003話 姉の優しさ
しばらくして、落ち着きを取り戻した流斗は、遥に尋ねた。
「なんで、俺なんかを助けたんだ? あんたは俺を捕まえるんじゃなかったのか?」
その問いに、遥が穏やかな顔で話し始めた。
「私も昔、母さんを亡くしていてね。父さんも仕事が忙しくて滅多に家に帰ってくることはないわ。私はあなたの資料を見たとき、少しばかり、あなたに自分の姿を重ねていた。そしてあなたと戦い、あなたの苦悩を知り、傷ついたあなたを見捨てられなくなったの」
戦っていたときとは打って変わった優しい顔で、遥は流斗に語る。
「あなたの実力にも少し興味があって、私のほうからけしかけたのだけど。途中からあなたが本気になってしまって、上手く手加減をすることができなかった。ごめんなさいね」
傷ついた流斗の体を遥が優しく撫でる。流斗はその姿を見て、遥に心を完全に許し、自身の新たな運命を受け入れた。近くで改めて見た遥の姿は、戦っているときは忘れていたが、やはり綺麗だと思った。そればかりか、たとえ嘘だとしても自分を救うと言ってくれた彼女を神々しくさえ感じていた。
「じゃあ、とりあえず、家に帰って流斗の手当てをしましょうか」
「……え? 家って?」
「私の家に決まっているでしょう」
流斗は、さりげなく自分のことを名前で呼ばれたことに驚いたが、それよりも、本当にこの人は自分を家族にするつもりなのか、と驚愕を隠し切れなかった。
「何を驚いているの? 家で養生したあとは、私自ら、流斗がもっと強くなれるように鍛え上げるつもりよ」
「遥さん、あなたは本当に俺を弟にするつもりなんですか?」
「さっきそう言ったでしょう。私の弟になるならば、もっと強くならなくちゃね。私、一人っ子だったから、昔から弟が欲しかったの♪」
遥の顔は一点の曇りもなく晴れやかで、嘘を言っているようには見えなかった。
「……っ、頑張ります。それで、少しでもあなたの側にいられるのなら」
流斗の目には新たな決意が漲っていた。
「それはいいのだけど、『遥さん』『あなた』ってさっきからなんで私のことを『お姉ちゃん』って呼んでくれないのかしら? あと敬語も禁止! これから家族になるんだから」
「それは……少し恥ずかしいです」
流斗がそう言うと、遥が頬を膨らませて睨んでくる。
「……え、えっと、わかったよ……姉さん?」
「うん。まぁ、今はそれでいいかな?」
語尾が少し疑問形になっていたが、遥はそれでも満足そうにうなずいていた。
「でも、俺は姉さんのことをほとんど知らない。本当に弟なんて務まるのか……」
「いいのよ、これから互いのことをゆっくり知っていけば。だって、私たちはもう家族なんだから」
遥が流斗に手を差し出してくる。
「じゃあ、帰りましょうか。私たちの家に」
喜びで滲む世界の中に、神崎遥の手があった。流斗はその手を強く握る。決して離さないように、離れてしまわないように。手を取って歩き出した、遥の孤独に揺れる横顔を見て、流斗は必ずこの人を守れるほど強くなってみせる、と心に強く誓った。
◇ ◇ ◇
《スラム街》から二十キロほど離れたところに、その家はあった。
家というよりは、屋敷とでも呼んだほうがいいサイズのものだ。
「大きい……! 本当に、ここに住んでいるのか?」
流斗は、その和風の建物の大きさに驚きを隠せない。
「そうよ。そんなに驚くことかしら」
遥は当然自分の家を見慣れているため、当たり前のような顔をしている。
大きすぎる門をくぐり抜けて玄関に着くと、給仕服を着た一人の女性が流斗たちを出迎えた。その女は遥よりも十センチほど背が高く、髪は短く切りそろえられている。流斗には、彼女の歳は二十代後半くらいに見えた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「ただいま、香織さん」
香織が一礼し、遥はそれに軽く手を振る。
「お嬢様、そちらの方は?」
香織が傷ついた流斗の姿を見て、不思議そうに尋ねた。
「この子は流斗。私の弟になる子よ。詳しいことは彼を治療してから話すわ」
遥の言葉に、香織は驚きのあまりあっけにとられて我を忘れていた。
「なんかすみません、お邪魔します」
訳もわからず、とりあえず流斗は頭を下げておいた。
「……わ、わかりました。いえ、本当はわからないことだらけなのですが、まずはその方の治療を先に致しましょう」
香織は治療の準備があるのか、その場を離れていく。
「今の人は?」
「……ん? 彼女は立花香織さん。この家に仕えてくれているメイドさんよ」
流斗の疑問に、遥が今思い出したかのように説明する。
「とりあえず、今はあなたの治療が先よ。思ったよりダメージを与えちゃったからね」
流斗は遥に連れられて長い廊下を歩き、ある一室に入る。
そこには、様々な簡易の医療器具や薬に洗面台と大きなベッドが一つあり、すでに香織が治療の準備を済ませて、部屋の隅に立っていた。
「すみません。お願いします」
流斗は再び頭を下げ、ベッドの隅に腰をかけた。そうして流斗は、ひびの入ったあばら骨や腕に負担がかからないよう、遥と香織に固定してもらう。
その後、多数の切り傷や擦り傷を消毒し、体のあちこちにガーゼや包帯を巻かれた。
「これでよしっ!」
「いてっ!?」
遥が包帯を流斗に巻きつけて固く結んだ。流斗は完全にミイラ男の様になっていた。
「疲れたでしょう? ついでに少しそこのベッドで休んだらどうかしら。夕食の時間には起こしに来るから」
「そこまで世話になるわけには」と流斗は遠慮をし、腰をかけていたベッドから立ち上がったが、遥に軽く体を押されてベッドに押し倒される。
「うっ……」
「ほら、全然体に力が入ってないじゃない。こういうとき、弟は姉に頼るものよ。少しは私に甘えなさい」
その言うと、遥は香織を連れて部屋から出ていき、流斗はこの部屋で一人きりになった。
知らない部屋の知らない天井だ。でも、なぜか心が落ち着く。
「弟……か。俺は生まれてからずっと、長男として厳しく鍛えられてきたから、誰かに甘えるなんて経験したこともなかったな」
流斗以外誰もいなくなった部屋で、彼の呟きだけがやけに響く。
「……姉さん……姉」
遥が言った『弟は姉に頼るもの』という言葉を脳裏で反芻する。
(俺も……誰かに甘えてもいいのか? あの人に頼っても、いいのかな? でも、今までずっと一人でやってきたのに。なんか、体が重い。今は……休んでも……い……)
やがて、流斗は今までの疲れが一気に出たように、深い眠りに落ちていった。