第一幕『雨が止むまでこの恋を』第一場
※生真面目な指揮者見習いのセデュ(24)とろくでなし天才美少女ピアニスト(18)のルーの話です。
「舞台の上の君は実に美しかった。まるで美の女神アフロディテが舞い降りたかのように…君のその豪奢なブロンドがスポットライトを浴びて一際輝く様を、その真珠色の肌が艶やかに紅潮して蕩けるような君のエメラルドの瞳がきらめく様を、僕は客席で息を飲んで見詰めるしかなかった…」
面前の男の長広舌に適当な相槌を打ってグラスを傾ける。ボクの生まれ年のワインだとかなんとか言っていたそれはもったりと濃くて薫り高い。大皿に盛られたビスティカ・ディ・カバッロ(馬肉ステーキ)の付け合わせのニンジンをちょんちょん突きながボクは愛想笑いして窓外に目を遣る。ぴかぴかに磨かれたガラス窓の外には街灯がぽつぽつと灯っているだけで人通りはない。こんな人気のない場所に誘い込んだこいつの魂胆はわかっている。伊達に数年間芸能界に席を置いていたわけじゃない。男はみーんなオオカミなのだ。ただひとりを除いては。
デザートにフランボワーズのタルトを白ワインで頂いて、ナイフとフォークを置いたボクはナプキンで口元を拭う。退屈なおべっかにつきあった手間賃と考えるにはいまいちの食事だった。ただ料理だけ出されたならもうちょっと楽しめたかも、だけど。
「もう時間も遅い、上で休んでいかないか。部屋を取ってあるんだ、君の為に…」
テーブルの上に伸ばされた腕がボクの掌を掴む。汗ばんでいてなんかじっとりしてる掌だ。女を口説くのなんか手慣れてそうな下品な男の、舌なめずりするような視線がボクを舐めるように見る。いつものことだ。女に生まれたってだけで、いつもボクは被食者として見られる。性欲塗れの男どもに、頭からバリバリ食べられるカワイイ子ウサギちゃんみたいに見られるのだ。ボクの内面がどうであろうと関係なく。
だからボクはこう言うことにしている。にっこり笑って手を離して、今晩のディナーに対しての申し訳程度のお礼を言って、それから――
「パパが待っているから、もう帰るよ。君の歯の浮くような…失礼、過剰な賛辞はありがたいけどどうせならボクの演奏について一言でもほしかったかな。じゃあね」
ボクはがたんと席を立ち、唖然として見送る男をホテル付属のレストランに残したまま表へ出た。
腕時計を持っていないボクには正確な時間はわからないけど、だいたい2時間くらい後にと約束した通り、通りの向こうにはぴかぴかのポルシェが停まっている。シルバーの、シンプルな形のものだ。小走りで駆け寄るボクの背後で扉が開き、慌てて会計を済ませた男が追ってくる気配がある。
「待ってよ、まだ夜はこれからじゃあないか、別の店で飲み直そう、君が嫌なら部屋には上がらなくても…」
車通りのないがらんとした通りでがっしり腕を掴まれてしまう。男は必死の形相だ。まんまと巣穴に飛び込んできた獲物が逃げ出そうとしているのを逃してなるものかと追い縋っている感じ。悲しい捕食者の本能だねえ。
「言っただろう、ボクにはパパが待っているから…」
「誰がパパだ」
バタンと扉を閉じる音がして、つかつかと通りを横切ってこちらに向かって来た長身が、不機嫌そうな低い声を出す。
男がびっくりしたように腕の力を抜いた瞬間、すかさずボクは身を翻して長身の影に隠れた。スーツのジャケットは脱いだベスト姿で、高級そうな香水の匂いと、脳髄を痺れさせるように甘い彼自身の体臭がふわりと香る。子どもの頃からボクの大好きな、セデュの匂いだ。安心する…。
「だ、誰だね君は。僕と彼女のデートの邪魔をする気かい…」
「門限はとっくに過ぎている。こんな時間まで淑女を連れ回すとは、紳士のすることとも思えんな」
「門限って、そんな、子供じゃあるまいし…」
「ルーはまだ18だ。じゅうぶん子供だよ」
「そーゆーわけだから、ボクはこれにて失礼するよ! ベッドに連れ込みたいなら他の子を探してくれたまえ! じゃあね、良い夢を!」
すらりと背の高いセデュに凭れ掛かるように腕を組んで、ボクらはくるりと踵を返す。
呆然と立ち竦む男を通りに残して車に乗り込めば、男は通りかかったタクシーにクラクションを鳴らされていた。
「いやあ、ばっちりのタイミングだったねえ! 君が来てくれてよかったよ、あいつしつっこくてさあ、ホテルに連れ込まれてたら今頃ボクの貞操は呆気なく散らされていたね! いやー危なかった危なかった!」
助手席でけらけら笑いながら顛末を語るボクをじとりとひと睨みして、セデュはハンドルを回す。ボクの宿泊しているホテルを目指してくれているのだ。律儀にも。
「素性の知れない男について行くのはやめろといつも言っているだろう。行先がレストランだったからいいようなものの…」
「真っ先にホテルに連れ込まれてたらどうするんだって? さすがにそれは逃げるよーボクも」
「女の力でどれだけ抵抗できると思うのだ」
「声も出せるしさ。大声で叫べば助けてもらえるだろ? 誰かに」
「そもそもそういう危険を冒すなと言っている…」
「だってー、なにごとも経験だろう? 人生経験のゆたかさがボクの芸術の価値を高めてくれるのさ! 多分!」
「……」
ボクが芸術について語り出すとセデュは何も言えなくなる。彼はボクの芸術を愛しているからだ。ボクはいい気分になって言い募る。カーステレオからはリストのピアノ協奏曲第二番が流れている。…ボクがつい4時間前に演奏した曲だ。
「苦しみも悲しみも、喜びも愉しみも、すべてがボクの糧になる。ボクの養分になるんだ。今日の演奏もそうやってできたんだよ。君も聴いたでしょう、どうだった?」
「…素晴らしかった」
「やったね」
「英雄の凱旋のように壮大で、天上の調べのように繊細で、美しく、夢幻の彼方に我々を誘うような…」
「うんうん。そうだろうとも!」
「あの天使の羽搏きのような鮮烈な指遣い…女神の吐息のような甘やかな音色…」
「…きみに言われるとなんかうれしいな」
「…何か?」
「んーん。こっちの話」
「ホテルは、サンタ・マリア・ノヴェッラの近くだったな」
「そうそう」
信号で停車する車窓から夜のフィレンツェをボクは眺める。旧市街は中世のままの街並みが通りの両側から迫り、狭い夜空には星がちかちか瞬いている。
「君はどこに泊まっているの?」
「郊外の、別荘に…」
「わお。じゃあこれからそこに戻るの? 大変だねえ」
「…呼び出しておいてそれか…」
苦虫を嚙みつぶしたような仏頂面で言われてボクはにまにま笑う。ボクが呼べばこいつは地の果てだって駆けつけることを知っているからだ。
ボクのカラダには指一本触れないくせに、ボクをお姫様扱いして汚いものからなるべく遠ざけようとして、まるで過保護な父親みたいに、ボクを護ろうとして。
「直接、君の別荘まで行ってくれてもいーよ? どうせ明日は移動だし…」
誘いかけるように言ってやると、セデュがぐるんとボクを振り向いて、慌てたようにまた前を向く。動揺してるぞ。ふふふ、面白いなア。
「…お前の面倒は、ホテルまでだ。いいな」
「えー? それで足りるのお? せーっかく二人っきりの夜なのにい」
「お前はまた、そういうことを…ッ」
身体を擦り寄せるようにしてちょいちょい運転中の二の腕をつつくと、鬱陶しそうに振り払われる。吐息が熱を帯びて、車内がなんか暑くなってくる。
「なんかいけない想像しちゃった? ねえねえ、パパ、君の甘い声でもっと睦言きかせてよ…」
「誰がパパだ!」
清潔なスラックスに覆われた太腿に伸ばした指先を掴まれる。さっきみたいに振り解かれるかと思っていたら、躊躇うような掌はボクの指をぎゅっと握り締めた。大切な花瓶とか、柔らかい赤ん坊に触れるみたいに、慎重に。…慈しむように。
結局、ボクの指を握りしめたまま、片手で運転したセデュはホテルまでボクを送り届け、郊外へと呆気なく去っていった。
…ちょっとくらい部屋に上げてもよかったんだけど、あいつはまるでボクには関心がないみたいな澄ました顔して、そのくせ「また明日」とか、明日の巡業にも付き合う気満々の言葉を残して、行ってしまったのだ。




