遥は顔を上げて、彼に笑いかけた。歯が見えるくらいの、きれいな笑顔だった。
「ありがとうございます、大丈夫です。リハビリ中なんですよ。引っぱってもらうと、一段目からやり直しになっちゃうんです」
「……うわ、大変だね。がんばって!」
男子はボールバッグを担いで、一歩二段で去っていった。だいぶ先に行ってからも一度振り返っていた。彼女が一段目に戻されていないか、確かめたかったんだと思う。
リハビリなんかしていない。彼女は本当のことより嘘のほうが流暢だ。小児病棟で育った子どもはみんなそうなる。看護師さんに「今日は痛い?」と聞かれたら、どこがどう痛くて昨日と比べてどうなのか説明するより、「痛くない」と言うほうがずっと楽だからだ。
「リュックに、あれ入ってるだろ」と僕は言った。
「どれ?」
「赤いやつ」
遥のリュックの内側には、ファスナー付きのポケットがある。そこに赤い小さなタグが一枚眠っている。白い十字の下に白いハート。「ヘルプマーク」という、見た目は平気そうでも実は助けが必要な人がカバンにつけるためのものだ。市役所でただでもらえる。彼女はもらってきた日にそれをポケットにしまって、本来ぶら下げるはずの場所にスライムをつけた。
「出しておけば、あの人も聞かなくて済んだだろ」
「出しておいたら、あの人は聞かなくなるよ」遥は言った。「いきなり支えてくる」
「それでいいんじゃないのか」
「お兄ちゃん」彼女は手すりをつかみ直して、一段上った。「階段で一人で息を切らしてたら、みんな『あの子、具合悪いのかな』って思うでしょ。あれをつけて階段で息を切らしてたら、みんな『ああ、そういう人なんだ』って思うの」
「どういう人だよ」
「支えてもらわなきゃいけない人」
「おまえはもともと支えてもらわなきゃいけない人だろ」
「だから、つけちゃだめなんじゃん」
この理屈にはどこかに穴がある。二年探しているけれど、まだ見つからない。
*
一つ目の踊り場には、とても古い桜の木がある。
今年は開花が早くて、三月の終わりに満開になって、今は枝先にほんの少し桃色が残っているだけだ。石段には踏まれて茶色くなった花びらが敷きつめられている。遥は踊り場で立ち止まって、柵に背中をあずけて、息を整えた。
協定により、彼女が休んでいるあいだ、僕は彼女をじっと見てはいけない。じっと見ると、呼吸を数えているみたいだから。
僕は海を見ながら、耳で彼女の呼吸を数える。協定に耳のことは書いていない。
「お兄ちゃん、一枚撮ってよ」
彼女はスマホを差し出して、桜の木の下に立って、やる気のないピースをした。
「十五歳初日の記念なんだから、かわいく撮ってよね」
僕はスマホを構えた。朝の光が海のほうから斜めに差して、彼女の顔は半分が木陰に入っている。一歩左へ。花の残った枝を画面の右上に入れて、水平線は低めに、彼女を置くのは――
「ただの写真だってば」遥が言った。「何にピント合わせてんの」
「光がちょっとな」
「あたしの顔が合ってればいいの」
「顔の半分が影になってるんだよ」
「それは、かっこいい横顔って言うの」
僕はシャッターを押した。彼女はスマホを受け取って一度だけ見て、いいとも悪いとも言わずに、そのままLINEのアイコンにした。これが彼女の採点方式だ。不合格の写真は消される。合格の写真は保存される。満点の写真はアイコンにされて、人前では適当に撮ったふりをされる。
中学のころ、何年か写真を撮っていた。カメラは駅の裏の写真館に貸してもらった、すごく古いフィルムカメラで、ファインダーの中に拭いても取れないほこりが一粒あって、何を撮ってもほくろがついているみたいになった。撮ったのはほとんど、遥が行けない場所だった。朝五時の城山、箱根の山頂、煙を上げる大涌谷の斜面。現像して見せると、彼女は構図のことは一度も言わなかった。そこは寒かったか、歩いてどれくらいかかるか、山頂に何か売ってたか。聞くのはそれだけだった。
十三歳の秋、彼女は初めて不整脈を起こして、一か月以上入院した。僕は毎日、放課後に病院へ行って、面会時間が終わってから家に帰った。週末の朝早く写真を撮りに出かけていた時間は、面会時間になった。その冬、僕はカメラを写真館に返した。
誰に言われたわけでもない。計算してみたら、一日にそんなに時間はないとわかっただけだ。
トートバッグを背負いはじめたのも、そのころからだ。
「ぜんぶ散っちゃった」遥は木を見上げた。
「まだちょっと残ってるだろ」
「あたし誕生日なんだけど。ちょっとくらい待っててくれてもよくない?」
「おまえの誕生日がいつかなんて、木は知らないよ」
「ここに百年も立ってて、何万人も下を通るのを見てきたんでしょ。誰の誕生日がいつかくらい、覚えといてよ」
「何万人ぶんの誕生日を覚えるのは、花を咲かせるよりずっと難しいぞ」
「あたしの分だけでいいってば」
坂の下から風が吹き上げて、枝先の最後の花びらが何枚か落ちた。一枚が彼女の短い髪にのった。その髪は彼女が中学の卒業式の日に自分で切りに行ったもので、本人いわく「いちばんかっこいい長さ」だ。花びらはしばらくそこにとまって、風に連れていかれた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
遥は僕を見ずに、空っぽになった枝を見ていた。まだ息が上がっていて、言葉はとぎれとぎれに出てきた。
「来年の今日、忘れないでね」
一年前、彼女は小田原中央病院の六階のベッドで、一枚のリストを書いた。タイトルは「お兄ちゃんとしたいこと」。病院の売店で買ったメモ帳に、すごく大きな字で書いてあった。そのころ、彼女の手は震えていた。リストに並んでいたのは、ほとんどが現実的なことだった。回らないお寿司を一回食べる。江の島の、上りしかない屋外エスカレーターに乗る。お兄ちゃんのスーツ姿を一回見る、括弧つきで「お葬式のじゃないやつ」。
このうち半分以上はもうやった。スーツの項目だけまだだ。僕はスーツを持っていないし、お葬式じゃない場面もない。
最後の項目は、こうだった。
十六歳の誕生日に、いっしょに小田原城の夜桜を見に行く。
なんで十六歳なのか、十五歳じゃだめなのか、聞いたことがある。十五歳のほうが近いし、小田原城は城山の反対側にあって、教室の窓から天守閣の屋根が見えるくらいだ。彼女は、十五歳のあたしにはまだ夜桜に着ていける服がないけど、十六歳ならさすがにあるでしょ、と言った。
僕はそのとき言い訳だと思ったし、今もそう思っている。でも、言い訳は彼女のもので、実行は僕の担当だ。
その夜、僕はスマホのカレンダーを開いて、来年の四月十日のところに、一文字だけ書いた。
桜。
一文字だけ。たくさん書いたら、誰かに何かを約束しているみたいになるから。
「忘れないよ」と僕は言った。「カレンダーに書いてある」
「カレンダーは嘘つくよ」遥は柵から離れて、スカートの花びらを払って、また手すりをつかんだ。「お兄ちゃんはつかない」
そう言うと、振り返らずに上っていった。だから聞きそびれた。「お兄ちゃんは嘘をつかない」なのか、「お兄ちゃんは忘れない」なのか。
それは別々のことだ。後のほうなら、自信がある。
*
坂の上に着いたとき、ちょうど予鈴が鳴った。
遥はいちばん上の段に立って、一度海を振り返った。新入生が海を見ていい期間はもう終わったぞ、と言うと、今日は誕生日だから一日延長、と言われた。誰が決めたんだと聞くと、あたし、今、と言われた。
それから彼女は、振り向かないまま後ろに右手を差し出した。
僕はその手に小さなピルケースをのせた。昼の分だ。
「食後に飲めよ。水で。ジュースじゃなくて」
「わかってるってば。もう百回聞いた」
「そんなに言ってないだろ」
「百段坂だって百段じゃないじゃん」遥はピルケースをポケットに押しこんだ。「それでもみんなそう呼んでるでしょ」
彼女は一年生の靴箱のほうへ歩いていった。スライムがリュックの上でゆらゆらしている。途中で同じクラスの女子が追いついてきて声をかけると、彼女は振り返って笑った。ボールバッグの男子に向けたのとは違う笑い方だった。少し短くて、少し本物だった。
僕はその場でしばらく待った。その子と並んで校舎に入っていくのを見届けてから、二年生の靴箱へ向かった。
ずっとトートバッグを提げていたせいで、右肩が少しだるい。今日はたぶん気圧が低い。
*
放課後、遥は先に帰ると言った。
「一日じゅう階段を上ったんだから、誕生日の人には寝転がる権利があるでしょ。ケーキはよろしくね」
ケーキは彼女が一週間前に自分で予約したものだった。城山を南へ下りた、箱根板橋のあたりにある古い店だ。いちごのやつ。毎年いちごを頼む。よその家の誕生日ケーキはサプライズだけど、うちの誕生日ケーキは一枚の注文書で、誕生日の本人が注文して、兄が受け取りに行く。
彼女は一人で坂を下りていった。下りは上りより楽だ。それでも僕は坂の上に立って見ていた。彼女が一つ目の踊り場を曲がって見えなくなるまで。そのとき、ポケットのスマホが震えた。
「上から見てるの禁止!」
僕はスマホをポケットに戻して、城山の南側へ下りた。
ケーキ屋は旧東海道沿いにあった。開店して四十年、店はお客さんが二人立てばいっぱいになるくらいの広さで、ショーケースのケーキはみんなおとなしくて、映えようとしているのは一つもない。頭にバンダナを巻いたおばさんが、僕が遥の名前を言うと、冷蔵ケースから白い箱を出して紙袋に入れて、保冷剤を一つ足してくれた。
お金を払おうとすると、もういただいてますよ、と言われた。遥が予約したときに払っていた。自分のお年玉で。母さんが電子レンジに入れた封筒は、今夜も無事だった。
*
店を出ると、もう六時近かった。
駅へ戻るには、登山電車の踏切を一度渡らなければならない。
このあたりの登山電車は線路が一本しかなくて、踏切は廊下みたいに狭い。両側の遮断機のあいだにゴムの板が何枚か敷いてあって、七、八歩で渡りきれる。こちら側に立っていると、向こう側の人の靴ひもがほどけているかどうかまで見える。
僕が着いたとき、ちょうど警報が鳴りはじめた。赤いランプが右、左と点滅して、遮断機が下りてきて、僕の胸の高さで止まった。
夕方の旧道には、ほとんど人がいなかった。こちら側には僕と、ケーキの箱一つだけ。紙袋を提げて、スマホを見る。遥から写真が届いていた。リビングのテーブルに皿が二枚とフォークが二本並んでいて、ろうそくが一本、もう立ててある。ろうそくは何にも刺さっていない。テーブルにガムテープで貼りつけてあった。
「準備完了! ケーキ来たら残りも立てる」
「なんで先に一本立てるんだよ」
「リハーサル」
電車が左から来た。赤い車体の四両編成が、鼻先を一両ずつ通りすぎていく。巻き起こった風で紙袋が脚に貼りついた。窓の中には、仕事帰りの人、窓にもたれて眠る人、それから顔をガラスに押しつけてこっちに変顔をしている子どもがいた。返す暇はなかった。
最後の一両が過ぎて、風が止んだ。警報はまだ鳴っている。
遮断機の向こうに、人が立っていた。
女子だった。汐見高校の制服。小柄で、背負ったリュックが背中より広く見える。ショートの髪は毛先が内側へくるんと丸まっていて、前髪は厚くてまっすぐで、ちょうど眉にかかるところで切りそろえてある。その前髪の下に、丸いフレームの眼鏡。
両手でカメラを構えていて、レンズはこちらを向いていた。
僕は彼女を知っている。
東雲灯里。二年生で、同じクラスだ。
新学期が始まって数日、僕が彼女について知っていることは一つしかない。リュックにカメラが入っていて、休み時間にたまに取り出して、窓の外を一枚撮る。午前中に撮るのは多くて一枚。
今日までに僕が彼女と交わした言葉は、全部で一言。「ちょっと通して」。
カメラは銀色で、とても古くて、角の塗装がはげて下の真鍮がのぞいていた。レンジファインダーの、フィルムのやつだ。何年か写真を撮っていたから、見ればわかる。オートフォーカスもないし、液晶もない。押したあと何が写ったかは、現像するまでわからない。今はフィルム一本が二千円以上して、三十六枚撮り。一回押すたびに六十円。
彼女のレンズが向いているこちら側には、僕とケーキの箱しかない。
警報が止んだ。
赤いランプはまだ点滅していて、遮断機はまだ上がっていなかった。その数秒、旧道には音が一つもなかった。だから、はっきり聞こえた。
カシャ。
とても小さな音だった。向こう側で誰かが、とても小さな箱のふたを閉めたみたいな。
遮断機が上がった。
彼女はカメラを目の前から下ろして、親指で巻き上げレバーを一度動かした。僕はまだその場に立って、彼女を見ていた。本当なら、遮断機が上がったんだから、僕は向こうへ歩いていくべきだし、彼女もこっちへ歩いてくるべきだった。七、八歩の廊下の真ん中ですれ違って、せいぜい会釈を一つ。
僕は動かなかった。彼女も動かなかった。
丸いフレームの奥に、すごく大きな目があった。眼鏡のフレームにおさまりきらないくらい大きな目。彼女はその目で、線路一本ぶん離れたところから僕を見ていた。撮ったばかりの、まだ現像していない写真でも見るみたいに。
「朝凪くん」
僕の苗字だった。ごく自然に呼んだ。もう何度も呼んだことがあるみたいに。
「きみは、来年の今日に死ぬよ」
どう返せばいいのか、まだ決められなかった。笑うべきか、「頭おかしいのか」と言うべきか、「どういう意味だ」と聞くべきか。僕が決めるより先に、彼女が笑った。
口元が少し動いて、目が細くなった。ずっと我慢していた冗談をやっと言えて、しかも思っていたよりずっとウケた、みたいな顔だった。
「――うそだよ」
彼女はカメラの上のフィルムカウンターに目を落とした。さっきの言葉は「今日はいい天気だね」と同じで、言ってしまえばもう気にしなくていいもの、みたいに。
僕は踏切のこちら側で、ケーキを提げて立っていた。
ポケットのスマホが一度震えた。たぶん遥が、今どこ、と聞いている。
来年の今日。
スマホのカレンダーの、来年の四月十日の枠を思い出した。
その枠には、「桜」と一文字、書いてある。




